医学界新聞

 

【連続座談会】
脳とこころ-21世紀の課題

(1)脳とこころをいかに結ぶか


伊藤正男氏
理化学研究所脳科学総合研
究センター所長<司会>
 
合原一幸氏
東京大学大学院教授・
新領域創成科学研究科
 
乾 敏郎氏
京都大学大学院教授・
情報学研究科
 

藤田晢也氏
(財)ルイ・パストゥール医学
研究所センター所長
 
茂木健一郎氏
ソニー・コンピュータ・
サイエンス研究所
 
野々村禎昭氏
東京大学名誉教授
<「生体の科学」編集部>


 脳は膨大な数の細胞によって構成されている。近年,個々の細胞やその遺伝子レベルの知識が著しく進歩したが,その一方,脳がいかにして統合されたこころの座となるのか,その仕組みについての理解がまだ十分でなく,その解明への関心が世界的に高まってきた。
 脳とこころの関係を明らかにするためには,複雑なシステムとしての脳の姿を明らかにすることが必要だが,分析,還元が得意な現代の自然科学には,複雑なシステムにアプローチする強力な方法論がなく,導きとすべきモデルもまだ十分ではない。複雑なシステムとしての脳にいかに挑戦すべきかは,21世紀における科学の最大の課題になると思われる。
 この一連の座談会はそれを2002年冒頭の問いかけとして,企画されたものである。

(伊藤正男)


伊藤〈司会〉 『生体の科学』誌は,ここ数年新年号に連続座談会を企画していますが,今年は「脳とこころ」の問題を取り上げることにしました。最近この問題への関心も高まっていますし,科学的な問題としての性格もかなりよく認識されてきているのではないかと思います。今日はその第1回目として「脳とこころをいかに結ぶか」について,それぞれの立場からこころの座としての脳をどのようにイメージできるかを議論したいと思います。

■進化の立場から

二元論と自然科学:生物の特殊性とは

伊藤 私の先生のジョン・エックルスは,晩年は完全な二元論者の立場を強力に推し進め,脳とこころはまったく独立で,ただ相互作用するだけだという考えを貫きました。その立場で脳とこころの関係を説明しようとして,無理な説明を試みたのが「こころはいかに脳をコントロールするか」という本です。二元論を自然科学と両立させようとすると,いかに無理なことになるかがよくわかるという意味で貴重な本です。
藤田 伊藤先生が言われた二元論は,因果律を中心とした哲学です。しかし,生物はそこからはみ出していることを認識しないと,脳やこころ,感覚と運動の問題はたぶん理解できないのではないかと思います。二元論では,生物の特性が出てくる理論的な余裕がないですね。
伊藤 「脳とこころ」の問題の前に,生物の特徴を明確にしないといけないですね。
藤田 生物と無生物の違いは,第1に自発性があること。第2に目的を持っていること。第3には自分も子孫も永続させる。この3つの特性を持つのが生物で,生物が生きるための原理が脳に結実していると考えると,この3つを考える必要があります。
 自発性は生命の本質的なもので,生命を維持するために作り出された脳が,自発性を第一義的な原理にするのは当然だと思います。また,自然淘汰を経て生き残ってきた物質はすべて自分が自己再生産をして生き続けるという存在原理を持っていたわけです。目的論も進化の中で創成されたと考えると,生物が目的を持っていることが理解できると思います。そして,結果としてどの生命も自分を永続させ,自己再生産するという原理を持っているわけです。

