医学界新聞

対談・座談会

2008.04.14



【対談】

治療の時間軸
――長い回復過程をともに歩むために
中井 久夫氏(精神科医・神戸大学名誉教授)
花輪 壽彦氏(北里研究所東洋医学総合研究所長)


 私が専門としている漢方医学は一人ひとりの患者さんを全人的に診ることをその基本に据えています。漢方では病気の背景因子に注意しながらも,容易に修正できないものには深入りせず,治療薬であると同時に,患者さんとのコミュニケーションメディアでもある漢方薬にさまざまな思いを込めて処方し,問題が氷解することを待ちます。

 精神医学と漢方医学は,患者さんの主訴を重んじ,患者さんとの対話を続けながら,薬を媒介に治療を進めていくという共通項があるように思います。また,精神疾患を抱える患者さんのなかには,漢方と同様に長い治療経過をたどる方も多いことでしょう。「こころの時代」といわれる現在,漢方の臨床現場でも不定愁訴や気分障害など,こころの疾患を訴える患者さんが急増しています。

 私たち医療者は,長い人生のなかで病を得てしまった一人ひとりの患者さんに対し,回復に向けた治療の時間軸をどう考えていけばよいのでしょうか。すぐれた臨床家として患者さんとともに歩み,臨床から得られた知を統合失調症の研究・治療の進歩に注いでこられた精神科医の中井久夫先生にお話を伺います。

(花輪壽彦・記)


非特異症状を観察し続ける重要性

中井 私は数十年にわたる経過をたどることも少なくない統合失調症の患者さんと長く接してきました。患者さんの回復過程を診ていくうえで大切にしてきたことは,幻覚や妄想など,その疾患に特異的に現れる症状ではなく,人が生きるうえで基本的なベースとなっている非特異症状を観察し続けることです。つまり血圧や睡眠などの状態ですね。

 回復とは,特異症状が非特異症状に座を譲る状態をいうのです。つまり平凡な非特異症状-生活周期-を追跡することは,その患者さんの回復過程を追うことにつながります。回復の初期には無月経になったり,髪が抜けたりさまざまなマイナーな疾患が現れます。そして,回復期の後半には体重が増加し,皮膚や髪の艶がよくなり,血圧などの数値が正常化していきます。

 精神科医のなかにも,幻覚や妄想を聞くことが治療の中心だとする誤解がありますが,そうではないのです。幻覚,妄想の内容ばかりに注目していても,患者さんは治りません。そういう意味で特異症状というのは泡(あぶく)みたいなものだと思っています。患者さんの自然回復力を追い,援助することにこそ意味があるのです。

花輪 非特異症状に注目する意義がよくわかりました。同じように漢方でも,食欲・睡眠・排便といった非特異的症状を非常に大切にしています。

 中井先生は1966年にウイルス学から精神医学に転向されて以後,精神疾患,なかでも統合失調症の患者さんの回復過程を研究してこられました。なぜ回復過程に着目されたのでしょうか。

中井 幻覚や妄想などの特異症状に着目した発病過程の研究が初めに進みましたが,そういう症状が出現してから病院に来られる患者さんが多いわけですから,発病過程の研究といっても大部分は直接観察を行えていないんです。

 そのようななかで,「回復過程と発病過程とは対称的ではないんじゃないか」という考えが,ふっと私のなかに浮かびあがってきました。そして目の前で観察ができる回復過程についてほとんど言及がないのはどういうことなのかと思ったのです。

 精神疾患の回復過程の観察を続けるうちに,回復初期には必ず多種多様な身体症状が現れてくることがわかってきました。以来,絵画療法なども合わせながら,患者さん自身の声,そしてその身体や絵が表明している事柄をひもとき,読み解くことに心をくだいてきました。

 回復に向けて変化が起こるときには身体が揺れます。統合失調症の身体症状というのは一気に始まって突然終わるんです。例えば下痢がある日始まると5日間続いてピタっと止みます。それはいろいろなレベルで起こります。血圧でもそうですし,眼圧が上がることもあります。さまざまな身体的非特異症状が出現するのです。

