医学界新聞

寄稿

2011.01.10

【新春企画】

♪In My Resident Life♪
失敗是成功之母


 研修医のみなさん,あけましておめでとうございます。レジデント・ライフはいかがでしょうか? 病院選びに失敗して後悔,手技が下手で怒られてばかり,コミュニケーションがうまくとれない……。でも大丈夫。中国のことわざにもあるとおり,「失敗是成功之母」です。うまくいかない毎日でも,あきらめずに努力すれば,実を結ぶときが必ず来ます。

 新春企画として贈る今回は,人気指導医の先生方に,研修医時代の失敗談や面白エピソードなど"アンチ武勇伝"を披露してもらいます。

こんなことを聞いてみました。
(1)研修医時代の"アンチ武勇伝"
(2)研修医時代の忘れえぬ出会い
(3)あの頃を思い出す曲
(4)研修医・医学生へのメッセージ
村川裕二
菊地臣一
木村眞司
須藤博
大曲貴夫
青木信彦
池田正行


真冬の海で2週間の船酔い,3秒で決めた将来

村川裕二(帝京大学第四内科教授)


(1)「怖くなさそう」という理由でお世話になった臨床研修先は,東京大学第二内科と物療内科。物療内科に世話になっていた研修医2年目,1982年のある日,中堅医局員の中島一角先生(現・東京都赤十字血液センター)が医師勤務室にやって来て,「船に乗らないか」と私に勧めます。ご本人が大学の研究船の船医を務めるポストにあったのですが,その貴重な機会を「君にもちょっと分けてあげよう」という触れ込みでした。船酔いが恐くてためらっていると,関西出身の平井浩一先生(後の東京大学助教授)も一緒になって「言うことを聞いといたほうが身のためや」と言い含められました。大阪弁で勧められると断りにくいのです。結局,真冬の太平洋で2週間連続の船酔いという貴重な経験をさせていただきました。つらい目に合うと,もののありがたみがわかります。例えば揺れない地面や,塩っぽくないお風呂など。

 このお二人からは別の折にも「半年ほど静岡で修行しておいで」と勧められ,藤枝市の病院に研修に行きました。7月の暑い日に,着の身着のままで病院にたどり着くと「ほんと何も持ってきとらんずら?」と医局のおばさんは感心して,布団など面倒を見てくれました。その病院の給与はそれまでの薄給のおよそ4倍もあり,使い切るのが大変でした。

 最後の研修は東京大学第二内科にて2度目のローテーション。同じところを回ればストレスが少ないと考えたのです。やがて研修期間満了の春が来ます。どこに入局するかまったく決めていません。ふびんに思った第二内科心電図研究室の先生が,廊下ですれちがったときに「行くところがないなら,うちに来なさい」と拾ってくれました。返答に3秒しかかかりませんでした。

 「あれこれ情報をそろえて,身の振り方を思案する」というのが真っ当でしょうが,「いずくも同じ秋の夕暮れ」とぼんやりしている者もいるとご理解あれ。人の目を引く仕事をされた方は,それなりの転機をつかまれるのでしょうが,当方には「これは」というエピソードもありませんので,そのころの雰囲気を書かせていただきました。

(2)指導医はどの先生もありがたい方ばかりでした。細かいことをチマチマ教えるのではなく,「何かあったら何とかしてやる」という心意気で安心感を与えていただきました。本当に「何とかしてもらえるのか否か」を確かめる機会は幸いにもありませんでした。

(3)病院に出かける前にシャワーを浴びながら矢沢永吉のテープを聴きました。家を出るころには唇が尖ってきます。

(4)「若いうちに幅広い領域の手技を身に付ける」というのもあるでしょうが,あまり手を広げることはお勧めしません。あるレベルをクリアしないと,その技術を実地に用いることはできません。とりあえず「何か一つできる」だけで立派です。


深夜に鳴り響いた火災報知機,素手でキャッチした赤ん坊

須藤博(大船中央病院 総合内科部長)


(1)レジデント時代は,とにかく常に睡眠不足だった。カルテを書きながら病棟やICUの机で寝てしまうのは日常茶飯事。スタッフの先生から説教を受けている最中に居眠りをして,さらに叱られたこともあった。