自発性とゆらぎ

伊藤 藤田先生があげられた生物の特徴の中で,自発性は自由意思の原型のようにも思えます。自発的に動いて刺激に遭遇するのと,刺激を受けてそれに向かって動く,という2通りの行動様式が並行して進化してきたわけですが,自発性のほうが自由意思の源になったと考えるとおもしろい。
藤田 自発性と機械的な運動は,どちらもお互いに排他的ではない。ただ,彼らのメカニズムはナノテクノロジーですから,もともとゆらぎがある。それを積み上げてくるわけですから,いろいろな選択肢が出てくる。その中で生存のための価値があるものを,祖先が固定してくれたメカニズムで大まかに選ぶわけで,次に何が起こるかは,それほど高い精度で予言できません。
 それらの分子は離合集散しているうちに結果として合目的な化学反応だけが生き残ってきて,その情報はDNAに固定されるわけですね。ですから,そのゆらぎを束ねた時に大きな目的に向かって進むベクトルの集合になり得ると思う。そういう情報を持っている遺伝子を獲得したものだけが生き残ってきたわけですね。ただし,これは決して一種類ではなく,大まかにたぶんこれがいいだろうという蓋然的なものだと思います。それが当たってきたから現在の生物が生き残ってきたので,ときどき失敗しますね。そういう個体は死ぬ。しかし進化が,世界の次の状態の予想に賭けて行動する生物の中から,その成功の蓋然性が非常に高いものを選び抜いてきたから,現在の生物が残ってきたと言えるのです。

単細胞にもこころはあるのか:
環境との相互作用とコミュニケーション

 藤田先生がおっしゃった生物の特徴については同感ですが,生物の存在とこころとはどのように関係するのでしょうか。
藤田 それは,「こころ」をどう定義するかによると思います。もう少し限定して「意識」にして,意識は環境が変わることによって柔軟に行動を,しかも合目的に変えることだと定義すると,生物である限りこの意味の意識は持っていると思います。環境が変われば明らかにたくさんの選択肢の中から違うものを選んでくる。こころの定義を飛ばして議論を進めると,皆自分自身で自分のこころを意識できるという人間くさい発想法からなかなか離れることができないですね。
 人間は自分自身をモニターできるし,メンタルなシミュレーションもできるけれども,ゾウリムシはたぶんやっていない。
合原 単細胞生物だから難しい。
藤田 ゾウリムシにこころがあるかと問われたら,われわれみたいに物や形を見ているわけではないし,人間のこころとは違うと言わざるを得ないでしょう。
野々村 私は単細胞では無理だと思いますし,多細胞生物でも中枢神経系がないものにはこころがないと感じます。
 私たちは状況判断,周りの状況変化,他者がどう振る舞うかを予測できます。それがこころと関係するのではないかと思いますが,いかがでしょうか。
藤田 環境変化に対して,何が起こるかを因果律にしたがって判断し,生存するための価値を見分けるメカニズムを獲得したものだけが生き残ってきて,それが複雑になってきたわけです。
 他人のこころを読むことは,人間やホモ・サピエンス・サピエンスでは重要な武器になったと思います。ネアンデルタール人は先を読む力や,相手の表情などから次に起こることを読む力が弱いから,大きな社会や親密な関係で結ばれた社会を作る能力がなかったと考えられます。
 その辺りが脳とこころの関係を解く一つの糸口になるのでしょう。例えばチンパンジーは思考するけれども,少なくとも何らかの文法を持った言語と思えるようなものは使っていないのではないでしょうか。
野々村 例えば,犬や猫は人に対してコミュニケーションもいいし,愛情もあるように思う。そこで大事なことは,種族維持のための本能です。一見,人はそこを愛情と表現し,こころがあるような気がするけれど,それは実は種族の維持の本能に従っているにすぎないのかもしれない。
 神経系があれば反応できるわけですが,ただの反応ではいけないので,私は思考ではないかなという気がしていたのです。自己再生しなければ思考とならないので,そのための手段が言語だと思います。

