医学界新聞


「書けない手紙」

連載

2008.01.14



生身の患者仮面の医療者
- 現代医療の統合不全症状について -

[ 第10回 涙と金魚(2) 「書けない手紙」 ]

名越康文(精神科医)


前回よりつづく

(前回までのあらすじ:医学部卒業後,半年間の一般科研修の際,脳外科で20歳くらいの悪性腫瘍の女性入院患者の担当となった名越氏。重苦しい空気が流れるなか,病室に置かれた縁日で売られていた金魚のぬいぐるみを媒介に日々の会話を交わした。入院から3週間後,開頭手術が行われることになり,その前日,名越氏は担当医として頭部の剃毛を行った。がまん強かった彼女の目から,その時初めて,ひと筋の涙がこぼれ落ちた)

 手術の数日前,僕は大きな失敗をしました。僕の指導医が,彼女の両親に手術前のコンサルテーションをしていた時のことです。「この手術は非常に危険な手術であり,仮に成功した場合でも,手術による後遺症が残る可能性がある。ただ,この手術をしないと余命は1か月だろう」といった,非常にシビアなコンサルテーションをしていた。その時に,僕はこともあろうにすぐ隣のナースセンターで,看護師さんと何か冗談をいって,笑ってしまったんです。

 当然,そのすぐ後に,指導医の先生から烈火のごとく怒られました。「こっちでどういう話をしていたのか知っていただろう? 何を楽しそうに笑っていたんだ」と。僕ももちろん我にかえって,怒られたということよりも,ご両親に本当に申し訳ないし,いたたまれないという気持ちになりました。

 これはただでさえ大失敗なんですが,実はその前段もあるんですね。担当になって1週間目くらいの時に偶然,彼女のお母さんとバスで一緒になったことがあって,そこで僕は「僕も医者になったばかりで,本当に何もできないんですが,1日1日を大切に診させていただきたいと思います」みたいなことをお母さんにいってるんですよ。そんなことをいっていたやつが,何てことをやってしまったんだと。

 研修中,もちろんほかにも担当の患者さんはいたのですが,今お話ししたコンサルテーションの時に笑い声を聞かせてしまったことや,彼女の剃髪を最後に自分1人でやらせていただいた時に見た涙,その後の彼女のリハビリに取り組む態度,そういったもろもろが,半人前以下だった自分にとって,濃厚な体験として残っているんですよね。この患者さんとの経験だけでも,僕は一生かかったってとうてい返せないと思っています。

 さて,脳外の研修は2か月だったので,当然,彼女が退院する前に僕はその病院を後にすることになり,最後だからと思って「また,必ずお見舞いにきますから」と挨拶をしにいきました。そうしたら,彼女はベッドから箱を持ち出して,僕に渡してくれた。「見てもいいですか」と開けてみると,彼女の病院のベッドの上にかかっていた,ぬいぐるみのお魚が入っていました。最初に会ったときにかかっていた,赤い金魚のぬいぐるみです。

 「これをなくしたら,あなたのお友だちがいなくなる」

 僕がいうと,彼女は枕の下からもう1つ,同じ金魚を出してニコッと笑った。「私の分の金魚はいるから」と,同じ金魚を,僕のために買ってくれていたんですね。1週間ほど後,僕はお返しに,お地蔵さんのキーホルダーと絵本を渡しました。どちらも,僕が気に入っていたもので,お守り代わりになれば,と思ったんです。

 その後,年が明けて5月頃に突然,病院の官舎に1通のハガキが届きました。それは彼女のお父さんからのハガキで,彼女が亡くなったことが書かれていました。さらに,「お棺の中に,先生からいただいたお地蔵さんと絵本を一緒に入れました」と書いてあった。

 僕は,返事をしなければいけない,いけないと思いながら,結局書けなかった。お父さん,お母さんがどんな気持ちになっておられるだろう,と考えると言葉が出てこなかったんですね。それでどうしても,今にいたるまで書けていないわけです。

 さらに,この話が終わった,と思っていた1年後のことです。中宮で研修医をやっていた僕のところに2年目の研修医が入ってきた。彼は僕と同じく,府立病院で研修を受けてきたわけなんですが,入局早々,「名越先生っておられますか」といってくる。私が名越ですが,というと「先生も脳外科回られたんですよね。○○さんという患者さん覚えておられますか」という。

 彼は脳外の婦長さんから,僕の話を聞いていたらしい。婦長さんは「名越先生に会ったらぜひ伝えてほしい。彼がこっちで一生懸命診ていた患者さんが亡くなられた後,彼女の両親が医局に来て,名越先生によろしくお伝えくださいとおっしゃっていた。研修医のことをご家族がいってくれるのは珍しいことだし,名越先生は本当によく診ていたと私も思う」とおっしゃってくれたらしい。

 僕はその話を聞いて,「伝えてくれてありがとう。うれしいです」と答えましたが,当然,頭をよぎるのは「ああ,お父さんに返事出せてないわ,俺……」っていうことですよね。彼がその話を伝えてくれたその日,僕は日記にこういうことを書いています。

 中宮病院の門を出て,宮の坂という駅まで,ずっとくだっていく道がある。そこを吹く風が,何か自分の身体の中をスーッと通っていくような感覚があった。今まで感じたことのないような,「風が自分の中を通っていく」という不思議な感覚をおぼえながら,歩いて帰ったと。

 僕は,その時から,この思い出に呪縛されているんだな,と思います。1つは,自分はなんてふがいないんだということ。これは,実際そうですし,当然のことですね。しかし,もう1つあって,それは,このエピソードを通じて,僕は「人間が生きるとは何か,人間が生まれてくるとは何なのか」ということを問わざるを得なくなったということです。

 「答えを出すこと」「結果を出すこと」って大事だとよくいわれます。けれど,理性的に考えれば,「彼女の人生とは何だったのだ」という問いに対して,シンプルな答えなんかあるわけないんですよね。僕の場合はこういう体験でしたが,小児や,幼児で亡くなる人もいる。大人でも「さあ,これから」という時に亡くなってしまう人がいる。

 しかし,そういう客観的には答えなどありようがない問いを,問わざるをえないような状況というのがあるんですね。絶えず,絶えず,問わざるをえない。大げさかもしれませんが,その問いをなくしたら,人生なんてほとんど何も残らないくらい,ウェイトを占めているわけです。

 僕はテレビの仕事をしているので,すぐ「はい,名越先生,お答えは?」「この人はどうすればいいんですか」といわれてしまう。でも,厳密にいうと答えられないですよ。できるのは,問い続けることだけなんじゃないかな。

 「問うこと」「問い直すこと」「問い続けること」,これが,その人の中のほんとうのクリエイティブさというか,ほんとうにその人の人生を前に進ませていく根本なんじゃないかと思います。

この項つづく

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