 夕食を取り損ねたある日の深夜,医局でカップラーメンを食べようと湯を沸かそうとしたときのことである。コンロの付け火の調子が悪いらしく何度も点火を試みていたところ,狭い調理室に一瞬ぼわっと大きな炎と煙が立ち上った。次の瞬間……病院全館に大音響で非常ベル音が鳴り響いた。「何,何なんだ? このベルは?」とカップラーメンを手にして首をかしげていると,当直婦長や事務当直が自分に向かって走ってくる。「そこだ~!」と大騒ぎになって火災報知器が感知したことを知った。消防署へ誤報の連絡をしてもらうわ,婦長さんには大目玉を食らうわ,散々であったのは言うまでもない。

(2)研修1年目の産婦人科ローテーション中のことである。その日はER当直であったが,産科病棟から「先生!! 大至急来てくださいっ!」と緊迫したコールが入る。当時産婦人科では,原則として毎日オンコールで夜間にお産があれば駆けつけることになっていた。ただしER当直の夜は例外で,その日はコールがないはずだった。ただならぬ様子に(何で呼ばれるんだよ……)と少しむっとしながらも病棟に急いだ。

 しかし,そこで目にした光景にそんな気分もふっとぶ。陣痛室からうめき声が聞こえ,産気づいた妊婦さんが車いすに乗っている。足の間からすでに赤ん坊の頭が見え始めている。こちらも大慌てで「落ち着いてっ!! ゆっくり息をして……」などと声をかけるが,陣痛が始まった妊婦さんにはこちらの制止は聞こえていない。分娩台にのせる余裕もない。妊婦さんの足下にしゃがみ込んだ次の瞬間,赤ちゃんが「つるん」と出てきてしまった。手袋をはめる間もなかった。(うわぁっ!! 落としてはいけない!!)と必死の思いで赤ちゃんを素手で受け取った。そのときの「ぬるん」とした感触と「落とさないでヨカッタ……」という安堵感は今も鮮明に覚えている。

 臍帯の処理をして赤ちゃんを看護婦さんに手渡した,まさにそのとき,連絡を受けた産婦人科スタッフの先生が到着したのであった。あのときの赤ちゃんも,とうに成人しているはずだが,どうしてるだろうかと今でも時々思うことがある。

(3)大瀧詠一『君は天然色』。今年3月にこの曲を収録したアルバム『A LONG VACATION』の30周年記念盤が出る予定。もちろん予約済み。

(4)自分が好きなことをやる。そして自分がしていることを好きになること。何をやりたいのか,それを探し続けること。見つけたら後は振り返らないこと。

 レジデント時代はつらいことも多かったが,自分は不思議に辞めたいと思ったことは一度もない。「その時点で」自分が選んだ道が最良の選択である。たとえそのときにはわからなくとも,どんなことにも意味があり後で役に立つ。そう信じることである。


「教わり上手」「教えさせ上手」

青木信彦(東京都立多摩総合医療センター院長)


(1)私は1970年に東北大学を卒業しました。当時はインターン制度が廃止されて間もないころで,学園紛争の真っただ中でした。卒業式もなく,私たちのクラスは入局反対・医局解体を決議して,各地へ散っていきました。当然,私も入局せず,個人交渉でいくつかの市中病院で消化器外科,心臓外科,整形外科の研修をしました。

 そして最後の半年ほど船医として西アフリカを航海した後,1972年に(旧)都立府中病院で脳神経外科の研修を開始しました。しかし,研修とは名ばかりで,ただ見よう見まねで医療を行うという毎日でした。また,脳神経外科臨床に関しての教科書と言えるものもなく,「耳学問」が最も重要な勉強などと言われる時代でした。やはり,医局に属さずに一人前の専門医になることは必ずしも容易ではないようでした。

 しかし,人間は「何かが不足する」とそれを「何かが補う」ように発達するようになります。教育システムなどというものはなく,よほどのことがないと教えてくれる人はいないので,必然的に人並み以上の「教わり上手」「教えさせ上手」になる能力が備わるようになりました。

 さらにもう1つ,自分より若い医師から積極的に「教えてもらう勇気」を持つことが必要だと気づきました。どうみても自分より経験の少ない若い医師からも,「教えてもらえる工夫」をするようになりました。よくよく考えてみますと,「その若い医師から教えてもらう」というよりも,「その若い医師を指導したベテラン医師から間接的に教えてもらっている」ということがわかりました。私は都立府中病院にとどまりながら,1年あるいは半年ごとに各大学から派遣される若いローテーターからたくさんのことを学びました。

 このように無我夢中で,資格だけではない本物の専門医をめざしていたころ,ふと振り向くと,大学の同期の友人の多くが医局に入っていることを知りました。「人間とはそんなものかな」と思うとともに,やはり「医局に属さないと本当の一人前になれないのかな」などという不安もありました。ちょうど10年目のころでした。