こころの進化は連続か不連続か

伊藤 進化の立場で脳とこころの関係を議論しましたが,藤田先生と乾先生や野々村先生の考えは対照的ですね。
藤田 こころの成立過程をレビューすると次のようになると思います。
 進化の過程で能動的に動いている物質のかたまりみたいなものができ,その相互作用の中から特殊な働きが生まれた。種子は宇宙に初めからあったゆらぎの運動というようなものを一定方向に束ねてきた。そういう生物特有の成果として,目的や自己複製能を獲得し,その延長として環境を認識したり,運動する働きができ,原始的なレベルのこころの原型ができた。その後,大脳や言語中枢ができ,ものごとを概念的に捉えたり,計算できる能力ができてきた。その結果,自分自身を認識できるという段階に達して,狭い意味のこころというものになってきた。だから定義次第では,最初からあると言えるし,最後に人間,しかもホモ・サピエンスのレベルに至って初めて,こころができたとも言えます。私としては連続的にできてきたという立場を重視したいと思います。
野々村 私は不連続でないかと思います。植物にはどう考えてもこころがないし,脳のある動物はこころがあるといっても,それは低いレベルです。動物の行動をみてこころがあると思うのは擬人的な考えではないですか。思考や言語が出てきて初めてこころと言えるのではないかと考えます。
伊藤 進化とともに脳の複雑な構造が発達して,そのシステム的な機能としてこころが生まれたという機能論の考えが一般に受け入れられていますが,そういう分布的なシステムから,自己という意識体験がどうやって統合されるかの見当がつかない。一方,こころは脳の特定の領域に局在し,さらにその領域の中でも特定の細胞が担っているのではないかという,集中的な考えは依然として残っています。でもこの考えは結局,脳の中に小人がいるというホモンクルスの考えに陥ってしまいます。

■こころの数理モデルはできるか

脳の状態空間

伊藤 数理理論の立場からは,脳とこころはどうつながるのでしょうか。
合原 理論の分野では,機械論はある意味で要素還元論の逆過程のような形で捉えられます。複雑なシステムを要素に還元して,理解した断片を組み合わせて全体を理解するという方法論です。ところが,そういう方法論で生命や意識やこころが理解できるのか,つまり理論的方法論自体が論点になると思います。
茂木 私は記述の言語の問題が気になります。合原先生の場合は数学的な言語を使われる。おそらくそういう議論は,自然言語だけでなく数学的言語にも当てはまると思います。つまり数式としてあるものを記述しているというナイーブな立場をとっていては,こころと脳の問題はおそらく解決しません。しばしば,脳の機械論と主観的な心的体験という立場の対峙が行なわれますが,われわれは実は分子機械としての脳を含めた機械自体が何かということは知らない。おそらく問題は機械自体がこころを持つか持たないかではなく,機械を記述する数学的,記号的な言語が,われわれがこころと呼んでいる生き生きとした体験を記述するには適切ではないところに問題があるように思えます。
合原 同感です。数理モデルを作る時にはニュートン力学がベースになりますが,ニュートン力学で意識やこころがモデル化できるか,という問題が問われていると思います。そういう立場で見直すと,ニュートン力学では,ある状態空間を決め,そこで絶対時間が経っていった時の状態の変化を記述するという枠組みを設定します。こころや意識を考えるのにまず時間の捉え方でいいのかという問題があります。
 モデルを作る時に一番困るのが状態変数の問題です。昔,各ニューロンの内部状態を保持するとともに,その瞬間に飛び交っているスパイクをすべてある集合としてとらえて,その状態空間もどきみたいなものを作ってみたのです。そうすると,スパイクはシナプス後ニューロンに届くと消えていきますから,状態空間の次元みたいなものが変わっていく。そういう,記述が難しいシステムになるのですね。
 それから,ニュートン力学のある意味ではバーチャルなところは,状態が実数で定義されている,実数を扱えるという前提の上に立っているわけです。ところが,本当に実数を計算できるかどうかという問題があって,特に記号論理とかデジタルコンピュータという離散的立場から考えると,実数そのものは記述できないという困難さがあります。さらに,微分可能性の問題があります。ニュートン力学は基本的に微分可能性を前提に置いていますが,必ずしもいつも前提にはできないのではないかという論点もあります。