花輪 患者観察の炯眼に感銘を受けます。実は揺れるということは,漢方医学を専門にする者にはとてもよくわかる感覚です。

 漢方医学には瞑眩(めんげん)という特有の概念があります。治療によって薬が「やまい」に的中すると,身体が揺れて,一時的に病状が悪化し,その後,急速に回復に向かう状態を指します。たとえば,嘔吐,下痢,月経の招来など予期せぬ急性症状が出現するのです。患者さんは副作用と勘違いされる場合も少なくありません。

中井 あまり医者は考えないみたいですが,作用-反作用の法則が,人体にも概ね働いていると思います。馴染みの病気が出ていったらよくなるかもしれないけれど,揺り戻しもあるかもしれない。これが瞑眩といわれるものに通じるのかもしれません。

 揺り戻しは自然なことですからあまり心配はいらないのですが,揺り戻しが来ると本人も家族もがっかりします。ですから予告をしておくことがかなり重要だと思うんです。

 向精神薬でも揺り戻しはあります。当然のことです。変えようとする力を受けたシステムは元に戻ろうとするわけです。

 作用-反作用の法則があっても,ものが動くのは,作用点と反作用点が違うからだといいます。

 少なくとも精神科では,むしろ身体が揺れてくれるのはいいわけで,だいたい治らない患者さんというのはあまり身体的な疾患にかからないように思いますよ。

揺れる・揺らす・待つ

花輪 漢方の古典に「痼疾(こしつ)」(こじれた病気の意)は揺らしなさいと書かれています。附子の入った処方や葛根加朮附湯のような強い処方で,「身体を揺らしなさい」。それからマイルドな薬で徐々に治しなさい,などと書いてあります。あるいは治療が膠着状態となったときにも処方を変更して揺らす,揺さぶりをかけるということがあります。

中井 精神科の医者はむしろ,何か事件が自然に揺らしてくれるのをじっと待ちますよね。

 昔,佐藤栄作が「待ちの政治」と言っていましたが,「待ちの医学」もあって,本来はこれが精神科の基本線かもしれないです。

 ひとりの患者さんに対して真正面から対峙して問題を取り上げる場面,それが「今だ」というときは長い治療期間のなかでだいたい1度だけです。2度,3度あったことはめったにないです。人間誰しも,長い人生のなかで大事なときというのは何度もないものですね。

 ですから,医者はいつ来るかわからないそのときを待てなければいけません。といって,待ちぼうけではだめなのですが。

花輪 現代人は待てなくなっている,と言われますが,医者は待つということも患者さんの治療の時間軸を考えるうえで非常に大切だということですね。

医療者が“身体を澄ます”,患者さんとシンクロする。

花輪 漢方医学では四診といって,腹診や脈診など医師の五感を駆使して患者さんの身体情報を収集しますが,中井先生も身体診察を重視されてきたと伺っています。中国伝統医学の中医師・徐志偉先生とは2年間にわたり統合失調症全患者の合同診察を行われたそうですね()。

 私は精神科の医師は,話を聞いて薬を出すか,カウンセリングで治そうとされるか,どちらにしても「身体に触らない」と思っていました。精神科領域でも身体の診察はよほど大切なのでしょうか?

中井 患者さんの生活周期の追跡のために医師ができることといえば,面接時の身体診察ではないでしょうか。私はこの身体診察も含めた面接記録と,病棟の看護日誌に記された患者さんの身体の異状,変化を照らし合わせることで,回復過程を追うための手がかりを数多く得ることができました。

 そういったわけで,私は診察の際,必ず脈を診ます。このとき,普段よりも速いか1分間に80回を超えていたら患者さんが緊張していますから,鎮まるまで診察を待ちます。

 また私は積極的に往診を行いました。若いときは警察が踏み込むのをためらうような修羅場にも丸腰で入っていきました。

 あるとき,往診先で患者さんの脈をとっていたら,壁にかかった時計が妙にゆっくり動くような気がしましてね。測ってみたら私の脈が患者さんに引きずられて1分間120回に上がっていたんですよ。患者さんは時計のチクタクに同期していたんです。「これは危ない」と思って時計を外したら,患者さんの脈が下がると同時に状態も落ち着いてきましたね。