 しかし,私はマイペースの道を選びました。そのころから積極的に論文を書くようにしました。医局という大きな樹の下で活躍している同輩に負けまいという意地です。論文は英文で発表しました。国際誌は公平なジャッジをするし,英語は理論的な言語なので考え方を整理するには適していると感じました。その後10年ほどは臨床の合い間を見つけて,「1日1行でも筆を進めれば,いつかは完成する」という信念で大量の英文論文を作成しました。その研究対象はすべて自分で経験した臨床の中から生み出したものです。試験管もネズミも使わずに,「知恵」だけで勝負する「無手勝流」です。

(4)卒業して40年経った今,自分の非「医局」を振り返ってみました。良かったのは,「自由度」の高いことでしょう。論文や学会発表はsingle authorで,その内容は自分の好きなものを選びました。また,どんな学会でも誰かに遠慮することなく,自由に発言できます。一方,デメリットも多数です。やはり,未熟なうちから1人で何もかも背負い込むので,そのストレスは人一倍となります。持病の十二指腸潰瘍を繰り返し(残念ながらH2ブロッカーのなかった時代)幽門狭窄が進行して物が食べられなくなり,胃切除を受ける羽目になりました。

 このように医師としては,非「医局」ということで,何かを失って,何かを得ました。これは入局ということに限らず,人生で「道」を選択するときに必ずついて回ることです。「良かったこと」と「悪かったこと」を足して半分に割ると「結果はいつも同じ」のようです。「人生」は予測不能な出来事の連続で,「人間万事塞翁が馬」なのだと思います。


一晩中,アンビューバッグを押し続けた夜

菊地臣一(福島県立医科大学理事長兼学長・整形外科学)


(1)私の医師としてのスタートは,生涯忘れられない患者さんとの出会いから始まった。この患者さんは36歳の女性,M.Iさんであった。上肢のしびれと下肢から上肢へと拡がる麻痺を主訴として1971年8月2日に整形外科病棟へ入院してきた。この年の5月の連休明けに入局して3か月しか経過していない私が担当医となった。当時は,グループ制とは名ばかりで,1年目で入院患者さんを担当していたのだ。この患者さんは,10日後に突然,換気不全と循環不全に陥り,ICU(当時はICUという名称は許可されず,中央病棟と言っていたが)に収容された。

 ICUなど入ったこともない新人医師が,看護婦さんや外科医にバカにされながら,言われるままに指示を出し,処置をした。実際,指示の出し方も処置の仕方も知らなかった。気管切開後,当時最新鋭の機器である人工呼吸器が接続された。ところが運の悪いことに,その日の夜8時ごろに人工呼吸器が故障してしまい,用手で人工呼吸を行う羽目になった。予備の人工呼吸器はなかったのである。私は,アンビューバッグで一晩中,人工呼吸を続けた。ひとりで続けていた私を見かねて,年長の看護婦さんが,午前5時に「トイレに行ってきなさい」と5分間だけ代わってくれた。朝8時までバッグを押し続けた。患者さんが,この間ずっと,私を見続けていたのが今でも鮮明に目に浮かぶ。

 このトラブル以来,私に対する看護婦さんたちの態度が一変した。バカにしたような態度は影をひそめ,親身になって面倒をみてくださるようになった。

 ある日,この女性の胸部X線を麻酔医に求められて探してみたら,撮影されていなかった。撮影する暇もなかったのだが,言い訳はできなかった。やむを得ず,前医である2つの医療機関を尋ねて胸部X線を貸していただいた。患者さんにかかりきりになっている間,この作業をひとりでやっていたのである。先輩の不親切さ(大学紛争後は"自主研修"が合言葉であった)と組織としての連携の不十分さが深く心に残った。

 人工呼吸は527日間に及んだ。私は1979年に大学を辞めたが,その後もこの患者さんが気になっていた。そこで当時勤務していた東京の病院の神経内科医に診察を依頼した。精査加療が必要とのことで,自衛隊のヘリコプターで東京の病院へ搬送した。当時,その病院の麻酔科部長が病院関係者に非難されたそうだが,結果的にはこの英断が患者さんを救うことになった。

 最終診断は,大後頭孔部の脊髄腫瘍であった。入院時,脊髄造影(当時は油性造影剤)は行っていたが,頭頸移行部は観察しなかった。そんな可能性を考えていなかったこと,そして油性造影剤が頭蓋内に入ると抜去しにくくなるのではということが,発見が遅れた要因の一つだったように思う。

