医学界新聞

インタビュー

2007.05.28

 

【interview】

私は日本の,世界の看護界を信頼しています。
だからこそ,必要なことは主張し,行動できるのです。

南裕子氏(国際看護師協会会長/兵庫県立大学副学長)に聞く


 日本災害看護学会設立,専門・認定看護師制度の創設,リエゾン精神看護の導入など数々の業績を持つ南裕子氏。国際看護師協会会長として2007年CNR・ICN学術集会(5月27日-6月1日,横浜市・パシフィコ横浜)に臨む南氏が,今学術集会のテーマに込めた思いとともに,看護師としての原点や阪神・淡路大震災から得た教訓を語った。


――2007年CNR・ICN学術集会のテーマ「Nurses at the Forefront: Dealing with the unexpected(最前線の看護者たち:予期せぬ事態に立ち向かう)」に込めた思いをお聞かせください。

 国際看護師協会(ICN)の会長になった時,「私が世界に発信できることは何か」と考えました。それはやはり,神戸で阪神・淡路大震災(以下,阪神大震災)を経験し,その後日本災害看護学会を立ち上げ,日本看護協会としても災害に取り組んできたという経験でした。

予期せぬことを想定する

 世界では,たくさんの災害が起こっているにも関わらず,看護者の準備ができていません。日本でも阪神大震災以前はそうだったと思います。また,災害に限らず,SARSや今後予測されるヒトからヒトへの鳥インフルエンザ感染などの感染症も,予期せぬ時に,予期せぬ場所で突然起こってきます。もっと身近な話ですと,院内感染や事故もそうです。

 これら予期せぬ出来事を想定して,事前に準備をしていれば,事態が発生した時に適切な対応ができるし,二次被害も減らすことができます。そのために看護者は,絶えず将来を見通す必要がある。こうした考え方はこれまで不十分でした。10年後に何が起こるか,または他国で起こっていることが日本で起こったり,日本に起こっていることが他国で起こったらどうするかをお互いに考えていくことで,私たちは次に備えられると思うのです。

■お互いの経験に学びあう

ケアする人が元気でないと本当の助けにはならない

 看護者には強い倫理観,使命感があって,何か起こると自分のことは顧みず,ケアが必要な人のもとへ駆けつけて24時間体制で働くのがあたり前で,美徳であるとされています。ですから,阪神大震災の時も「1か月も家に帰りませんでした」とか,「1週間ほとんど寝ませんでした」という看護師さんの話を聞くと,やむを得ないかなと思う面がありました。

 当時,アメリカのサンフランシスコ地震を経験したアンダーウッド先生からは,「ヒロコ,被災した看護師は何もしなくていい。看護師は外部から来るべきだ。被災した看護師は,まず自分と家族のことを考えなさい」と助言されました。でも,その時はとてもそうは思えず,看護師皆で無理をして,二次被害も出ました。

 ところが日中看護学会で,中国でのSARS発生時の活動報告を聞いて,私は目が覚めるような思いをしました。その病院の看護部長さんは,非常に感染力の強い病気の患者さんが来るとわかった時,「病院からは1人も死者を出さない。医療者にも感染させない」と決断したそうです。そこで,若くて元気で能力の高い看護師を集めて,いいところに寝泊まりさせ,おいしい物を食べさせました。その代わり,状況が落ち着くまでは家に帰さなかった。そして1日の労働時間を6時間にして,ゆっくり休ませたというのです。看護者の中からは1人も感染者が出ませんでした。

 別の調査では,医療関係者でケアをしていてSARSに感染した人と,しなかった人との違いを比較しました。その結果,労働時間が長い人は感染する確率が高かった。体力が落ちて免疫力が低下するからです。つまり“治療者や看護者が元気でないと,患者さんの本当の助けにはならない”ということですね。私は,頭を後ろから殴られたような思いがしました。

 このように中国で予期せぬことが起こって,そこでの取り組みから学んだわけです。この経験を生かして,能登の震災では,避難所の看護師さんたちは3交替を組んで活動しました。