 患者さんと治療者との信頼関係が成り立っていれば,身体接触を通じてシンクロナイズしてくるのですね。私はそれを別に病的だと思いません。診察でも脈をとっていると,患者さんと私の脈が同期することはしばしばありましたから。もっと言えばシンクロナイズしない患者さんとは,自然に別れてしまうのかもしれません(笑)。

 精神科医も,広い意味でやはり身体医でありましてね。脈をとっているうちに,相当荒れた人でも,治まってきます。脈をとること自体が精神療法につながっているのかもしれません。

花輪 確かに「脈を診る」というとき,そこに予後や相性を感じますし,シンクロするということもよくわかります。初診の患者さんで脈診のとき,手が震える人がいます。でも2-3回目からはたいてい震えなくなります。本格的な治療はそこからだと思う時もあります。

 私は脈診の重要性について看護学生に教えるときには,必ずナイチンゲールの『看護覚え書』の脈の記載の部分を読んで聞かせています。

 また腹診を行う際には,肝臓が触れるかどうかを診るために,おなかを膨らませたりへこませたりしてもらいますが,患者さんが治療者の呼吸に合わせてゆったりと深呼吸ができる-患者さんと治療者の呼吸が合う-状態になってくると,薬による治療が加速する糸口になるように感じています。ですから,腹診は診察であると同時に,治療効果判定のめやすとしても行っています。

 このとき,治療者側の感受性が不足していると,患者さんが発している貴重な情報を感知することができませんね。

中井 私は,心を澄ます,頭を澄ますことと並んで,「身体を澄ます」という表現を使いました。面接のとき,患者さんは自分の状態を澄ます,そして治療者の私も全身を澄ませることによって,広い座敷を五月の緑の風が吹きわたっていくように感じることが稀にあります。「私が,私が」という感じになっていたらよい診察はできません。

花輪 「身体を澄ます」ですか,すばらしい言葉ですね。

眠り,時刻。身体に流れ続ける時間

花輪 さて,回復期を眺めるときには,先ほどの非特異的な身体症状の継続的な観察のほかに,どのような点を重視されるのでしょうか。

中井 患者さんに副作用も含めた処方薬の飲み心地と,睡眠の質について尋ねることが重要だと思います。睡眠障害があったまま治った患者さんはおりませんね。眠りの量と質が確保できて,目覚め心地の質が上がってはじめて,回復に近い状態といえるのだろうと思います。

花輪 夜眠って,朝起きるという自然な睡眠がとれずに悩む患者さんが漢方診療科にも多く来られます。

 私は治療に適切な時間もあるように感じています。不眠に限らず,午前中の患者さんと午後の患者さんでは「訴え方」がまったく違います。

 午前中の患者さんはテキパキと辛いことを訴えて,処方が決まると割合にスッと帰っていきます。一方,午後の患者さんは「こういうところも,ああいうところも辛いんです」と訴えに脈絡がなくなりがちですし,現実的なさまざまな症状を,こと細かく訴える方が多いような気がします。

中井 睡眠研究をしていた東京都精神医学総合研究所の精神科医,故・遠藤四郎先生によりますと「午前中に昼寝をさせると夢が多い,レム期が多い。午後はむしろレム期が少ない」と話していました。それで僕は彼に聞いたんですよ。「午前中の方が深い精神的な問題を取り上げるのに向いているのか」と。そうしたら「そう考えていいだろう」と。そして,午後の方が,むしろ現実的な生き方の相談に乗るのに向いていると。ですから私は現実に関するカウンセリングは午後に行っていました。

花輪 治療を午前に行うか午後に行うのかということは,医師-患者関係を保つうえにおいても重要なポイントですね。

 眠れない患者さんのお話に戻りますが,漢方では不眠症に対して,神経質症的不眠とうつ状態の不眠に分けて処方しますが,精神科で処方される睡眠薬のように,服用後30分くらいでパッと寝てしまえるような処方はないのです。