 患者さんは,手術により完全に回復した(先年,他疾患によって逝去された)。今から振り返ると,この患者さんとの出会いが,神経学,神経解剖,そして脊椎・脊髄外科へ自分を導いてくれたのだと思い至る。

 この患者さんは元気になってから,私が毎週,解剖研究のために福島の母校へ行くときに合わせて会いに来てくれた。人工呼吸器装着中の安心しきった眼差しと笑顔を思い出すと,今でも心にさざ波が立つ。余談だが,高額な医療費のため,地元の役場では補正予算を組んだとの話を後に聞かされた。

病棟での創処置(研修医1年目)
(2)カナダ・トロント大学ウェールズリィ病院のMacnab I教授に出会わなかったら,現在の自分はないという意味で,私にとって忘れ得ぬ人である。大学紛争の余燼くすぶる研修医時代,整形外科は自治会なる組織が教室を運営していた。私にとっては,将来に何の希望も持てない日々であった。父が急逝し,開業の夢も消えた。こんな時期に目にしたのが,彼の2編の論文であった。誰でも見ているX線写真,誰でも行っている手術,しかし,その中から論文に提示した事実を発見したのは彼一人である。

 何度かの手紙のやり取りの後,英語が全くできない状態での「押しかけ弟子」になることができた。移民国家である北米では,英語ができないことは無能を意味する。悔しさと情けなさに二度ほど,彼の教授室のトイレで泣いた。その様子をみていた彼は,「Shinよ,心配するな。人間は努力できるのも才能の一つである。それは他人に誇り得る財産の一つである」と励ましてくれた。この言葉が自分の人生を変えた。彼からは,患者をトータルとしてみる(痛みでなく痛みを持った人間を看る)ことをたたき込まれた。

(3)索漠とした大学での研修時代(自分の不徳の致すところも大であるが),当時流行っていた「誰もいない海」(渥美マリで,本命盤であるトワ・エ・モアでない!),「喝采」(ちあきなおみ),「別れの朝」(ペドロ&カプリシャス),「時代」(中島みゆき)などの歌が居酒屋や車の中で流れていたのが心に残っている。留学中は「マイボーイ」「セイリング」「男が女を愛する時」などをよく耳にしていた。ただ,留学中に,日本にいたときには聴かなかった演歌に聴き惚れ,好きになってしまったことを,今は懐かしく想い出す。

(4)愚直なる継続


心ある人の支えの中で

大曲貴夫(静岡県立静岡がんセンター感染症内科部長)


(1)当たり前だが,私は医学生や初期研修医に対して言いたいことを言うようにしている。時には厳しく聞こえるらしい。理由はおそらく,自分自身が不勉強でだらしなく社会性に欠けた医学生・研修医であったからだろう。反動というものだろうか。しかし今の臨床研修制度の枠組みのなかでは,少々お小言を言うと,研修医から指導医への不満として研修管理部門に報告されてしまい,やりにくいと伺ったことがある。指導医の先生方のご苦労をお察しする……。私はその枠組みの外にいるので,あまり気にせずモノを言わせていただいている。

 さて,研修医時代の私だが,卒後研修先の学科試験では合格者のビリに近かったと聞いたことがある。うすうすそうかもしれないとは思っていたが,実際に事実であると聞かされると心理的なダメージは大きい。症例提示もマトモにできない。学生時代は冗長なプレゼンでも許されたが,仕事としてのプレゼンは簡潔明瞭,当意即妙であるべき。しかし全然できなかった。

 何よりたちが悪いのは,関心のあることにしか力を注がない研修医であったことだ。やりたいことには並々ならぬ関心を示す。しかし,自分の関心を引かないことや面倒くさいことは徹底してサボる。例えば,不定愁訴や恨み言の多い患者さんへの回診を平気ですっとばしたりする。しかし人間としての味も深みも中身もないくせにプライドは人一倍高く反発心は旺盛。自分の勘定に合わないことに対しては徹底拒絶。何ともコドモじみていた。社会性に欠けていた。ということで,指導医の先生方からは専門的知識や技術というよりも,コドモへのしつけレベルの指導を多々いただいた。

(2)そういう社会性に乏しい不出来な研修医の私を,根気強く指導してくださったのが種田憲一郎先生(現・国立保健医療科学院),星哲哉先生(現・手稲渓仁会病院)のお二人である。初期研修から米国留学,そして今に至るまで,あらゆる面でご指導をいただいている。お二人の指導内容は理に適っており,学生上がりで生意気盛りで反発心旺盛な自分であっても,しっかりと腹に落ちて心から納得できるものだった。

