医学界新聞

連載

2007.06.04

 

〔最終回〕
感染症Up-to-date
ジュネーブの窓から

第20回 エピローグ――2年半に及ぶジュネーブからの視点で考えたこと

砂川富正(国立感染症研究所感染症情報センター)


前回よりつづく

 ジュネーブは新緑と小鳥のさえずり溢れる5月を迎えた。WHO(世界保健機関)の建物に続く,木漏れ日ゆらめく小道を,筆者は少々感慨を持って歩いている。今月末をもってWHOとの契約は終了し,筆者は帰国する。

 本連載もこの号が最終稿である。振り返ると筆者は,ジュネーブのオフィスで毎日のEpidemic Alert and Verification(感染症アウトブレイクに対する警戒および情報収集・確認)作業に従事する一方,約半年に一度のペースで,これまでの筆者自身の経験を活かす形でポリオや麻疹などのワクチン予防可能疾患対応支援というフィールドでの活動に派遣されてきた。最終稿を迎えるにあたり,国外からの視点から,今後の日本を取り巻く感染症対策に必要なことについて,筆者がこれまでの経験を通して個人として考えてきたことを簡単にまとめてみたい。

改正国際保健規則IHR(2005)の実施に向けた国内の体制作り

 いよいよ,IHR(2005)の実施がこの6月15日に迫ってきた。すでに本連載14回などでも触れたが,筆者の現在の業務に関連するところについて端的に述べると,国際社会が認識すべき対象となる疾患が黄熱・ペスト・コレラの3つから,化学物質などを含めた“Public Health Emergency of International Concern(PHEIC)”という概念に変わる。“アウトブレイク”が発生した場合に,その事例が,(1)公衆衛生上のインパクトは重大か,(2)異常であり予期せぬものか,(3)国際的に伝播する著明なリスクはあるか,(4)国際的な旅行や貿易の制限に至る著明なリスクはあるか,という4項目で検討される。該当すると判断される事例については,当該国の担当者からWHOに情報が伝えられ,国際社会としての対応が始まる。WHOからの問い合わせという流れもあるだろう。しかし,これらはIHR(2005)のテクニカルな側面の一つである。

 最も重要な点は,IHR(2005)のもと,加盟国とWHOに与えられる役割と責任が増大しているという点である。現在,IHR(2005)の実施に向けて,国内では特に空港や港湾における検疫業務の内容改訂への作業が進んでいることだろう。さまざまな書類の様式をダイレクトに変更する必要があるためだ。

 しかし,IHR(2005)実施の及ぼす,国内の公衆衛生における最も大きな影響はentry pointとしての検疫業務の変更だけではない。WHOのIHRに関する記述(http://www.who.int/csr/ihr/en/)より少し具体的に引用すると,IHR(2005)の2007年6月の運用開始後,加盟国は最初の2年間を,既存の各国における公衆衛生上の枠組みおよび資源の能力評価にあてると明記されている。各国の,感染症を含む異常な事象全体に対応するサーベイランスやアウトブレイク対応の能力向上(national capacity building)あるいはそのための計画立案がこの数年という短期間に必須であるということだ。この作業は,国内の公衆衛生危機管理体制そのものの体力強化を促すものであることから,各国への影響は実はかなり大きい。

 日本においてもサーベイランスシステム全般の評価,アウトブレイクを調査する各自治体および国の体制の評価も必要となってこよう。その一つ,筆者に関係するところとして,国立感染症研究所内に設置されていて,世界中の実地疫学者(Field Epidemiologist)とのネットワークの中で運用されている実地疫学専門家養成コース(Field Epidemiology Training Program: FETP-J)(http://idsc.nih.go.jp/fetpj/)の評価・発展の方向性についても検討が必要であろう。

 国内で発生した事例に対して,現場での公衆衛生対応を支援しつつ,事例がPHEICにも該当するものかどうか,その判断を下すためにも,国際的に標準的な調査手法を用いるFETPの活動とその強化は重要である。また,FETPの国際的なネットワークを通しての海外PHEIC該当事例における情報収集,国外の事例に対する直接的な派遣協力も,国際的なネットワークの一員としての,日本のFETPにおける役割の一つであろう。FETPの占めうる役割はIHR(2005)体制下において決して小さくないと筆者は考える。

国際的に通じるワクチン予防可能疾患対策推進の必要性

 2007年のゴールデンウィークの最中である現在,日本から伝わってくる最も懸念される感染症の情報は,ワクチン予防可能であり,重症な疾患である「麻疹」である。5月2日現在,国内では東京・埼玉をはじめとする関東全域および他の地域より年長者・成人を中心とする患者が定点のみからの情報ですでに計300名を超えて報告されており(http://idsc.nih.go.jp/disease/measles/idwr0716.html),連休中に日本中に麻疹が拡がるのではないか,との懸念が高まっている。国内のみならず,連休で日本人観光客が訪れる地域・周辺国では日本からの麻疹の侵入に警戒を強めている。日本から国際的に波及した麻疹患者の発生が認められ,地域の公衆衛生上の著しい問題となる場合,この状況は前述のPHEICに該当する可能性がある。IHR(2005)実施下の,日本に関連する公式なPHEIC第一号が,米大陸やお隣の韓国などで排除(その土地由来の患者が1名もいなくなること)を達成した麻疹に万が一なりはしないか,大変に心配である。

 この2年半,筆者は,ポリオや麻疹のワクチン接種キャンペーン支援に従事したり,ジュネーブにおけるワクチン予防可能疾患に関するさまざまなディスカッションに参加してきた。その中で,日本と世界の感染症対策に占めるワクチンの役割の重さの違いに気づき,愕然とすることは少なくなかった。国内ではワクチンに関して種々のタブーがあるように筆者は感じるが,同時接種の可否や接種間隔の問題,流行時に本来検討されてよいはずのキャッチアップキャンペーン(ワクチン接種を一定の年齢層など広範に実施し,免疫を持たない者を一気に減らすこと)の必要性などについても,もっとプロフェッショナルでオープンなディスカッションが行われてもよいのではないか,それは筆者自身が属する日本の公衆衛生および医療に従事する者の責任でもあるまいか,というのが現在の思いである。

おわりに

 筆者自身にとって国際機関における専門家としての初の赴任であったが,国際機関で働く場合に,個人として,専門分野の修得に加えて,国際的な環境への習熟が早期から必要であるように思った。また,公衆衛生施策として,海外で主に発生している,あるいは特に国際的に重要な感染症の研究・対応を行える専門家育成も,今後のグローバル化を考えると国を挙げての戦略として重要であると感じた。

 周辺国からの感染症浸入のリスク評価がきちんとなされているオセアニア諸国の例を聞いたことがある。海外感染症の国内浸入のリスク評価・指標を策定し,行政に反映させる専門家の育成という意味で,そのような感染症を専門とする疫学者の育成は,国内の防疫対策とも位置づけられる。国立感染症研究所などにそのような専門部署をつくるというアイデアを一つ提案したい。筆者もこの2年半の経験を経て,国内外の感染症対策に少しでも貢献したいと思っている。

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