脳に独自の理論は作れるか

合原 われわれの立場は,ニューロンが基本要素であるので,そこから目は離さないでおくべきだというものです。そういう意味で,複雑系の理論は要素還元論を否定するとか超えると言われるのですが,その時ベースになるのは要素還元論です。ニューロンの性質がわからない限り,ニューロンからできている複雑系である脳の性質もわからないわけです。だから基本的に重要な課題は,ニューロンの性質がどういうものかを理解することです。その時,複雑系の観点で重視するのは部分と全体との相互循環です。つまり個々の部品としてのニューロンと脳全体の機能との間に相互循環があるという立場で脳の機能発現を捉える必要があります。個々のニューロンの活動自体が,相互作用や脳の情報表現に影響を与えている可能性があり,その一方で,脳の機能状態が逆に個々のニューロンの動作特性に影響を与えている可能性もあります。
 部分と全体の話ですが,それは脳の中の話で,対環境,対人間という相互作用の中で認識というものを考えなければいけないと思います。
合原 外のループも非常に重要ですね。非平衡熱力学の言葉を使えば,生物は外に対して開かれた,開放系として捉えられます。熱力学的にも情報力学的にもオープンなシステムとして脳を捉えるべきで,まさに環境と相互作用する非線形システムとして脳をとらえるという視点があります。
藤田 人間を外から見ていると,複雑なバーチャル・ワールドを頭の中に持っていて複雑に計算しているかと思い込んでいますが,実はそうでもない可能性があります。単純なパラメーターで,答が単純に出るようなニューラルメカニズムがあり,あまりにもうまくできているので,本当に網羅的にニューロンに針を刺して,そこでできてきたイメージから何をやっているかを積極的に組み上げるのは,難しい面があるのではないかとも思います。逆に,脳は単純なことをやりながら,生きるためにはものすごく有効な情報を集め,それが積み重なって,こころのかなりの部分を作っている可能性は十分あるのではないかと思います。
合原 そうですね。確かに進化の過程を結構いびつな形で適応して,紆余曲折を経てでき上がったもので,結果的にごちゃごちゃとした形で実現されていて,細かく見すぎるとかえって原理がみえにくいということもあり得ると思います。

脳の実験研究のやり方が変ってきた

茂木 最近,脳科学の様子がすっかり変わってしまったように思われます。私が研究を始めた1992年頃は,下側頭葉皮質で形態視のメカニズムはどうなっているかという研究が最先端でした。その後,「こころの理論」が注目されたり,「ミラーニューロン」という,自分がある行動をしても他人が同じ行動をするのを見ても,同じように活動するようなニューロンが見つかって以来,感覚と運動がまさに融合した世界がそこにあって,例えばボディイメージがどのように作られるかということが,認知の最も高次の部分に関わることがわかってきました。こうなると,従来の電気生理がやってきた視覚野,聴覚野というアプローチでは十分ではありません。
 ミラーニューロンやこころの理論,そのような認知的な問題に真剣に取り組んでいる人ほど,悩みが深いと思いますね。
伊藤 実験するほうからいうと,個々のエレメントを一生懸命捉まえてきたのですが,関係を調べようとすると難しいですね。本当に有効な方法論や技術がまだないのですが,どうすればよいのですか。
合原 やはり関係性を見ることが重要です。この問題はまさにコーディングに関係するわけですね。つまり複数のニューロン間の相関でコードしているのであれば単一電極ではわからないし,そうではない,例えばpopulation rate cordingのようなものであれば,多重電極で計測しても結局単一電極による単一ニューロンの計測のくり返しと同じだということになるかもしれない。
 脳のイメージング技術が進歩して,人間の脳活動がある程度簡単にとれるようになったので,脳全体のダイナミックな相互作用はこれからどんどんわかってくるのではないかなという期待があります。

