医学界新聞

寄稿

2010.01.04

【寄稿】

わが国の救急外傷治療体制の充実に向けて

松下 隆(帝京大学教授・整形外科/「運動器の10年」日本委員会運営委員長)


 わが国の外傷の救急治療は先進国の中で完全に立ち遅れている。交通外傷のような鈍的外傷は,受傷後1時間以内に適切な救命処置が行われるか否かによって生命予後が大きく左右される。それにもかかわらず,首都圏においてさえ,重度外傷の適切な治療が受傷後30分間以内に開始される確率は極めて低い。多くの先進国では,外傷専門医が交代勤務し24時間体制でどのような外傷でも受け入れる外傷センター網がある。日本では,そのような外傷に対しては三次救命救急センターが対応しているが,重度外傷に対応できる外科系医師が常時交代勤務し,常時緊急手術ができる体制が整っている三次救命救急センターはない。

“避けられた死”をなくすために

 2007年の統計によると,交通事故による死亡は1970年まで増え続け1万6765人に達したが,その後減少に転じ,2007年の死亡者数は5744人と1970年のおよそ3分の1にまで減少した。ただし,交通事故死とは事故後24時間以内の死亡であり,これを30日以内の死亡まで拡大すると死亡者は6639人に増加する。交通事故死がピーク時の3分の1に減少して救急外傷治療の問題は解決したと考える人も多い,本当だろうか,そして外傷の治療は命さえ助かれば十分なのだろうか。

 わが国の救命救急センターにおける修正予測外死亡症例の割合
修正予測外死亡症例とは,予測外死亡数から,GCS(Glasgow Coma Scale)5以下の急性硬膜下血腫および80歳以上の救命困難な症例を除いたもの。各年とも,予測外死亡症例の約38%が,“避けられた死”であったと考えられる。
*出典:島崎修次他. 2001年度厚生労働科学研究「救命救急センターにおける重症外傷患者への対応の充実に向けた研究」

 外傷治療においては救命に加えて,運動器の機能を元に戻すことも重要である。2005年の統計では5万4585人に後遺障害が発生している。6639人の死亡や5万4585人の後遺障害は本当に防げなかったのだろうか。2001年度厚生労働科学研究「救命救急センターにおける重症外傷患者への対応の充実に向けた研究」などによると,外傷による死の約38%は“避けられた死”(Preventable Trauma Death, PTD)であったと報告されている(図)。すなわち十分な救急医療体制があれば,交通事故による死者の中にも救命可能な方が多く含まれていたのである。

外傷治療の周知と人員確保を

 2003年の資料によれば救急搬送人員数457万7千人のうち外傷患者の割合は26.4%である。したがって,救命救急センターの医師のうち,外傷専門医は約4分の1程度にすぎない。外傷外科医は救急センターでは,全ての疾患に対応する4-8回/月の当直業務に加えて,外傷外科医として緊急手術にも対応せねばならず,オンコールの回数が多くなる。

 外傷外科医は,このような過酷な労働環境で外傷患者への対応しなければいけない状況にあり,外傷外科的治療に十分に精力を注げないのが現状である。四肢・骨盤・脊柱の外傷は,救命のための緊急手術に加えて適切な時期に運動機能回復の手術も必要であることを考えれば,勤務環境の改善は急務だ。

 また,周囲の外傷治療への認識不足が,外傷治療を停滞させている。骨盤骨折,多発骨折等の鈍的外傷は,初療の適否で生命予後が大きく変わるにもかかわらず,その緊急性の高さはあまり知られていない。ましてや機能回復の手術に至っては,その重要性がほとんど認知されていない。その結果,三次救命救急センターでも手術室への受け入れは,緊急手術も臨時手術も滞り気味である。

 外傷外科医の増加に加えて,治療優先度を正しく判断する知識の共有が必要だろう。

救命から運動機能回復までを転院せずに行う

 もうひとつの大きな課題はシームレスな治療体勢の確立である。救命救急センターに搬送された外傷患者は,手術が終了し全身状態が安定した時点で,センター外への転出を促される。救急搬送される患者のうち,疾病が原因の救急患者は救命さえできれば比較的早期に急変直前の状態に戻ることが多い。しかし,外傷患者は受傷直前までまったくの健康体であった者がほとんどであり,救命できたとしてもその時点での全身状態は受傷直前の状態にはほど遠い。同じ救急患者であっても,外傷患者の救急治療は救命だけでなく運動機能を回復させることが極めて重要である。

 そのためには,救命のための治療が終了したら直ちに,あるいは救命のための治療と平行して,機能回復の治療を開始する必要があり,術後は適切なリハビリテーションを一定期間行うことが良好な機能を得るために不可欠である。また,初期治療に当たった医師が最後まで関与してその機能予後を知ることが初期治療の改善に有用である。

 このように,外傷の治療は初療からリハビリテーションまでのシームレスな治療が必要であり,その途中における転院は治療成績の悪化につながる。したがって救急外傷の治療を行う外傷センターには多くのベッドが必要である。計画的に待機手術を行っている外科系病棟への転出は受け入れ側の計画を乱すだけで双方にとって何のメリットもなく,連携のない院外にとにかく放り出すだけの転院は,患者にとっても医師にとっても極めて不幸である。

外傷治療に特化した施設で症例・研究事例の集約を

 理想的な外傷治療を行うには,患者と医療資源とを集約し,ヘリコプターによる迅速な搬送体制を整備する必要がある。外傷専門医を集めて,一定の地域の外傷治療を専門的,網羅的に担う施設をつくることで,上述の問題点の多くを解決することができる。1人で10人を治療するより,10人で100人を治療するほうがずっと効率が良く,1人の医師に対する負荷が少ないのは,医師であれば誰でもわかるであろう。

 また,教育・研究の観点からも集約化は極めて重要な意味を持つ。日本全土を網羅する外傷センター網を完成させるには,非常に多くの外傷専門医を必要とするが,現在の日本にはどのような重度外傷にも対応できる外傷専門医の数は極めて少ない。症例の集約化,専門医の集約化を行い,その施設で効率の良い外傷医教育を行わなければ,今後短期間に大量の外傷専門医を育てることは不可能である。

 さらに,症例の集約化は外傷の治療成績を向上させるための研究においても不可欠である。症例を集約して正確な外傷データベースが作成できれば,治療の客観的評価が可能になり,外傷治療向上のための臨床研究のより良い研究デザインが可能となる。

 また施設ごとの治療成績を公表することで,外傷治療レベルの向上が期待できる。近くに救急病院がなければ不安との意見が根強いが,不十分な救急病院が近くにあるより,充実した外傷センターに短時間で搬送できるシステムをつくるほうが良い医療を受けられることは多くの先進国の歴史が証明している。


松下 隆氏
1975年東大卒。98年より現職。国際イリザロフ法学会[A.S.A.M.I.Int.]President(2004-06年)。現在,日本骨折治療学会理事長,国際骨折治療学会(ISFR)Board member, 日本運動器再建・イリザロフ法研究会代表世話人を務める。専門は外傷,難治骨折,脚延長,四肢再建。医学博士。

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