災害看護の知の蓄積と高齢化対策への注目

 今学会のテーマには最前線の看護者たちを大事にしなければならないという思いが込められています。学会参加者は教育者や研究者が多いのですが,現場で働いている看護者が仕事をしやすい環境を作っていくことが,ICNのいちばんの関心事なのです。

 今回私たちは,看護の対象者だけでなく看護者までもケアする「ケアリングのスピリット」を掲げて,最前線のナースたちにメッセージを送りたいと思っています。

――阪神大震災の経験からは海外にどんなことを発信されたのでしょうか。

 それまで,災害看護というのは,どちらかというとケガや病気の手当てといった救命救急型でした。もちろんこれも重要ですが,問題はその後,避難所にいる人たちやテントを張っている人たち,壊れかけた家の中にいる人たちのケアです。こういう人たちには公衆衛生的視点からの対応が必要です。私は看護者には救護班と看護班があると言っているのですが,救護班がケガや病気に対処し,看護班は生活を看ていきます。

 たとえば,被災者は自分が食べていないこと,水を飲んでいないことがわかっていません。あまりに強い衝撃を受けて,体の実感がなくなるのです。味もわからなくなる。私も阪神大震災の時には味を失いました。それから体も動かさなくなるし,埃で喉をやられる人も出てくる。病気を予防し,二次災害を起こさないために,生活を健康という側面から手当てしていくことが必要なのです。

 もちろん心のケアも重要です。避難して来ている人の中には,ケガはそれほどではなくとも,心がひどく傷ついていることがあります。自分の誇りに思っていた街が,無惨な姿になったのを見るだけで,人は本当に傷つくのです。そういうことが阪神大震災でわかってきました。

 そして避難所から仮設住宅,恒久住宅へと住まいが移っていくと,ニーズも変わってきます。仮設住宅で扉を閉ざして,誰にも心を開かない人には,ボランティアの訪問看護師が「血圧だけ測らせてください」と,ほんの少しドアを開けてもらって,話を聞くところからはじめました。恒久住宅になってからは,「まちの保健室」というふれあい広場のようなところで,気軽に健康相談ができる場所を作りました。

 これら一連のノウハウは,中東やアフリカへも持って行きましたが,皆すごく関心を持っています。

――災害看護のほかに,どういった点で日本の看護が注目されていますか。

 高齢化対策が挙げられます。日本は25年かけて高齢化が進みましたが,アジアなど発展途上国では,急速に進んでいます。急速な高齢化はある意味「予期せぬ事態」だったのです。ですから,日本の高齢者のケア,あるいは介護保険制度について学びたいという要望が多くあります。

 今回のICNでは,すでに外国からの参加者だけで約1700人が登録されています。欧米はもちろん,アフリカや南アメリカ,アジア諸国からも,皆さん日本へ来るのを楽しみにしています。先ほどの中国の例もそうですが,1つの国からでもあれだけのことが学べるわけです。世界中から5000人の看護者が集まって,それぞれの工夫が聞けるのですから,日本の看護師たちにとっても,いいチャンスになると思います。

■看護は人とのつながりの原点

「はちきん」だった少女時代

――心のケアという話が出ましたが,精神看護に興味を持たれたきっかけは何だったのでしょうか。

 高知では元気な女の子を,「はちきん」というのですが,私もそう呼ばれました。坂本竜馬のお姉さんも「はちきん」です。自分が信じること,正しいと思うことは臆せず主張し,行動する。だから高知県は離婚率も高いのですが(笑)。

 小学校と中学校で生徒会長,高校でも生徒会役員をやっていたのですが,「はちきん」タイプだったから,生徒会でもよく先生と衝突しました。思春期の頃なので「大人は信用できない」と感じて,それで「どうしたら人のことがわかるんだろう」と考えたのです。

 その時気づいたのは,すごく弱った時に本当のその人が出てくるのではないかということでした。つまり,人とのつながりの原点は,病む人のそばにいることだと思ったのです。だから私は医師になろうと思ったことは一度もなかった。患者さんのそばにいる職業に就きたかったのです。

