医学界新聞

寄稿

2009.01.12

【新春企画】

♪In My Resident Life♪
――走れ! 転べ! 疲れたら休め。


 研修医のみなさん,あけましておめでとうございます。レジデント・ライフはいかがでしょうか? 病院選びに失敗して後悔,手技が下手で怒られてばかり,コミュニケーションがうまくとれない……。でも大丈夫。研修医時代の失敗は誰もがたどる道。転ぶことを恐れず走り続ければ,そのうちゴールは見えてきます。

 新春企画として贈る今回は,一昨年・昨年に引き続き,人気指導医の先生方に,研修医時代の失敗談や面白エピソードなど“アンチ武勇伝”を披露してもらいます。

こんなことを聞いてみました。
(1)研修医時代の“アンチ武勇伝”
(2)研修医時代の忘れえぬ出会い
(3)あのころを思い出す曲
(4)研修医・医学生へのメッセージ

上條 吉人
吉岡 成人
草場 鉄周
小原 まみ子
野村 総一郎
河合 真
髙本 眞一



患者さんの突然の自殺,大雪の日の葬儀

上條 吉人(北里大学病院救命救急センター医局長)


(1)私は,出身大学の精神科に入局して,某都立病院神経科で2年間の後期研修期間を過ごした。先輩の先生方は非常に勤勉で,臨床に対する姿勢も厳しかった。カンファレンスや症例検討会などを終えて病院を出る時間は遅かった。それでも,バブルで華やいでいた恵比寿や渋谷に出かけて,深酒しては病院の当直室に潜り込んで寝たり,二日酔いで出勤することもざらであった。当然,先輩の先生方ばかりでなく,看護スタッフの風当たりは厳しかった。ところが,その当時は,何の裏付けもないのに自分の臨床能力に自信を持ち始めていた。生意気にも先輩の医師や看護スタッフに意見していた。

 挫折は突然に訪れた。神経科の病棟は8階にあった。日差しを遮るものがなく,病棟が明るいというメリットはあったが,飛び降り自殺のリスクを考慮する必要があり,病棟の窓は15cm以上開かないようになっていた。冬のある日,私が受け持っていた20歳の若い女性患者さんは,昼食時にナースルームが手薄になっているすきに病棟を抜け出し,非常階段から飛び降り自殺を図った。1階で外来診療していた私は,すぐに呼ばれて病院の蘇生室に駆け込んだ。目の前で,午前中に面談をしたばかりの患者さんが心肺蘇生術を施行されていた。精神科以外の研修を受けたことのなかった私は,何もできずに立ちすくんでいた。やがて,死亡が宣告された。それまでの,裏付けのない自信は粉々に砕け散った。ひどく惨めだった。その後は,先輩医師や看護スタッフの視線が“それみたことか”と,冷たく感じられた。

(2)当時の神経科部長であったM先生は,自分の時間や労力を犠牲にしても,ひとの面倒をまめにみる男気のある先生だった。それ以前に勤務していた九州の別府の地で遊び呆けている私の将来を心配して,私をその病院に呼んでくださったのもM先生だった。

 自殺した患者さんの葬儀の日は都内ではまれにみる大雪だった。M先生は,私の肩をたたいて大雪の中を車で送ってくれた。「ここで待ってるから行ってこい」という涙が出るほど優しい言葉に支えられて葬儀への出席を果たすことができた。

 その後M先生は,最低限の救命処置はできるようになりたいと考えるようになった私に,人脈を駆使して北里大学病院救命救急センターでの研修を実現させてくださった。そればかりか,救急医療に入れ込んでしまった私に対し,「お前にはそのほうが向いているから,救急に骨を埋めてこい」と背中を押してくださった。

(4)救命救急センターでの臨床経験をもとに,医学書院から『急性中毒診療ハンドブック』『精神障害のある救急患者対応マニュアル』を出版させていただいたが,いずれの著書もあの挫折がなかったら間違いなくこの世に存在していない。あの患者さんに,M先生に感謝してやまない思いである。挫折は,人生にとって大きなチャンスでもある。


