乳癌検診をめぐる大論争(2)(李 啓充)
連載
2010.03.01
〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第169回
乳癌検診をめぐる大論争(2)
李 啓充 医師/作家(在ボストン)(2867号よりつづく)
前回までのあらすじ:2009年11月,合衆国予防医療タスクフォースがマンモグラフィの開始年齢を遅らせるだけでなく回数を減らす新ガイドラインを発表した途端,患者・医師から「乳癌患者に死ねと言うのか!」とする怒りの声が噴出した。
「エビデンスに基づく議論」の難しさ
新ガイドラインが患者や医師の怒りを巻き起こした原因の一つが,「ルーティン」というキーワードが省略して伝えられたり解釈されたりするなどして,その内容が誤解された点にあったことは前回も述べた通りである。
しかし,ガイドラインの内容が誤解された点については,タスクフォースも責めの一端を担わなければならないだろう。なぜなら,学術誌に発表されたことでもわかるように,ガイドラインは「学術論文」の形式と言葉で書かれ,一般市民にとっては「外国語」と変わらないものだったからである。内容が「翻訳」される過程で誤解が拡大したのだが,ガイドラインの変更で大きな影響を被る当の患者に「理解していただく努力」が不足していたことは否定し得ない。
さらに,新ガイドラインは,患者だけでなく,医師の間にも大きな怒りと混乱を引き起こした。今回のガイドラインがエビデンスに基づいて作成されたものであることは前回も説明したが,「エビデンスに基づく議論」が自らの経験や直感と相いれないとき,冷静に議論することを忘れて,怒ったり抵抗したりする医師や医学者がいまだに多いことをあらためて見せつけたのだった。
そもそも,医師や患者が新ガイドラインに対して怒ったのは,彼らが「マンモグラフィは乳癌患者の命を救う」と信じ込んでいたからにほかならないが,マンモグラフィは彼らが信じるほど「完璧」な検査法でないことは周知の事実である。例えば,40-69歳の女性にマンモグラフィを施行することで得られる御利益(=乳癌死減少率)は「15%」という極めてmodestなものでしかない(註1)。
忘れてはならない「偽陽性の害」
一方,マンモグラフィの「偽陽性」率が高いことは,notoriousといってよい。フレッチャーら(註2)によると,米国でマンモグラムが「陽性」と読まれる頻度は11%であるが,「陽性」患者のうち実際に癌が発見される頻度はわずか3%にしか過ぎない(全マンモグラムでは0.3%)。換言すると,マンモグラフィを受けた患者が実際には癌ではないのにスクリーニングで「陽性」とひっかかる率は10.7%という高率に上る。さらに,10年間,毎年マンモグラフィを受け続けた場合,患者が「偽陽性」故に「異常」と告げられる確率は約50%(二人に一人!)に上るのである(図)。
図 患者1000人が10年間マンモグラフィを受け続けた場合に起こること |
偽陽性故にスクリーニングでひっかかった患者が被る「害」は,生検等の不必要な検査を受けたり,不必要な治療を受けたりすることにとどまらない。患者は「癌の疑い」を告げられたことによる心理的ストレスに晒されることも忘れてはならないのである。
タスクフォースは,死亡率減少効果15%というmodestなベネフィットと,高率な偽陽性率故に生じる「害」を考慮した上で,「40歳から毎年」実施してきたルーティン・スクリーニングを「50歳から2年に一回」と改めたのだが,この変更は決して突飛な物ではなく,実は,他の先進国における「常識」に近づけたものに過ぎなかった。
米国だけが「40歳から毎年」という特殊な検診体制を採用してきたのだが,英米550万件のマンモグラフィ結果を比較したスミス・ビンドマンら(註3)によると,「毎年」の米国での陽性率は「2年に1回」の英国の約2倍に上ったのに対して,乳癌の検出率にほとんど差はなかったのである(註4)。
というわけで,新ガイドラインの指針は冷静にエビデンスを検証した場合,極めて理にかなったものであった。しかし,「乳癌患者に死ねと言うのか!」とする患者・医師の怒りは凄まじく,ついに,政治が介入する事態へと発展したのだった。
(この項つづく)
註1:Screening for breast cancer: U.S. Preventive Services Task Force recommendation statement. Ann Intern Med. 2009;151(10): 716-26.
註2:Fletcher SW, et al. Clinical practice. Mammographic screening for breast cancer. N Engl J Med. 2003;348(17): 1672-80.
註3:Smith-Bindman R, et al. Comparison of screening mammography in the United States and the United kingdom. JAMA. 2003;290(16): 2129-37.
註4:英米の陽性率が2倍も違った理由としては,両国の精度管理の仕組みが大きく異なることも考えなければならず,検査頻度の違いのみで説明できる差ではないことに留意されたい。
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