(3)Mr. Childrenの『Everything(It's you)』。「世間知らずだった少年時代から自分だけを信じてきたけど 心ある人の支えの中で何とか生きてる現在の僕で……」。田舎から東京に出てきて痛い目に遭うなかで,この歌詞の意味が妙によくわかり,強く共感したことを今でも覚えている。

(4)最近の医学生・研修医は,それはそれはよく勉強している。しかしそれだけでは,医療の世界では通用しない。それ以前に,大人になるべき。しっかりとした社会性を,ぜひに身に付けていただきたい。怒られてもいい。肥やしにすればいい。そのうち時期が来れば,誰も怒って(指導して)くれなくなる。それは「言ってもしょうがない」「言っても怒るから面倒」など理由はさまざまだ。ただ覚えておいてほしいのは,そのとき出来上がっている自分に責任を負うのは,恐ろしいことに,自分だけなのだ。


内なる審査官の暴言に耐える引きこもり愛好症&弱点克服ゲーマー

池田正行(長崎大学教授創薬科学)


(1)幼いころから,私は重症の引きこもり愛好症でした(と一応過去形にしておきます)。母親は,果たしてこの子はまともな社会生活が営めるのだろうかと,ひどく心配したものでした。将来は内閣府の奥まった一室に引きこもって世論操作の仕事がしたいと思っていたぐらいなので,自分が医者に向いていないことはわかっていました。ご多分に漏れず趣味はゲームで,一番得意だったのが,苦手科目克服ゲームで偏差値を上げることでした。ですから,医学部に合格したときは大喜びでした。医者になる過程で引きこもり愛好症が克服できる。キャリアをおもちゃにした弱点克服ゲーム上級編へ進めると思ったからです。

 何しろ,筋金入りの引きこもり愛好症です。現場へ出るようになってからも,毎日毎日,「精進しろ」「勉強が足りない」と,私の中にすむ審査官が,私を責め続けました。そして,いつも最後に出てくる,あの決まり文句。「医者が自分の天職だと思えないのだったら,医者なんか辞めちまえ!」。彼のそんな暴言が,当初はひどくこたえました。何度辞めようと思ったことか。しかし,私にも弱点克服ゲーマーの意地がありました。彼に向かって,「引きこもり愛好症で何が悪い」と怒鳴り返して開き直ったり,「勝手にほざけ」とひたすら沈黙したりしているうちに,彼をしばらく玄関先で待たせておくと,「幻聴さん」みたいに帰ってくれることがわかりました。

研修医時代,病棟婦長とのひとコマ。基本中の基本である現場のKey personとのコミュニケーションの在り方を学んだ。
 自分は医者には向いていないと思ったからこそ医者になり,自分は医者には向いていないと思ったからこそ医者を続け,卒後30年近く経って,やっぱり自分は医者には向いていなかったと気付く。そう気付いたときに,決してがくぜんとせずに,ほっとしている自分を見いだして,ああ,やっぱり自分は医者をやっていてよかったと思えました。その理由は,内なる審査官による長年の拷問に耐えた英雄気取りなのか,あるいは,彼の暴言には何のエビデンスもなかった事実に気付いた喜びなのか,実はよくわかりません。

(2)はつらつとして働いている(ように見えた)お医者様たちに嫌と言うほど出会って,自分はああはなれない,やっぱり自分は医者に向いていない,臨床なんてやるんじゃなかった,と来る日も来る日も医者を辞めようと思い続けながらも,なんとか辞めずに済んでいる自分との出会い。ひょっとしてこいつは大物かも,と思いました。

(3)1982年5月,私のキャリアスタートと同時に世に出た,サザンオールスターズの『匂艶(にじいろ)THE NIGHT CLUB』です(ちなみに桑田佳祐は私と同い年です)。当直室で震えながら,いつになったら「下心で胸が張り裂けそうなMonday」を経験できるのかと思いながら,いまだ経験できずに30年近くが経ってしまいました。

(4)医者はいったん辞めてもまた戻れます。つまり,いつでも辞められます。ですから,安心して医者を続けてください。だけど,人間は辞めないでくださいね。戻れませんので。


「すごく優秀ってわけじゃないんだけど,なんかいい」

木村眞司(松前町立松前病院(北海道)院長)