■認知科学のこころ

伊藤 認知科学はどう考えるのですか。
 こころに必要な条件をまず探していこうというのが認知科学の立場です。こころという複雑なものを,できるだけサブシステム,サブファンクションに分けて,そのファンクションの間の相互作用を調べていくのが基本だと思います。
 最近,認知科学の周りで大きい変化がありました。1点は外との相互作用が重視されるようになったことです。ミラーニューロンもそうですが,相手の動作の理解は表情なども含めて,今までは認知研究の中にあまり入れてきませんでした。というのは,動作をコントロールしたり,実験的に持ち込むのが難しかったからで,今はデータグローブやデータスーツがあって動作もかなり実験的に測定できるようになった。
 もう1点はコミュニケーション,特に非言語コミュニケーションの中で,動作や表情の理解が脳内でどうなっているのかということが大きなテーマになってきたことです。そのために,今まで脳の腹側系に注目していたのが,急に背側系に興味を持ちだした。1人しかいなかったら,こころも意識も生まれてこないのではないか。周りに反応するものがいて,そういう中でこころというものの存在がある。そういう相互作用の中で認識というものを考えようというのが最近の傾向だと思います。
 さらにもう1点は,「体でわかる」とか「体で学習する」ことが重要であると思います。私たちは周りとコミュニケーションしないといけないので,単に客観的に認識できるだけではなく,コミュニケーション能力を持っていないとだめです。体で学習し認知するというのは,コミュニケーションということを考えると,当然大切になってきます。伊藤先生が小脳について言われている思考モデルの考えを,若い人が実験的にやろうとしている。それができるような技術の進歩があったのですね。
藤田 言語機能とは関係ないのですか。おそらく相手が何を思っているかがわかるというのは,自分自身が自分の外に自分と同じような人間,つまりalter ego,第2の自分がいるとわかることが前提で,頭の中にそれがはっきり意識されて,初めて自・他の意識が成立すると思います。そうすると,自分の中に主観的に存在しているものを客観的に表現できる言語,言語的論理というものが前提になります。やはり言語が作る“主観の客観化”という能力が非常に重要ではないかと思いますね。

言語がターゲットに

茂木 意識やこころの問題は,言語が最終的なターゲットの1つだろうと思います。言語の本質にどう至るかというのはかなり難しい問題だと思うのですが,それについて何かお考えはございますか。
 今まで言語領野と言われたところは,言語特有の処理しかしていないのではないかという暗黙の了解があったわけですが,例えばブローカ領野に対応するところにミラーニューロンが見つかったり,人間の研究だと,例えば人がある目的的な行動をしている手の動きを見ると,ブローカ領野のあたりが活動する。だから言語特有ではなくなってきているのですね。
 昔からなぜ左の脳に言語野があるかという疑問に対して,利き手と関係があるのではないかと考えられていました。現在の手話がそうですが,昔はサインを手で送っていたのではないか。その時に利き手が主なサインを送り,その動きと左脳にある言語野の活動が関係があるのではないかと考えられます。音声言語でなくても言語野が活動するという報告はたくさんありますね。さらに,頭の中でメンタルなシミュレーションをすることと,手足を動かすということが近いことを示唆するイメージングの研究が出ています。
合原 先ほどの藤田先生の話とも関係するのですが,人類進化のどの段階でどういう理由で脳に言語や推論などの高次機能が発生したのかという問題は,たいへん興味深いですね。1つの考え方は,ある段階で突然脳に大きな変化が不連続的に生じたというもの。もう1つは,脳に関してはチンパンジーなどの類人猿も含めてある程度連続的なものがあって,それが顕在化して,現生人類のどこかの段階で脳の高次機能として発現してきた,というものです。このあたりがポイントのような気がします。

■意識の中身は

伊藤 意識の問題は扱いにくいが,茂木先生が問題にしておられる「クオリア」(qualia)の観点からはどうですか。
茂木 赤という色を例にとりますと,これは「赤」という色だというように,シンボル化するプロセス,あるいは赤をめぐるさまざまな文化的な解釈を張りつけるプロセスがある。そういうプロセス以前の原始的な赤の質感を「クオリア」と言います。
 意識にはいろいろなレベルがありますが,今の文脈の中でクオリアに関係するのは,アウエアネスといわれるレベルです。例えば視覚でいうと,ぼんやりと世界を見ている,言語をまだ持たない2歳児が世界をぼうっと見ているような状態ですね。われわれのアウエアネスの中に赤い色のクオリアのようなものがあるということが,ある意味では意識の本質だと考える人が増えてきています。