新米医師に寄せられた信頼に,医師の責任の大きさを実感

小原 まみ子(亀田総合病院腎臓高血圧内科部長)


(1)研修医のころはとにかくがむしゃらでしたから,あえてアンチ武勇伝と言われると難しいですが……。なりたて医師のころ,血清Na129の患者さんの受け持ちになりました。今のような形のいわゆる「臨床書」は少なく,医学書には低Na血症の症状や病態などは書かれていたものの,私にはどのような低ナトリウム血症だと,どの程度の緊急性やリスクがあるのか,現実的によくわからず怖くて,朝まで何度も患者さんを訪室して診察させていただいたことが思い出されます。末期の癌患者さんでお体もつらかったでしょうに,何度私に,眠りを妨げられたことでしょう。ごめんなさい。

(2)研修医のころは本当にたくさんの忘れ得ぬ出会いがありますが,ひとつは,一年目のときに出会った若い多発性骨髄腫の患者さんとのこと。彼女は多発性骨髄腫としてめずらしく若い女性でしたが,全身の骨痛が激しく,少し動いただけで骨折してしまうようなとても痛ましい状態で,いつもお母さんが付き添われていました。体位交換のときに骨が折れてしまうこともあり,彼女はつらくて痛くて「自分の骨を折った看護師さん」に怒りをぶつけてしまうのですが,同時に,そんな自分自身を責めているような人でした。そんな彼女を,私は一日に何度か,できるだけ多く訪問するようにしていました。

 そんなあるとき,お母さんがおっしゃいました。「先生には失礼ですけれど,この子は先生の左右の足音の調子は少し違っていて区別がつくんだと言うんです。この子はよく,先生の足音が聞こえてきたって,うれしそうな顔をするんですが,そのまま,部屋のドアが開かないで足音が通り過ぎていったときには,とてもがっかりしているんです」。私はなりたて医師なのに,患者さんはそんな私に信頼を寄せ,頼りにしている……。その後しばらくして,彼女は短い人生を閉じ亡くなられましたが,患者さんにとっての医師というものの存在と責任の大きさを実感した出来事でした。どうも,ありがとうございました。おかげで,私は今も医師を続けています。

(3)「黄色と黒は勇気の印,24時間戦えますか」というドリンク剤リゲイン®の有名なコマーシャルの歌でしょうか。当時,私たち研修医は「リゲイン」と呼ばれていました。これを替え歌にして研修医生活をつづった歌詞を作り,忘年会の芸として研修医で歌いました。24時間働く研修医の生活を表すとてもよくできた替え歌でしたが,今では歌詞を覚えていないのが残念です。

(4)人生は予想外のことばかり起こり,自分が望んでいないような状況に置かれることが,本当に多いと思います。そのようなときは,すねたりむくれたり言い訳したりしないで素直な気持ちで受け止めて,前向きに努めてみてください。そうすれば,不思議なほど必ず,ピンチがチャンスに変わるように思います。


ギャフンと言わされた初渡米「明日の涙は明日流せばいい」

河合 真(トヨタ記念病院統合診療科医長)


(1)皆が誇りに思っていることはなんだろうか? 例えば,日本人であることはどうだろう? そんなことは日本にいる限りはまったく考えることはないと思う。ただし留学経験のある人たちには思い当たる節があると思う。「外国人として扱われること」の悲哀を。

 29歳にして初めて米国に渡りレジデントを始めた私にとって,仕事も生活も衝撃的なことばかりだった。卒後4年目だったのである程度の知識もあり,日本ではある程度仕事も任されつつあるところだった。それがまったく通用しない。何より英語が通じない。ニューヨーカーの患者から「あんたの英語はひどすぎる。頭はいいんでしょうけどね」と直球を投げられ,謝る以外に方法がなかった。今から思えばひどい医者だったと思う。日本では考えられない。日本語が下手な医者なんて,まずお目にかかれない。

