医学界新聞

連載

2008.06.16


アメリカの医療やアカデミズムの現場を15年ぶりに再訪した筆者が,心のアンテナにひっかかる“ねじれ”や“重なり”から考察をめぐらせていきます。

ロスする

〔第8話〕
弱さを抱えたままの強さ


宮地尚子=文・写真
一橋大学大学院教授・精神科医
ケンブリッジ・ヘルス・アライアンス客員研究員


前回

 米国で生活していると,英語では表現しにくい日本語と,日本語では表現しにくい英語の間で宙づりになって,口ごもったり,モザイク状の文章をつぶやくことが多くなる。

 例えば,日本語だと「懐かしい」とか「悔しい」という単語。もちろん,訳語がないわけではないが一対一対応ではないので,“nostalgic”とか“regrettable”とかに変換してしまうと,伝えたかったニュアンスがそぎ落とされてしまう感じがする。英語だと“available”とか“comfortable”という単語だろうか。「利用できる」とか,「心地よい」という訳がぴったりはまるときもあるが,そうではないときのほうが多くて,長々と説明するはめになる。

 ただ,そういう不便さやもどかしさは,一つ一つの言葉が持つ意味や,自分が伝えたい思いを深く考える機会にもなる。今も「もどかしい」を辞書で調べてみて,“impatient”と“be irritated”しか出てこなくて,まさにもどかしくなったが……。

「弱さ」と「攻撃誘発性」

 英語に“vulnerability”という言葉がある。遺伝学や生物学でもよく使われるから,ご存じの人も多いかもしれない。訳としては「脆弱性」がもっとも一般的だろうか。単純に「弱さ」と訳されることもあるし,「攻撃誘発性」と訳されることもある。私はこの言葉がとても気になりながら,ずっとその輪郭をきれいにつかみきれないできた。なぜ同じ言葉が「弱さ」でもあり「攻撃誘発性」でもあるのか。その弱さとはどんな種類の弱さなのか。

 最近,ある映画を観て,“vulnerability”の意味がすとんと胸におちた気がした。『スタンドアップ』(ニキ・カーロ監督・2005年製作)という,米国におけるセクシュアル・ハラスメントの最初の集団訴訟の実話をもとにした映画である。主人公の女性ジョージーは10代で子どもを産み(レイプ被害の結果だったことが後で明かされる),その後結婚した相手によるDV(ドメスティック・バイオレンス)から逃れるために,故郷の鉱山の町に戻る。そして父親の勤める鉱山会社が女性も雇い始めたことを知り,自立して子どもたちと生きていくために鉱山で働き始める。けれどもそこで屈辱的なセクシュアル・ハラスメントを受け続ける。会社の上層部に状況改善を求めたところ,解雇されてしまい,訴訟をしようにもほかの女性はこれ以上事態が悪化するのを怖れて協力しない。そんな四面楚歌のなか,闘い続けるジョージーを,主演のシャーリーズ・セロンが見事に演じている。

鎧を重ねても逃れられない

 私はこの映画を素晴らしいと思ったが,実際に観ていたときはとても苦しくて,観続けるのがつらかった。私は臨床では性暴力やDVの被害者を診ることが多いので,彼女たちとどうしても重なってしまったこともある。けれども,それだけではない。

 「立ち上がる」「闘う」というと,たくましい男まさりの女性をイメージさせる。けれど,ジョージーは全然たくましくない。息子を目の前にボロボロ泣くし,バーに行ってチークダンスも踊れば,飲み過ぎて酔いつぶれてしまったりもする。視察時に社長から受けた優しい言葉を真に受けて本社に単身乗り込む姿は,ドン・キホーテのようなナイーブさだ。それに,女優が演じているのだから当たり前だが,きれいだし,鉱山の作業服を着ていても,どこか色っぽい。

 そんな彼女を見ているとハラハラするのだ。ああ,そんなに隙を見せると簡単に被害受けちゃうよ,つけこまれちゃうよ,何かあっても知らないよ,と女性の私が見ていても思ってしまうのだ(男性からすれば,だからこそ「そそる」のかもしれない。「そそる」ことと「つけこまれやすさ」との関係を考え始めるとややこしくなるので,おいておくが)。