動物にもクオリアはある

茂木 私は,動物にもかなり下等なものからクオリアはあると考えています。デービッド・フィールドが,第一次視覚野のニューロンの受容野の種類が,環境の中のある種の冗長にくり返し現れる特徴を表現するようなものになっているという理論を作った。脳は環境の中にくり返し現れる冗長な特徴を抽出して,その冗長性を生かして環境を把握する方向に進化してきた。進化は連続したプロセスです。われわれの視覚的アウエアネスの中に現れるクオリアは,視覚的な環境の中に繰り返し現れる冗長な特徴を表している。だから,人間の感じるクオリアというのは,環境の中に繰り返し現れる冗長な特徴だと言えます。このような,環境の中にある冗長な特徴の表現としてのクオリアは,動物のこころの中にもあると考えるわけです。
 それは心理学,あるいは生理学の言葉で言えば,感覚になりますね。そういうものも一応こころといってよいのですか。
茂木 こころの中身には高次の認知プロセスや思考などもありますが,その前段階として,アウエアネスがあるという点についてはコンセンサスがあると思います。そのアウエアネスのレベルでクオリアという問題を考えた時には,今言った意味で,かなり初期の動物から連続的に人間まで進化の過程でつながっている。そういう意味で,世界をただぼんやりとクオリアのかたまりとして見ているとか,そういう状態というのは動物にもあるだろうと思います。

クオリアと認知

茂木 私が最近注目しているのは,視野の同じ位置に右目と左目から違う刺激を入れると,右目と左目の刺激が闘争してどちらか一方だけが見える,「両眼視野闘争」という現象です。どうも何かが見えるためには脳の中である程度解釈が成立して,原始的な感覚と認知のプロセスの間でマッチングがとれる必要があるようです。つまり,いわゆる「感覚」と「認知」のプロセスは,実はあまり切り離せないのではないかと感じているのです。
 一言でいえば,原始的な感覚とクオリアは,環境の中に繰り返し現れる冗長な特徴を表しています。有名な若い女と老婆の多義図形がありますが,あれはクオリアとしては何回見ても白と黒のパターンが同じように見えるわけです。それをわれわれが若い女と見る,あるいは老婆と見るという認知過程は見るたびに変わるし,その人の生育環境によっても変わる。1人の人が見ていても,自分ではコントロールできない形でphaseが変わる。あるphaseが続くのは数秒です。その動的なほうが認知で,クオリアはどちらかというと認知過程の動的な性質を支えるために,ある程度環境を安定に表現するものだと考えられます。
合原 そうすると,むしろ下位レベルから立ち上がってくるほうにウェートを置いている表現のような気がするのですが。
茂木 そういうことでもないのです。細かくなりますが,高次の認知プロセスも含めて,私たちが惹識的に感じることはすべてクオリアだと定義することもできます。その場合,先ほどから問題になっている「赤」の質感などの原始的感覚は「感覚的クオリア」,それに対して高次の認識を支えるのが「志向的クオリア」と呼ばれます。

■自己への統合

無意識の世界

伊藤 こころは脳の生みだす働きであるという機能論の立場は皆さんに共通していると思いますが,どうやって脳が統一的な意識を生みだすと考えたらよいのでしょうか。合原先生の数理理論からはどのようにお考えですか。
合原 意識を考える上で同じぐらい重要なのは,無意識の問題だと考えています。相補的な無意識を考えないと意識の問題というのはわからないと思います。カオスの研究もそうですが,非線形科学というのはこれまで,オーダーとか周期性に光を当ててきました。ところが,それはほんの一部であって,そのまわりには非常に大きなカオスの世界があって,その中からオーダーをひろい上げてきたという感じです。そういう意味では,意識を考える上でも,実は無意識のところで脳はすごくいろいろなことをやっているように見える。
 先ほどの多義性という観点で言えば,今見えているものと,その裏で走っているものとの関係ですね。そういうものは結構生理学的にもデータが出始めているし,そのあたりだったらもしかすると理論化可能な段階に来ているのかもしれません。
 もう1つ重要なことは,脳はたいへん密につながり,かつ各ニューロンが非線形性を持っているので,アトラクタがたくさんできて競合するのが当たり前です。他方で,われわれの内観でいうと,意識は1つのような気がします。そこで,何で意識が1つであるように思えるのかというのはこの意味ですごく不思議で,これは理論的に解決しなければいけない問題だと思います。
伊藤 「アイネス」(“I”ness;自己意識)ですね。