 昨今国際化の波が日本にも押し寄せているようで,外来をやっていても英語しか話せない,スペイン語しかだめ,中国語しかだめ,ポルトガル語しかだめという患者に出会うことがある。昔の自分と家内をみるようで,なんとかしてあげようと思ってしまう。「因果応報」という言葉を思い出してほしい。いつかきっと立場が変わることがある。

 その後の私は必死で学んだ。必死で頑張ると不思議と道は開けるもので,面白い医師人生を歩ませてもらっている。

(2)卒後6年目からヒューストンのベイラー医科大学神経内科のレジデントとなった。そのとき,Appel先生(Stanley H. Appel, M.D.)は神経内科のチェアマンをされていた。レジデントたちから大変恐れられていたし,友達にしたいタイプでは決してなかったが,リーダーとして類いまれな資質を持っておられた。それは恐ろしいほど「首尾一貫している」ということである。状況が同じならジョークまで全く同じであった。レジデントに要求することも首尾一貫しており,「彼が怒る=レジデントに落ち度があった(手を抜いた,無礼を働いた等)」という図式であった。間違ったことを明確に指摘されるだけなのだが,それが単に怖がられていただけでなく,尊敬されていた理由でもあろう。

 指導者たるもの首尾一貫していないといけないし,それがわかりやすくなくてはならない。私もめざしているが,なかなか道は遠い。

(3)小田和正『キラキラ』。ドラマ『恋ノチカラ』の主題歌で,アメリカにいるときに日本語チャンネルで放映されていたのを家内と一緒に観ていたことを思い出す。結婚してすぐに渡米し苦労させてばかりの家内に「明日の涙は明日流せばいい」と言い聞かせていたら,長男が生まれた。

(4)4年目ぐらいで自分の縄張りの外に出よう。その時期に一回ギャフンと言わされて,初めて標準的な知識を獲得する必要性を痛感する。それはその後の自分の糧になる。


ひとつかみ渡された留置針,患者さんと見つめ合ったあのとき

吉岡 成人(北海道大学准教授 免疫代謝内科学)


(1)もう,25年以上も前のことです……。

 わたしは1981年に北海道大学を卒業し,聖路加国際病院で初期研修を始めました。当時は,卒業後には出身大学の医局に入局するのが当然という時代でした。しかし,生まれてからず~っと北海道で暮らしていましたので,東京で一人暮らしがしたいという思いがあり,1980年12月に聖路加国際病院のレジデント採用試験を受験しました。

 試験の2週間ほど前のことでしたが,北大第二内科の医局説明会があり,二次会,三次会の後で,当時の医局長であられた伊藤宜人先生のご自宅に午前3時頃におじゃましたことを忘れることができません。「若気の至り」とはいえ,奥様にお風呂を沸かしていただき,お茶漬けをいただいて,しかも,翌朝に大学までタクシーで送っていただいたのです。「試験に合格した場合は聖路加国際病院で研修します」とお話ししてあったとはいえ,後日,聖路加国際病院の試験に合格してしまい,伊藤先生のもとに出向いて第二内科への入局をお断りしたときは,心苦しい思いでいっぱいでした。申し開きすることができない失態でしたが,卒後20年の時間を経て北大の第二内科にスタッフとしてお世話になるとは,当時,思いもよりませんでした。

 聖路加国際病院での研修医時代は失敗の連続。失敗談は数限りなくあります。

 血管確保のための留置針が入らず,「わたし忙しいから,先生,ゆっくりやってね」と看護婦さん(「看護師さん」よりも「看護婦さん」のほうが当時の雰囲気にマッチします)から留置針をひとつかみ渡されて患者さんとじっと見つめ合ったこと。小児科の当直室で昼寝をしているときに細谷亮太先生(現在は副院長)に「お~,疲れてるの?」と声を掛けられたこと。二日酔いのまま出席した放射線科の朝のカンファレンスで,水野富一先生に「酒くせ~の,何時まで飲んでたの?」と言われたこと。夕方,病棟の看護婦さんに「今日の入院患者さんの胸の写真,異常ありませんでしたか?」と聞かれて,放射線科でフィルムをみて,その時点で初めて気胸に気づき,準夜帯にCVカテを使って気胸の応急処置を行ったこと……。すべてが昨日のことのように思い起こされます。