 そんなふうにハラハラしている自分に気づいて,私はふと,「あ,そうか,「隙がある」とか「つけこまれやすい」というのがまさにvulnerableということなんだ」と思い至ったのである。そのもの自身が弱いわけではない。ただ防御力に乏しく,その結果として攻撃を受けやすい状態。「隙がある」とか「つけこまれやすさ」という訳は学術論文では使えないが,意味としてはそういうことなのだ。

 vulnerableな人が危険なところをのんきに歩いていると,周囲の人はハラハラして,その人に怒りを向けてしまいがちになる。純粋に他人を信じ,誰にでも心を開いてしまう人に対しても同様だ。特に自分の弱点を攻撃されたことがあり,それ以来重い鎧をつけて歩いてきた人にとっては,弱さをさらけ出したまま生きている人を見るだけで,「甘えている!」「世の中なめている!」と苛立たしくなったりもする。

 では,攻撃にさらされないように,攻撃されても傷つかないように,鎧を何重にもまとえばいいのだろうか? また,鎧を何重にもまとう方法は本当に有効なのだろうか?

 もちろん,鎧と言ってもいろんな種類のものがある。身体を鍛えること。こわもてで,肩を怒らせて歩くこと。武術を身につけたり,武器を持ち歩くこと。繊細な感受性を麻痺させ,わき上がる感情を無視して,図太く生きようとすること。用心深く,リスク管理を怠らないこと。資格をたくさん取ったり,業績を重ねたり,社会的地位を求めること。強い組織の一員になること。よそ者が入ってくるのを制限すること……。医療に関して言えば,抗生物質や抗菌剤を多用すること,「メタボ」予防に夢中になること,遺伝子診断で将来を予測しようとすることなどだろうか。

 けれど,どれだけ鎧を重ねて過剰防衛を行っても,人間は,生物は,社会はvulnerabilityから逃れられはしない。常に未来は不確実なままであり,心配や不安をなくすのは不可能であり,100%の安全はありえない。医療現場は特に,病気や怪我,障害,老いといったvulnerabilityを扱う領域である。だからこそ,医療文化はそのvulnerabilityを受け入れ,慈しみながら,同時にそれと闘い続ける必要がある。弱さを克服するのではなく,弱さを抱えたまま強くある可能性を求め続ける必要がある。

vulnerabilityを愛し尊ぶ

 日本にも強く波及しつつある米国のネオリベラリズムが危険なのは,弱みにつけ込むことがビジネスの秘訣として称賛されることで,弱さをそのまま尊重する文化を壊してしまうからだと私は思う。そして医療をビジネスモデルで捉えるのが危険なのは,病や傷を負った人の弱みにつけ込むことほど簡単なことはないからである。

 では「悪貨は良貨を駆逐」してしまうのだろうか? 弱肉強食のルールに従って生きていくしかないのだろうか? そうではないと思う。弱さを抱えたまま生きていける世界を求めている人も多い。弱さそのものを尊いと思う人,愛しいと感じる人も多い。それもまた人間の持つ本性の一つだと思う。そうでなければ,弱き者はすでにすべて淘汰されていたはずだ。希望をなくす必要はない。

 たぶん,この映画もまた,弱いまま強くある可能性を語っているのだと思う。勝つために武装して立ち向かうのではなく,自分の権利を守るために,鎧を重ねて防御するのでもない。「スタンドアップ」したいわけではなく,ただ自分らしくありたいだけ。闘いたくなんてないけど,自分の居場所や尊厳が奪われたくないだけ。「女を捨てる」ことなく同時に闘い続けることには,vulnerabilityを抱える自分を愛し,残し続けることでもある。

 『スタンドアップ』というタイトルは,強さのみを称賛しているようで,私には少し違和感がある。ちなみに映画の原題は『ノース・カントリー』である。映画のタイトルもまた,翻訳によってニュアンスがこぼれ落ちやすい。ミネソタの冬の鉱山の,圧倒的に厳しい自然の描写は,そこで生き延びようとしてきた人間の持つ本来のvulnerabilityとその尊さをも映し出している。

次回へつづく

開く

医学書院IDの登録設定により、
更新通知をメールで受け取れます。

医学界新聞公式SNS

  • Facebook