医学界新聞

連載

2008.09.15

アメリカの医療やアカデミズムの現場を15年ぶりに再訪した筆者が,心のアンテナにひっかかる“ねじれ”や“重なり”から考察をめぐらせていきます。

ロスする

〔第11話〕
見えるものと見えないもの


宮地尚子=文・写真
一橋大学大学院教授・精神科医
ケンブリッジ・ヘルス・アライアンス客員研究員


前回

 ニューヨークで活躍する日本人の専門家の人たちと,最近仲良くなった。日本人の集まりは避けぎみだったのだが,いったん知り合うと,とても面白い。当たり前だ。ニューヨークの第一線でプロとして身を立てるのは簡単なことではない。そこで活躍している人たちなのだ。刺激的でないはずがない。

音を拾う,メロディが生まれる

 そのうちの一人,カオルさんが所属する音楽療法センターを訪ね,セラピーのビデオを見せてもらったときのことだ。

 ほら,G#ですでに合ってるでしょ。ここも,Cの音。ちゃんと音を拾って,反応しているのよね。それに合わせて,ほらセラピストが音を奏でるでしょ。すると,またちゃんと返してきているでしょ。ほら,ここなんてすごい。CとF拾ってる。ほらここも……。

 カオルさんは私の横でそう解説してくれる。ビデオに映っているのは自閉症の5歳の男の子。言葉をしゃべらず,すぐにかんしゃくをおこす。ビデオは初診時のもので,男の子は泣きわめくばかり。そのうちスタジオの中のいろんな楽器に気づき,木琴を叩き始めるものの,ただばちを振り回し,かんしゃくをぶつけているだけのようだ。セラピストがピアノでそれに対応するものの,私には異質の音がばらばらにぶつかっているようにしか聞こえない。せいぜい,男の子が泣きやんで音をより自発的に出し始めたことが分かるだけだ。

 なのにカオルさんはビデオを見ながら,今目の前でセラピーが行われているかのように興奮し,男の子とセラピストの間で始まっている,なんらかの交流に耳を澄ませる。そして,その内容と質を私に伝えてくれようとする。通訳のように。音楽の素養のない私には,あいかわらずビデオの中の即興のかけ合いも,ただの騒音にしか聞こえない。けれども,カオルさんの喜びはずんずんと身体に伝わってくる。

 次に,同じ男の子の,5-6回セッションが進んでからのビデオを見せてもらう。まだまだ音楽とは言えないが,リズムが発生し,メロディらしきものもときどき聞こえる。音程が重なったり和音が響くときもある。アブストラクトな現代音楽ぐらいにはなってきたようだ。何よりも大きな違いは男の子の表情だ。目を輝かせ,心の底から楽しそうに音を出している。セラピストともときどき目を合わせている。さすがにここまでくると,音を介して二人の間で密な交流が行われていることが,私にも分かる。

 男の子はその後1年あまり音楽療法を続け,家でもすっかり行動が落ち着き,言語療法に移っていったという。映画の見過ぎか,稀有な才能を見出され,障害を負った子どもが天才音楽家になるというストーリーを想像してしまうが,そういうことが目指されているわけではないらしい。他者との交流への糸口としての音楽。ヘレン・ケラーの「ウォーター」の逸話を思い起こさせる。流れる水の触覚とWATERの綴りにつながりがあることに気づく。混沌としていた世界に,何か法則や秩序があることを知る。その法則に合わせると,自分の出した信号にも確かな反応が返ってくる。一気に自分の生きていく世界が広がる。

分かる人には分かる

 別の日には,遺伝病研究をしている医学者オオイシさんのラボを訪問した。最新の分析機器の横に,昔から変わることのないビーカーやピペットといった実験道具が並んでいる。培養しているショウジョウバエを一時的に失神させ,顕微鏡で覗かせてもらったりすると,医学部での実習が思い出されて,懐かしい。実験結果の判定にも立ち会わせてもらった。投稿中の論文に関し,査読者から追加実験を指示されたのだという。シャーレに浸かったゲルが2枚。ぐっと目を近づけるとバーコードのような線が見える。電気泳動。オオイシさんは,じっくりと2枚のゲルを交代交代に眺め,やがて笑顔になる。