(2)非常勤で月曜の夕方に回診をしてくださった本多虔夫先生(当時,横浜市民病院神経内科部長,院長)の身体所見の取り方,病歴と身体所見から診断を迷わずに下す技術の高さには感銘を覚えました。大切なのは画像ではなく,身体所見だということを教えてくださいました。当時,北大では神経内科の講義の大半は「呼吸器内科」の担当で,しかも,相当にアバウトな感じで行われており,神経疾患に対する知識はほとんど皆無という状態でした。本多先生が横浜市民病院を退職されるにあたって自費出版された『良き臨床医をめざして――Toward the effective clinician』という小冊子は,今も座右の書として時折拝読しております。

 また,当時,医学書院に勤務されていた横田公博さんは人生の師匠のお一人です。実にたくさんのことを教えていただきました。当時のチーフレジデントであった高尾信廣先生が中心となって執筆された『内科レジデントマニュアル』の出版にご尽力をいただいた方です。わたしも,『糖尿病――日常生活における自己管理のすすめ』,『内科外来診療マニュアル』などの出版の際に大変お世話になりました。横田さんの「大人(たいじん)」としてのお人柄は魅力的で,スマートな生き方にも感銘を覚えたものです。

(3)当時は安い給料を四等分して週末に楽しむ生活をしていました。

 赤坂の「こじゃれた」お店で食事をして,六本木のジャズクラブに通うのが定番。スタンダードジャズの弾き語りを聴きながらウイスキーを飲んでいました。最も思い出に残っているのがエロル・ガーナー(Eroll Garner)作曲の『ミスティ(Misty)』。エロル・ガーナーが機中からシカゴの夜景を見ていて思い浮かんだと言われる甘く魅惑的なゆったりとしたメロディを聴きながら少しずつ酔っていく感じが,週末の開放感と重なってほのかな幸せを味わう時間でした。ジャズ以外では,門あさみの『Hot Lips』というアルバムや,来生たかお,シャカタク(Shakatak)などの作品をBGMとして聴いていたものです。

(4)人生は「思い出」づくりの毎日の積み重ねです。そのときそのときを大切に過ごして,たくさんの思い出を積み重ねてください。わたしのように,初老を過ぎて10年が経ち,かすかな,しかし確実な「老い」を自覚したときに,「思い出」を肴にちょっと美味しいワインを飲んで昔話を楽しむのもいいものですよ。


救急病院からの119番通報!
⇒「次は来なくていいです」

野村 総一郎(防衛医科大学校教授 精神科学)


(1)研修医時代の失敗談ということですが,これはもう枚挙に暇がないですね。私の時代にはローテーション研修という制度が正式にはなかったんですが,短期間ではあったものの,地方の病院で一般外科と脳外科を研修させてもらいました。この期間を含めて,まぁ怖いもの知らずというか,今から考えると不思議なくらい大胆でしたから,いろんなことに手を出しました。それに指導医の側も現在では考えられないくらいおおらかで,何でもやらせてくれた感じでしたから,かなりアブナイことも……。幸い医療過誤というレベルに至ったことはないんですが,患者さんにはきっと迷惑もかけたんだと思いますよ。

 まあここでは,愛すべき恥かきエピソードだけを並べてみます。当時は研修中のバイトも許されていて,救急病院の当直(といっても一次救急)もよくやったのですが,あるとき,急性腹症の患者が救急車で担ぎこまれて来ました。これがものすごい重症のように思えて,非常に慌てまして,救急病院なのにまた救急車を呼んで他の病院に転送してもらったんです。すると転送先から「これはヒステリーですよ。もっとちゃんと診て」と嫌みの電話がかかってきました。初心者とはいえ,曲がりなりにも精神科医であるわけで,これは相当恥ずかしかったですね。その病院からは「次は来なくていいです」と言われましたし……。