 同時に,心と体の接点というものにもずっと興味がありました。カタカナの「ヒト」と人間の「人」がどこでつながるのだろうと。リエゾン精神看護を日本に導入したのも,心と体の接点に関わる人を育てたかったからです。

――高知女子大学に進まれたのはどうしてですか。

 高知には日赤の看護学校があったのですが,そこが経済的な困難で学生を取らなかったからです。たまたま道が閉ざされたのでよかったのですが,実は赤十字に行くのは嫌でした。私の母が貧しくて赤十字をあきらめたので,「赤十字では戦争や災害時に看護にあたれる。それがどんなにすばらしいことか」と私に言い続けたわけです。ところが,私はそれがすごく恐かった。戦争には行きたくないし,災害のあるところには行きたくない。その時はまさか自分が災害看護学会を立ち上げるとは……(笑)。不思議ですね。

 それで結果的に,高知女子大学衛生看護学科に入学しました。東大よりも早くできた衛生看護学科で,日本の大学で看護学教育をやっていたのは高知女子大と東大しかないという時代だったので,非常に幸運でした。

イスラエル大使館に飛び込む

 そういうわけで,進学時には災害看護をやるとは思いもしなかったのですが,看護班のアイデアは修士の時に考えていました。イスラエルで公衆衛生学修士を取ったのですが,環境の調整や,地域全体の健康を見る視点はすべてそこで学んできたことです。

――イスラエルに留学するのも珍しいですね。

 イスラエルの前にアメリカに留学したのですが,文化ショックで大変苦しい体験をしました。一度決めたら突っ走る人間なのですが,そんなに心が強くないのですぐコロっと……(笑)。文化が違うことで人を信用できなくなって,それが体にいろいろな兆候として出てくる。文化というものは本当に人の心と身体に影響することを実感しました。それで「文化摩擦のもっともある国はどこだろう」と考えたら,イスラエルだったのです。

 アメリカ留学後,まだ大学院の進学先を迷っていた頃,おのぼりさんで東京をウロウロしてたら,目の前にたまたまイスラエル大使館がありました。そこで中へ入っていって,「イスラエルにある公衆衛生学修士のコースに行きたいがお金がない」という話をしたんです。面接をしてくれた人が――あとで考えると,けっこう位の高い人だったらしいのですが――鬱々とした人でした。私はすでに精神科の看護師だったので「ユダヤ文化の人が日本で生活するのに,シンドイことはないですか」とカマをかけてみたら,ワーッと語り始めたのです。その時は,ただ話をして帰ったのですが,後から手紙が来て,奨学金を出すから来ないかと。人生ってわからないですね(笑)。

――思い切る時は思い切りますね。

 私は,恐いもの知らずなの(笑)。子どもの時に,橋の欄干から男の子が川に飛び込んだりしますよね。女の子は絶対にしない。でも,「男の子にできて,なんで女の子にできないんや?」と。恐がりなくせに,自分もやってみようと思ったんです。そして欄干に上がったらものすごく恐かった。普通,恐かったら後ろへ下がりますよね。でも私は,怖かったら事を終わらせたいのです。川もイスラエル大使館も,飛び込むしかない。

体験は共有しないといけない

――災害看護学会の設立など,日本初の業績が多いですね。

 災害看護は自分の経験から絶対に必要だと思いました。私は,自分の専門は精神看護にもかかわらず,震災時は自分が心に傷を負っていることさえ自覚できていなかったんです。

 うちの大学はお互いを褒めあうのが特長だったのですが,震災の後ギスギスし始めたんです。先ほどお話したアンダーウッド先生にお願いして,初めて災害後の心のケア「PTSDとは何か」について勉強会を開きました。話を聞いていると,涙が止まらなかった。感情失禁で,1週間ぐらい泣きっぱなしでした。そうなって初めて心が解けて,仲のいい皆に戻っていくというプロセスがあったのです。そのことからも,辛い体験も共有しなければいけない,1回きりの,私だけの体験で終わらせるのはもったいないと思い,学会の設立を考えました。