中井 それでよいのではないでしょうか。ノンレム睡眠はその深さによって4段階に分けられます。第3段階と第4段階は深い眠りですが,睡眠薬で第4段階までいくとちょっと危ないのではないでしょうか。急角度で下げれば当然リバウンドがあるはずで,それが水面下に出るということがあっても不思議ではありません。

■医療の普遍性――患者自身の声を聴く

漢方薬も併用を今後再検討する意義があると思います。統合失調症はひどく消耗する病であるからです。この消耗に対しては漢方薬が向いています。というか,近代医学に安定して使える薬がありません。また,漢方薬による制御の間接性に積極的な意義が存在するはずです。

(中井久夫著『最終講義』より)

花輪 眠れないときに,例えば酸棗仁湯(さんそうにんとう)という処方があります。これは徐々に睡眠のリズムをつくる作用がある薬なのですが,同じ薬を不眠にも,過眠にも用います。つまり,中庸に持っていく働きがあるといわれている処方なのですが。

中井 向精神薬は鎮静を嫌います。ただ,行き過ぎの部分もありましてね。「木静まらんと欲すれども,風止まず」ではないですが,患者さん本人も鎮まりたいときだってありますよ。

 私は漢方と西洋薬をよく併用しましたが,漢方と西洋薬とは決して対立するものではないと思っています。明治時代に国として西洋医学を採用したものだから,対立的な構図と捉えられてしまうようになったのではないでしょうか。華岡青洲などは折衷派で,両方使っていたようですからね。

花輪 日本人は「新しもの好き」な国民性があるそうですが,今,漢方薬が古くて新しい薬として見直されているのは大変興味深いところです。

 ところで先ほど中井先生がおっしゃられた“薬の飲み心地”についてですが,漢方薬は天然物で「味」や「におい」がありますので,患者さんによっては「この漢方薬はまずくて飲めない」といって,薬を返されることがあります。そして私どもは返品に応じることもあります。漢方には味やにおいなど患者さんの官能性,飲み心地を非常に重視するところがあるのです。味覚や嗅覚は人間の原始的な感覚ですから,漢方薬が「身体と心に同時に効く」という特徴は至極自然なことだと思うのですが。

中井 そうですね,お酒だってどっちにも効きますからね(笑)。

花輪 飲みすぎると,両方ダメになりますけど(笑)。

中井 それは,薬も同じでしょう(笑)。

 心と身体は,紙の両面のようなもので相合わないけれども,だからといって裏と表がないとはいえない。心身一元論を考えてみても,「身体」と「心」という言葉を廃止して,全部「こらだ」で済ませたらどうなるか,というと言葉の意味が成り立ちませんね。

 言葉はなんでも2つに分ける傾向がありますね。ですから,診療を言葉だけに頼ることについて,私はあまり賛成しません。どうしても,正常か,異常かという視点で診てしまいますから。

 統合失調症というと足の先から頭の先まで,統合失調症みたいに思いますでしょう? でも現実にはどの患者さんも学者がいう統合失調症ほどには,十分に統合失調症的ではないのですよ。

 これは他の疾患についてもいえる場合があるのではないでしょうか。

花輪 医学の歴史を振り返ると,東洋医学も西洋医学も細分化することが技術的に不可能であった時代が長く続いたために,全体を「心身一如」に診ていたわけですよね。現在は科学が発達してある程度,局所論をいえるように進歩した。一方で,科学の宿命として「全人的」にヒトを診れないということに気づいてはいるのですが。その問題をどう解決したらよいかという部分で,まだ十分な論争ができていないのが実情ですね。

中井 局所論も,そこで因果関係が完結すると思ったら間違いですよね。

 因果関係というのは,もし当てはまるとしても非常に単純な場合だけであって,例えば実験条件というのは,ものすごく単純化した条件ですね。ですから,いわば野生の状態で会っている患者さんと医者にはある程度しか当てはまらないので,参考にしかならないですね。クロード・ベルナールの『実験医学序説』に影響され過ぎているのかもしれません。