 もう一つ精神科絡みの失敗を話せば,パート先の精神科病院で受け持った男性の統合失調症の患者さんなのですが,この人はもう10年も閉鎖病棟に入院していて,「外の世界が見たい」と言われるので,「そんなら僕が見せてあげる」と自分の車に乗せて,ドライブに連れて行ってあげたんですね。最初は良かったのですが,そのうちかなり興奮し始めて,「後ろから追いかけられてる」とか言って,運転中の私にしがみついて来るのです。ほうほうの体で病院に帰ったものの,しばらく不穏な状態が続きました。院長からしかられたことはもちろんですが,精神科の医療というのはその場面,場面で患者のニーズに応えることだけが正しいとは限らないことがよくわかったんです。そして,この話の背景には医者として未熟というより,やはり人間として世間知らずだったという側面がある。研修医というのは,医者以前にまだ社会人として未熟な場合が多いし,それゆえに生じる失敗というのも多いんだと思いますが,まぁ焦らず人間としての成長を心がけてください。これは(4)のメッセージですね。

(2)「上司運」というのがあるとしたら,私はこの上司運がとても良いんです。本当に今日あるのは,そういった良き上司のおかげです。前期研修の指導医・松平順一先生,後期研修で直接指導を受けた中澤恒幸先生,それにずっと後ですが直属の上司,防衛医大の一ノ渡尚道学校長,この3人には共通点があって,「細かく言わないけど,尻ぬぐいをしてくれる」という人物の大きさです。まあ良い意味での親分-子分の関係が成立した時代性もありますね。最近の研修では,ガイドラインの遵守とか,インシデント報告とか,エビデンスがどうしたこうした,とかセチガライことばかりで,どうしても指導医もセチガラクならざるをえない。医療の面白さを示しにくいんです。これは人物の小さい小生の言い訳かもしれませんが。


インターン闘争,研修病院探しで悪戦苦闘

髙本 眞一(東京大学大学院教授 心臓外科学/呼吸器外科学)


(1)(2)1973年3月に東京大学医学部を卒業したが,卒業前の最終学年になると皆,卒後の進路についていろいろと悩むようになった。われわれの学年は1968年4月に本郷の医学部に進学したが,当時医学部の上の学年は既にインターン制度反対の全学年ストライキに入っており,われわれもそれから1年にわたりストライキをすることになった。そのため,われわれの学年は卒業が丸々1年遅れることになり,次の学年は駒場でストライキに入ったのが遅れたので,半年の遅れとなった。

 ストライキを経験して,「大学病院での内科は研究室で試験管を振るだけで,患者のための医療をしていないのではないか」というおぼろげな外科志向感覚を持った者が多く出てきていた。いよいよ卒業前の9月に調査してみると,われわれの学年での外科志望は40名を超えるような状態であった。下の学年も同様に外科志望が多く,東大病院の3つの外科教室では皆を研修させるだけの余裕はないということであった。

 卒業前の10月の終わりだったが,くじ引きをすると,私は下から2番目のくじで東大病院の外科で研修することはできなくなった。当時,市中病院でレジデント制を取っていたのは虎の門病院と聖路加病院しかなく,願書を取りに行ったがともに12月には採用試験をするということだった。当時は学生時代にスポーツでも何でも何かに集中することが先輩から求められていたため,私はボートに熱中していた。当時の国家試験も今ほど難しくはなかったことと試験が4月にあったために,われわれは最終学年の夏の終わりごろからやっと国家試験のための勉強を始めていた。12月ごろではまだまだ実力があるとは言えない状態であったので,私はこの状態では外科へ行くことはあきらめなければならないと考えた。

 そのとき,ボート部の先輩が三井記念病院にいることを思い出して,三井記念病院に赴いた。三井記念病院は当時はまだレジデント制度が始まったばかりで,先輩は決して来いとは言わなかったが,「研修は苦しいけれど5年で一人前の外科医になれる」と自信たっぷりに言われた。私にとって良かったのは面接だけで試験がないということであり,私は「ぜひここでレジデントをしたい」とお願いした。