 日本災害看護学会は独特の学会で,現場の人が入りやすいことに加え,組織会員があるのが特徴です。病院や看護協会,大学の単位で会員になってもらい,いざという時にそこが拠点になれるようにしたいと思っています。

――まず「必要だから」という点で発想するのですね。日本学術会議の会員にも,看護職で初めて推薦されました。

 そこでも自分に何かできることがあるのではと考え,学術会議における看護の発言力を高めたいと思いました。さっそく看護学の分科会を作って動き始めました。それで,ほかの会員が驚くような看護の活動を紹介したり,あらゆる活動に看護師が入っていけるような仕掛けを作っています。そういうの大好き!(笑)

入った組織のいいところを見抜くまでは批判しない

 高知の言葉で「いられ」というのですが,私はすごく短気です。じっくり考えて行動するというよりは,走りながら考えるタイプです。ですから,やったことが全部実っているかというと,そうではない。何を仕掛けたか,自分でも忘れていたり(笑)。でも走っていれば仲間ができてくるのです。

 私に特技が唯一あるとしたら,それは人の持っている強さを見抜く力だと思います。人には必ず強いところ,いいところがある。それを信じて付き合うと,期待する以上の力が発揮できます。いいところを信じているから,欠点にも付き合えるし,私も言いたいことを単刀直入に言えるのです。卒業生にはいつも,「入った組織のいいところを見抜くまでは公には批判するな」と言っています。組織のいいところが見抜けない人が批判したところで,たとえそれがいい意見でも,誰も聞いてくれません。「この人はうちの病棟のいいところをわかってくれている」と思われてこそ,先輩も耳を傾けてくれます。

――ICNでも,誰に対してもご自分の意見はきちんと主張されたと聞きます。

 どこでもそうです(笑)。日看協の副会長時代に専門看護師制度を提案した時,きっと否定されると言われました。准看問題で長く苦しんできたので,看護師の上に看護師をつくるように思われたのです。総会で提案した時は会場の雰囲気もやはりネガティブでした。でも,「誰のためにこの制度が必要かというと,患者さんのためなのです」と主張した瞬間,会場の雰囲気ががらっと変わるのを,はっきり感じました。そして大多数の賛成で通ったんです。

――医療界のすごいところは,「患者さんのため」という一点においては絶対に議論が起きないところですよね。

 その通りです。私は日本の,世界の看護界を信頼しています。それはやはり,自分のことは顧みず,弱った人や患者,他者のことを考えられる人たちだからです。だからこそ私は,必要なことはどこでも,誰に対しても主張し,行動できるのです。

ローカルに働きグローバルに発信する

――最後に,国際看護での活躍をめざす若い看護師さんにメッセージをお願いします。

 若い人には世界の事柄に対して共感していて,看護学校や大学の入試面接の時も「国際的に活動したい」と言う人が多いですね。ただ,いざ看護師になるとチャンスの作り方も難しいですし,実際に海外で仕事をするのはほんのひと握りだと思います。でもだからといって,海外に開かれた目を閉ざさないでほしいのです。

 私はよく,「グローバルに考え,ローカルに働く」と言うのですが,最近は,「ローカルに働きながら,グローバルに発信する人になってほしい」と話しています。インターネットの時代ですから,自分の病棟の経験を,世界中に発信できますし,以前よりもずっと楽に世界の情報を得られる。グローバルな視野があったら,ローカルに仕事をする時に必ず役に立ちます。行き詰まった時にもきっと道が開けると思います。そうやって世界に関心をもち続けて,「グローバルに考えローカルに働く」人であってほしいです。

――ありがとうございました。


南裕子氏
1965年高知女子大衛生看護学科卒。72年ヘブライ大公衆衛生学修士課程修了,82年カリフォルニア大看護学部博士課程修了。93年より兵庫県立看護大学長。2004年兵庫県立大副学長に就任し,現在に至る。1999-2005年日本看護協会会長,05年より国際看護師協会会長。

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