医学界新聞

連載

2007.04.30

 

〔連載〕
感染症Up-to-date
ジュネーブの窓から

第19回 ポリオ根絶に向けたインド・ビハール州の苦闘

砂川富正(国立感染症研究所感染症情報センター)


前回よりつづく

 3月11日午後,筆者はインド北東部に位置するビハール州内のとてつもなく荒れた国道を,一路北東に向かっていた。目的地はネパール国境に位置するSupaul郡,その南に隣接するMadhepura郡である。ともに2007年に入り,新規ポリオ患者の発生を報告していた。

 2007年の前半,世界で4か国のみ残ったポリオ流行国において,ナイジェリアと並ぶ主要な宿主国であるインドでは,二大流行地域(ウッタル・プラデーシュ州,ビハール州)を中心に,都合7回のポリオワクチン補足的接種キャンペーン(SIAs)が計画されている。筆者は2007年3月ラウンド支援をビハール州で行うために,初めてこの地を訪れたのだ。流行国でのポリオワクチンSIAsへの参加は初めてだ。ポリオ根絶へのカウントダウンがなかなか進まず,根絶の可能性への疑問まで出されるようになった,特にインドにおけるポリオ対策の現状。筆者は現場に立って,自分の目で何を見ることになるのか,興味は尽きなかった。

ビハール州の厳しい環境

 ビハール州は,西部はウッタル・プラデーシュ州,北部はネパール国境と接している。2001年の統計では,約8300万人の人口は,インドではウッタル・プラデーシュ州(1億7000万人),マハラシュトラ州(9700万人)に次いで3番目に多い。この州はインド国内最貧と言われ,地方行政による社会インフラ整備は大幅に遅れており,低い識字率に加えて犯罪は多く,法律で禁止されているカースト制度が根強く残る。訪れたカースト最下層の集落では,土地を持たない極端に貧しい小作の人々の中に,栄養失調の子供を何人も見た。地域では農業が産業の中心であるものの,常に自然に左右される。雨季の7-9月にかけて毎年大洪水が発生する。

 筆者らはSupaul郡でポリオ患者が報告された地域に出かけたが,集落に車でもっとも近づくことのできた場所は,干上がったKosi川の巨大な川床の端までであった。地平線上にその集落は見えた。雨季には一体は巨大な湖沼のようになり,水はさらに溢れて平野全体を覆いつくすという。このような川がネパールより源流を発して複数あり,ビハール州を横切る,聖なるガンジス川の本流に向かって注いでいる。島のような集落に辿り着くためには,乾季ならばオートバイか徒歩,雨季ならばボートを使うしかない。住民は,水位とともに住むところを転々と変える。この浮浪の集団こそは,前述の,社会の最下層カーストとみなされる人々である。ビハール州のポリオ患者の多くが,このような最貧の集団から出ている。

ポリオワクチンSIAsモニタリングで見た状況

 そろそろ本題に入ろう。定住場所を持たない集団より生まれる子どもたちをも確実に含めてワクチン接種を行うことの困難さは計り知れない。しかも年間に出生する新生児の数は,ビハール州だけでも1000万人以上に達している(筆者概算)。そのような困難な状況で,ポリオワクチンSIAsがどのように行われているのか,筆者は,地理的にアクセス困難な地域など,いくつかのハイリスク地域(High Risk Area: HRA)を選んでワクチン接種状況のモニタリングを行った。

 実際に現場の様子を見て筆者は驚いた。少なくとも,筆者が向かったSupaul,Madhepura両郡において,特にベテランを多く差し向けたHouse-to-houseチームは,ほぼ完璧なポリオワクチン接種活動を行っていた。観察した集落すべてにおいて,村に住みながら接種から漏れた児は見つけられなかった。また,観察できた,すべての新生児にワクチンが投与されていた。インドでは,年に何回ものポリオワクチンSIAsを実施している。その経験の積み重ねからか,SIAsの様子は他の国で見られたようなお祭り的な華やいだ雰囲気でないかわりに,ほとんどプロのような,かなり緻密な接種活動を行っている様子が見て取れた。

 地域の活動がすべて完璧だったとは思わない。実際に,隣接する郡の市街地で定期接種用のワクチン管理の不備を発見したが,筆者らが検出した問題点はその一点であった。また,急性弛緩性麻痺(Acute Flaccid Paralysis:AFP)サーベイランスも,やや過剰と思えるほどに,感度を増している様子が見て取れた。他の郡もほぼ同様との情報から,ビハール州においては,ワクチン接種およびサーベイランスの質ともに,かなり高いとの印象を持った。ポリオは不顕性感染が多く,AFPサーベイランスをもってしても,地域を循環するウイルスの真の状況は十分にはわからないかもしれない。また,地域における非ポリオエンテロウイルスの高い浸淫状況から,経口投与ワクチンの効果を下げる下痢の発生が頻回であることは理解できる。この地域における集団免疫能の上昇そして維持のためには,感受性者の掘り起こしと対策(移動で見逃された児や新生児の接種漏れを努めて少なくすること),すなわち現在の活動をさらに根気強く質を高めていくしかない。適宜,疫学およびウイルス学的な調査・検証も行われるべきである。少なくとも今回,筆者が観察したHRA地域におけるワクチン接種活動は,かつての天然痘撲滅時のそれよりかなり高いレベルにあるのではとの多くの声を聞いたことは強調しておきたい。

ポリオ根絶の前に横たわる問題と今後

 筆者が今回見ていない西のウッタル・プラデーシュ州では,地理的困難さはビハール州ほどではないようだ。最大の問題は,同州では多数を占めるイスラム系の住民の一部が,ポリオワクチン接種事業を宗教的な弾圧と誤解し,政府への協力を拒んでいるからだという。宗教指導者などによる社会動員策が進んでいるが,地域のモチベーションに潜在的に著しい影響を与えている可能性が高い。

 WHOは昨年,ポリオ根絶を確実なものにするために,3つの新戦略を打ち出した。(1)免疫賦与効果の高いmOPV(単価ワクチン)などの新しいツールの使用,(2)国際的なウイルスの拡散に対する迅速かつ標準的な取り組みの実施,(3)4つの流行国に対する特別な努力の傾注,である。(1)について,確かにインドネシアなどで,ポリオのアウトブレイクを最終的に封じ込めるダメ押しになったと感じている。(2)については,筆者自身がアウトブレイク情報の分析や対応への橋渡しなどをしている中で,かつてナミビアで発生した急性神経症状症候群がポリオだった事例(参照)があったが,この事例では2倍以上の迅速さで封じ込めに至り,最終例の報告は第1例報告から50日目であった。改正国際保健規則(IHR)のもと,Epidemic Alert and Verification活動の有効性をポリオ根絶についても示しえたと感じている。(3)については,述べてきたとおりである。流行国では特に力を入れた活動が行われている。

 2007年,ポリオ根絶に向けた活動は大きな節目を迎えている。わが国からも,その活動への効果的な支援のてこ入れを行うべきは今ではないか,と筆者には思えてならない。

(つづく)

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