 当時は現在と違ってほとんどの卒業生が大学病院で研修することになっていて,私は親友から「君は大学の教職につけないよ」と忠告を受けた。学生時代から患者に信頼される医師になることを目標にしていて,教職に就くことなどは考えたこともなかったので,喜んでレジデント生活を送ることになった。

(4)人生万事塞翁が馬で,与えられた状況のなかで最善を尽くすことが大切であるということはボート部の生活で学んだ。落ち込んだときも初心を忘れないで,目標に向かって努力をすることで最終的には視界が開けてくることをこの後何度も経験した。それを助けてくれるのは友であり,師であった。また,家族でもあった。それらの人々と共に歩むことができた幸せを感じている。

 医療は特にチームワークが大切であるが,患者さんも含めたチームワークを大切にすることが,未来を拓いてくれると今でも信じている。


「家庭医に必要な知識・技能」を学ぶ姿勢に落とし穴が……

草場 鉄周(北海道家庭医療学センター理事長)


(1)(2)私が初期研修医として北海道・室蘭の日鋼記念病院に赴任したのは1999年5月。いわゆるスーパーローテート研修が制度としては存在したが,義務化されることはなく,大学の同期でも医局に所属せずに市中の病院で研修するのはごくわずかという時代だった。

 「家庭医療の研修を受けて,家庭医になりたい!」という思いだけで,何の縁もゆかりもない遠く離れた北の大地に赴任したわけだが,周囲の指導医には「家庭医って何?」「専門をめざしているわけでもない人にいったい何を教えてあげたらいいの?」という雰囲気がまだ強く,研修医に理解を示してくれる人は数えるほど。狭い研修医室では毎日のように研修医の愚痴を聞くことになり,果たして自分の選択は正しかったのかと自問することも少なくなかった。それでも,大学時代から好きだったMr. Childrenの『終わりなき旅』((3))を聞きながら,「嫌なことばかりではないさ さぁ次の扉をノックしよう」というフレーズに勇気と元気をもらっていた。

 そうした研修のなか,研修することの意味を再確認し,自分のアイデンティティを保つためにも,「家庭医として求められる知識・技能」を各科の研修で吸収するという姿勢が自然と身についていったのだが,これには一つ落とし穴があった。

 研修医1年目の冬,4か月の小児科の研修がスタートし,3か月目に入ったころ,直属の指導医から夜遅くに病棟に呼ばれた。

 「先生,どんな研修したいの?」と一言。2か月間,自分なりに頑張ってきたつもりだったので,「こんな感じでやっていければと……」と話すやいなや,「先生は守りに入っているよ。もっとやれるでしょう! 小児科医にならないというのはわかっているけど,そうした姿勢は患者さんやその家族にも伝わるし,得られるものもずっと小さくなる。俺も先生のやる気次第でまだまだ伝えられるものはあると思っているんだ」と一言一言噛みしめるように話してくれた。

 図星であった。医学生時代に貪欲に勉強していた熱意はどこかに飛んでしまい,小さくまとまろうとする自分の姿を鏡に見るようでショックだった。

 さらに,医師として現場で学ぶことを思い違いしている自分に気づき,穴に隠れたい気分にもなった。どんな環境でも患者さんによりベストの医療を提供するという志からこそ,学びが生まれるというのに。

 その場ではすぐに返事ができなかったのだが,それ以降,今まで一歩引いていた場面で,前に出ていくよう,少しずつ気持ちを切り替えていった。悩みも多かったが,指導医のサポートは温かかった。研修の最後に贈ってくれた小児科診療の教科書は今も大切にしている。

(4)無理に業務をこなす必要はない。ただ,研修の場とはいえ,目の前にいる患者さんに何を提供できるのかをプロの意識で真剣に考えようとすること。そこから,良い経験が生まれ,成長が導かれる。今振り返って,研修医・医学生の皆さんに切に願うことである。

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