 うまく結果が出たみたいです。見ますか? ほら,ここに線があるでしょう。でもこっちにはないでしょう。もう一対はどうかな。うーん。はっきり見えないなぁ。あ,でもこれだな。ここにちゃんと出ている。ほら,ここ。大丈夫。こっちもOKです。今日の仕事はこれで終わりにしましょう。

 オオイシさんは満足げな顔をして,片づけ始める。

 私は電気泳動の違いが正直なところ分からなかった。どの線が片方にだけあるのか。あると言われればある気がするし,ないと言われればないようにもみえる。境界のぼやけたいくつもの線を前に,生物学的な医学研究は私には向いていないなぁと,あらためて悟る。

 見えない自分を半ば笑いながら,私はカオルさんのセンター見学の時と同じことを,そこでも感じる。

 ごく些細な徴候(サイン)。それを読み取るプロの確かな耳,目,感性。自分には察知できない何かを,その人は確かに見ていて,それは確かにそこにあるし,見る人が見ればとても意義が大きいものであるということ。そのことを分かっていて,仕事や研究に没頭し,それを楽しんでいる人を見るのは楽しい。結果がうまく出て心から喜ぶ瞬間を目撃させてもらうのも,喜びである。

癒し手なのか,魔女なのか

 ただ,分かる人には分かる,という現象は,二つの異なる意味で危険をはらんでもいる。

 見えないものが見えたり,感じることのできないものを感じる人がいるとき,そこで見えるもの,感じられるものが「実在」するのかどうかは,後にならないと分からないことが多いし,後になっても分からないことも多い。

 野口英世はいくつもの伝染病の病原体を発見したとされている。けれども,それらの多くの病因が当時の技術では見えようのないウイルスだったと今では明らかになっている。では彼が見たものは何だったのか。彼の論文が当時認められたのはなぜか。

 臨床医学においても,効果があるとされ一時期は盛んに行われたが,後になって無効だったとして廃れた治療法は数知れない。だからこそエビデンスに基づいた医療が叫ばれるわけだ。ないはずのものが共同幻想や集団的妄想によって一時期は「見えてしまう」ことがあることを,専門家は常に自戒する必要がある。他の人に見えないものが見えた(気がする)とき,生まれる快感や優越感。見える人の間だけの仲間意識や特権的な集団意識。学派とはそうやって生まれてくるのだ,きっと。最初は純粋であっても,いったん力を持ち始めると今度はそれしか見ようとしなくなるかもしれない。そして裸の王様の逸話のように,見えない人までが見えると言い出すかもしれない。

 ただ,野口英世の時代のウイルスのように,今の時点では客観的に証明できない,エビデンスを出しようのない「何か」も,まだまだ数知れず実在する。そういった「何か」を先に察知する人は,しばしば疑惑の目を向けられ,迫害さえされてきた。

 立体視の絵がある。目の焦点をずらすと,物体が浮き上がって見えるというものだ。比較的簡単に立体視できる人もいるし,かなり練習しないとできない人もいる,どれだけ練習しても見えない人もいる。私は立体視の絵を見ながら,空想する。この社会に独裁的な権力者がいるとする。彼は立体視ができない。だから一度も浮き上がる物体を見たことがない。見えるという人,見えて喜び合う人たちに対して,苦々しい思いを抑えきれない。屈辱感をぬぐい去るため,立体画を禁止する。立体画が見える人たちを「嘘つき」「異端者」「悪魔」として排斥する。見える人が複数いても,「共謀して世間を騙そうとしているのだ!」と糾弾する。私は魔女狩りの時代に思いをはせ,今からふりかえれば狂気の沙汰のような魔女狩り現象も,単純にそういうことだったのではないかと考える。

 普通の人が察知できないものを察知する人たちは,かすかな空気の汚染に気づくカナリアなのか,それともただの敏感関係妄想なのか。特殊な能力を持った癒し手なのか,それとも魔女なのか。カオルさんやオオイシさんの高度な専門性に酔いしれながら,私の思考は彷徨していく。

次回へつづく

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