花輪 1対1に対応するような因果関係というのは,まずない,ということが漢方医学の大前提になっています。

 さまざまな要素や,なかにはブラックボックスもあって,現象が存在する。現象を組み合わせて,それに対してこういう漢方薬がそれに対応しますよ,というものを経験的につくり上げていった。今,科学の力でそのブラックボックスに光を当てて,エビデンスを出すようにと学会から求められているのですが。

中井 それは無理です。

花輪 えっ! そうですか(笑)。

中井 統合失調症という概念も,デプレッションと遺伝子が重なり過ぎているために,アメリカでも両方やめて,一元的精神病症候群にしようかという話があるほどです。

 アメリカの医学では本来は一元論が強いのですよ。アメリカの精神医学分野の確立に大きな功績を残した精神科医,アドルフ・マイヤーの思想だって一元論ですよね。一元論に戻りたいのだけど,戻ったら科学的ではないというジレンマが存在しているのです。

花輪 不思議ですよね。医療者としては,病人に対して科学的であることには限界があると十分理解しているのに,いったん医学という領域の科学者という立場に立つと,因果関係がしっかり存在していなければ信用しない,という立場になってしまう。そういった二面性が医者という職業のなかには存在していますね。

中井 今の精神科の薬の使い方も,中身のよくわからない壺のなかに放り込んで,爆発が起こらなかったらよしとしましょう,といった考え方で使っている部分があるのかもしれません。まだまだ精神/脳の関係性はブラックボックスです,特に全体としては。

 精神科の治療薬のやりとりにおいても,医師-患者関係に左右される部分が大きいと思います。ですから,たとえば患者さんの飲み心地を重視するような考え方があってもよいのではないかと思いますね。

花輪 専門を究めていけばいくほど,自己矛盾が生まれてくるような……。

中井 そう。僕なんか専門,あんまり究めてないから(笑)。

花輪 ハハハ,恐れ入ります。

 まだまだお伺いしたいところですが,お時間が来てしまいました。漢方医学の大家・大塚敬節先生は「反対学を学べ」といわれましたが,中井先生はまずウイルス学を専攻され,その後の精神医学においては臨床の極みに立たれました。本日は泰然自若の境地から患者さんに対するまなざしのありようの一端をお聞かせくださいました。多岐にわたり,示唆に富むお話を本当にありがとうございました。

(了)

:徐志偉氏との共同研究を通じた統合失調症患者の病期における舌の変化については中井氏が著した『最終講義』に詳しく図説されている。


中井久夫氏
1934年奈良県生まれ。京大法学部入学後,医学部へ転部。京大ウイルス研究所,東大医学部附属病院分院,青木病院などに勤務。名古屋市立大,神戸大などで教授を務めた。
活躍の場は多岐にわたる。95年の阪神大震災時の被災者への心のケアを契機に,PTSD患者の支援に携わり,昨年まで兵庫県こころのケアセンター長を務めた。
精神科研究に加え,思索的な随筆など著書多数。またサリヴァン,ハーマンなど精神科関連の翻訳に加え,ポール・ヴァレリーをはじめとする詩の訳者としても知られる。
主な著書に『分裂病と人類』(東大出版会),『治療文化論』(岩波書店),『最終講義:分裂病私見』『徴候/記憶/外傷』(みすず書房),『看護のための精神医学』『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院)などがある。

花輪壽彦氏
1953年山梨県生まれ。80年浜松医大卒後,同第一内科研修医を経て,82年より北里研究所東洋医学総合研究所に勤務,現在に至る。
北里研究所東洋医学総合研究所漢方診療部長,所長補佐を経て96年より現職。2001年より北里大大学院医療系研究科東洋医学指導教授を兼務。日本東洋医学会専門医制度委員会委員長,和漢医薬学会理事,厚労省薬事食品衛生専門委員,東亜医学協会常任理事などを歴任。現在,日本東洋医学会副会長。
主な著書に『漢方診療のレッスン』(金原出版),『漢方使いこなし術』(小学館),編著書に『漢方は女性の健康をたすける』(岩波書店)などがある。

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