ライフ・イズ・ビューティフル
連載
2007.11.05
〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第115回
ライフ・イズ・ビューティフル
李 啓充 医師/作家(在ボストン)読者はイタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』をご覧になったことがおありだろうか? ユダヤ人であるがゆえにナチスの強制収容所に入れられてしまった一家の苦難を描いた「コメディ」映画だったが,内容の悲惨さをコメディ化したことで逆に感動性を高め,1998年,外国語映画であるにもかかわらず,主演男優賞など3部門のアカデミー賞を受賞した。
特に,父親が,幼気な息子に凄惨な現実を知らせるのは忍びないと,「これはゲームだ」と信じ込ませるプロットが秀逸で,感動的な最終シーンの伏線となるしかけにもなっていた。
つい最近,米国で『ライフ・イズ・ビューティフル』を地でいくような話題があったので,紹介しよう。
4歳半でホームレスに
マリオは1937年,イタリアはベロアに生まれた。母親のルーシーは詩人。言語に堪能で,少なくとも15か国語を話したといい,一時はソルボンヌ大学で教鞭を取るほど知的な女性だった。
母方の祖母は,もともとはアメリカ人,画家になりたくてイタリアに渡ったのだった。やがてドイツ人と結婚,母のルーシーを含め3児をもうけた。夫の死後,米国人子女用の寄宿学校を設立,母をはじめ3人の子供たちを何不自由ない環境で育てたのだった。
マリオが生まれたのは,母がイタリア空軍パイロットと恋に落ちた時のことだった。母は,シングル・マザーとなる道を選び,結婚はしなかった。当時,シングル・マザーとなることは勇敢な行為であったが,母の勇敢さはそれだけにとどまらなかった。文芸家組織『ボヘミアン』に加わり,ナチスを批判する文芸活動に関わったのである。
やがて,ナチスに捕らえられた母は,ダカウの強制収容所に送られてしまった。逮捕される日が来ることを予期していた母は,全財産を売り払って作った金を友人の農夫に渡し,マリオを預けたのだった。
しかし,半年後,農夫は「母親からの金はなくなった」とマリオを追い出してしまった。マリオは,まだ,4歳半というのに,ホームレス(日本流に言えば「浮浪児」)となったのだった。
浮浪児時代のことで一番よく覚えているのは「飢えだった」と,いま,マリオは述懐するが,生き延びるために,ありとあらゆる手段を使って食べ物を手に入れたという。浮浪児同士で「窃盗団」を組み,おとり役と盗み役にわかれて,店先から食べ物を盗んだりしたのだった。何回も捕らえられては施設に入れられたが,その度に脱出した。
最後に入れられたのはある病院だった。極度の栄養失調の治療のために収容されたのだが,もともと食べるものがなかったのだから,栄養失調が治るはずもなかった。患児がみな素裸にされていたのも,看護師たちが「服を着ていなければ逃げ出さないだろう」と考え,わざと裸にしていたからだった。
母との再会
母と再会したのは,その病院に入院していたときのことだった(再会の日は,マリオの9歳の誕生日でもあった)。収容所から解放された後,母は,ずっとマリオのことを探し続けていたのだが,1年に及ぶ努力が実って,やっと,マリオを見つけることができたのだった。しかし,マリオは,母のことを見ても母とはわからなかった。4年に及ぶ収容所生活の後,母は,すっかり「年老いて」しまっていたからだった(マリオは,母が生き延びることができたのは,ドイツ語に堪能だったからだったろうといまでも信じている)。
再会後,母と子は,母の弟エドワードを頼ってアメリカに渡った。マリオはアメリカに着くなり学校に入れられたが,学校に行くこと自体が生まれて初めての体験だったうえ,英語が話せないとあって「精神遅延児」扱いされたのだった。ある教師など「この子は絶対に大学に行けない」と宣言したものだった。
収容所生活の後遺症だったのか,やがて,母は精神に変調をきたし,自分だけの空想の世界に暮らすようになった。母に替わり,叔父夫婦がマリオを育てるようになったのだが,叔父はプリンストン大学で電子の研究に勤しみ,電子顕微鏡やテレビの開発にも関わった物理学者だった。
すべての子供に十分な機会を
叔父の下で勉学に励んだマリオは,やがて,分子生物学に興味を持つようになった。ハーバード大学大学院での指導教官は,DNA二重らせんを発見したジェームズ・ワトソン,「大きな疑問に挑戦すれば成果も大きい」という研究姿勢を学んだのだった。マリオは,ワトソンの教えに従って,1976年,ある野心的な研究に関するグラントを申請したが,NIHは「荒唐無稽。追究するに値しない」と,けんもほろろに拒絶した。マリオは,自分の仮説が正しかったことを証明するデータが出た4年後,改めてグラントを申請した。NIHは「やめたほうがいいというわれわれの忠告をあなたが聞かなかったことを嬉しく思う」と謝罪したうえで,快くマリオにグラントを授与したのだった。
2007年10月8日,スウェーデンのカロリンスカ医科大学は,ユタ大学教授マリオ・カペッキ(70歳)ら3人にノーベル医学生理学賞を授与することを発表した。ジーン・ターゲティングという,「革命的」な技術を確立した業績を讃えてのことだった。マリオがイタリアで浮浪児となってから66年が経っていた。
「大人たちにできることは,すべての子供たちが,その情熱と夢が追求できるように,十分な機会を与えることしかない」と,カペッキ教授は信じている。どの子供が次代のベートーベンや,モジリアーニや,マーティン・ルーサー・キングになるのか,誰にも当てることなどできないのだから,と。
(この項つづく)
この記事の連載
続 アメリカ医療の光と影(終了)
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