(1)研修1年目(1989年)は,米海軍横須賀病院でインターンをしていた。5日に一度のER当直のときのこと。私は怖い顔つきをしている(らしい)ので微笑むようにと心がけていた。が,ERを受診した子どもの母親が,"Why are you laughing at me?"と怒っている。自分では微笑みをたたえていたつもりなのに……。まだ口角を上げる米国流の微笑みではなかったのだろう。反省反省。

 2年目,茅ヶ崎徳洲会総合病院で「2年目1年」の研修をしていたときのこと。既に横須賀で産婦人科ローテーションをしていた私は,産婦人科ローテーション中,指導医から一目置かれ,産後の会陰裂傷の縫合も任されていた。で,あるひどく裂けた患者さんの縫合を何とか終えたあと,指導役の高木芳武先生(現・(株)ジェネティックラボ)にみせたら,「とほほ」という顔をされて,すべてやり直しをしていただくことになってしまった。

 後日だったと思うが,高木先生は病院の近くのお店「繁や」でご馳走してくれた。曰く,「木村先生ってすごく優秀ってわけじゃないんだけど,なんかいいんだよねー」と言ってくださった。この言葉が非常にうれしかった私は,20年経った今でも,この言葉を励みにしている次第。

 同じく2年目,大和徳洲会病院でのこと。間質性肺炎を患った「カネさん」という患者さんがいた。心配性のカネさんに予後を問い詰められ,思わず「治らない」と言ってしまった。「この病気と一生付き合っていかなければならないんですよ」と。翌日,烈火のごとく怒った妹さんが怒鳴り込んできて,「こんな年寄りに治らないなんていうとは何事ですか!!」。隣ではカネさんが「木村先生が『治らない』って言ったぁ……エンエンエン」と泣き叫んでいた。取り繕うのが大変で,今でも冷や汗が出る。

ユニオン病院の家庭医療センター前にて
 3年目,米国インディアナ州テレホートのユニオン病院家庭医療科でまたまた1年目研修医をしていた私。外科のローテーションで,「術前に鎖骨下静脈カテーテルを入れてくれ」と外科医に言われた。なかなか入らず,結局反対側から入れた。患者さんは70代女性で,ストーマに大きな癌ができていた。術後,その方は両側気胸になり,集中治療室に送られ,結局亡くなってしまった。弱っていた方とはいえ,亡くなるきっかけを私がつくってしまったのは一生悔やまれる。今日の失敗は,明日の患者さんのために生かすということだろう。

 同じくテレホートでの話。当時,私のいた研修プログラムでは,当直明けの医師は昼の12時で帰っていいことになっていた。が,前夜の当直で何人かの入院患者を受けたので,当然のごとく業務は昼では終わらなかった。 「働けば働くほどよい」という価値観で生きてきた私(今でもそうである)は,夜の8時まで仕事をし,帰路に就いた。とぼとぼと歩いていると,スーッと車が真横に止まり,見るとプログラム副ディレクターのスティーブンズ先生がにらんでいる。「今,帰るところか?」。(ほめられると思い)「はい! いろいろやっていたら時間がかかっちゃって」「Shinji, we'll have to talk about that. You're supposed to go home at noon post call.(ちょっと今度じっくり話をしなくちゃな。当直のあとは昼で帰ることになっているんだぞ)」と注意された。価値観の違いを思い知らされた。が,洋の東西を問わず,働き虫を高く評価する人は多い。

(2)たくさんの指導医,先輩,同輩,後輩に恵まれた。あえて挙げれば,ユニオン病院の当時のプログラムディレクターのジェイムズ・ビュークラー先生。全くコネもない日本人,しかも「将来は北海道のへき地医療をやります」と言っている日本人を採用し,鍛えてくれた。毅然としたリーダーシップにも非常に多くを学んだ。

 亀井徹正先生(現・茅ヶ崎徳洲会総合病院)。米国から帰国後,頭痛や良性発作性頭位性めまいをはじめ,さまざまなことをご指導いただいた。亀井先生との出会いなくして今日の私はない。

(3)1年目のとき同期だった穂積大陸(だいりく)先生に勧められた,ベット・ミドラーの"Beaches"(サントラ盤)。同じくその年のマドンナ"Like a Prayer"。2年目の暑い暑い茅ヶ崎で聴いたサザンオールスターズ『真夏の果実』。これらを聴くと,20年前の,先が見えず模索していた日々,一生懸命な日々を思い出す。

(4)いろんなところで修行をし,自分の世界を広げてほしい。医学雑誌(BMJなど)を毎日読んでほしい。

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