アイネスへの統合

藤田 進化の辿ってきた過程では,ファンクションがばらばらのシステムもできてきたと思います。しかし,それでは合目的な行動をする時には絶対に生存のための価値がない。だからだめになって,結果として統合的に感覚・認知・行動できるシステム,いわゆるカントのいうApperception(統覚)というものを持って1つにまとまっているシステムだけが生き残ってきた。そういう説明が一番わかりやすいと思います。
合原 逆に言うと,そういう数理モデルが作れるはずですね。ある定義と枠組みの下で,意識と定義された機能を持っているような数理モデルは作れる。それを作った上で,なぜ1つになるかという問題に迫るのが理論的な迫り方だと思います。
 対象は人間でも物でもいいのですが,対象の自己中心的なモデルを作るということが重要ではないでしょうか。それを使って自分が行動を起こした時に,対象はどう反応するかを予測する。行動として出なくても,頭の中でそれをシミュレートできる。この機能がこころの一番重要な機能ではないか,そこをもう少し認知科学的に今後詰めたいと思います。
茂木 われわれは主観的な体験を持っていて,それが「アイネス;自分が自分であること」につながる。そういう話をするとたいていの人は曖昧だと思うけれども,実は脳の中のニューロンの活動がある時空間パターンで起こると,非常に精密な形で,いろいろな表象に支えられた「アイネス」が生じてしまうということがあるわけです。私は何とかニューロンの活動と,主観的体験の間の関係の厳密性を表現する方法を見つけたいと思います。ただし,ニューロンの相互作用の関係性を測定するのは非常に大変で,両眼視野闘争の例でもわかるように,一次視覚野だけではなく,視覚領域全体はもちろん,おそらく前頭前野まで含めないと,われわれが「見る」という体験は再現できないわけです。データが揃って,それに対する厳密な法則ができるのは,相当先になるでしょうね。
合原 ただ,全部を計測する必要はなく,とりあえず断片情報でもよいと思います。
茂木 具体的な実験データに裏づけられた意識のモデルよりも先に,原理問題の解決があるかもしれません。エックルスが晩年に気にしていたことですが,そもそも客観的で物理的に動いている世界の中に,なぜ「私のこころ」などというものがあるのか,その原理問題が先に解決されてしまう可能性がある気がします。なぜ心的体験などというものがあるのかという原理問題は,いくら測定を積み重ねてもわかるわけではなく,ある種の思考のブレークスルーがあってこそ明らかになるのではないか。そちらのほうが先なのではないか,という気がします。
合原 確かにデータがなくても,新しい理論を立てることはできます。
茂木 何でそもそも心的体験があるのかという,その必然性は誰も今説明できないわけです。そちらの方の説明をつけることが先かなという気が何となくするのです。
伊藤 いろいろこころに向けて積み上げてきましたが,最後にやはり大きな断層にぶつかりました。この断層を二元論で片づけてしまわないで,自然科学の橋を架けたいのですが,もっとデータを積んでそれをもとに組み立てないといけないという考えと,橋をどこにどう架けるかを概念的にでも見つけるほうが先だ,という考えに分かれたようです。この問題は後に続く座談会でも議論を続けることになります。大変興味深いお話をありがとうございました。

(おわり)

 この座談会は,雑誌『生体の科学』で企画された「連続座談会:脳とこころ-21世紀の課題」のうち,「(1)脳とこころをいかに結ぶか」を医学界新聞編集室で再構成したものです。
 なお,全3回の全文は同誌第53巻1号に掲載されます。
[週刊医学界新聞編集室]

連続座談会
脳とこころ-21世紀の課題

(1)脳とこころをいかに結ぶか
(2)こころと脳の要素との関係
(第2473号に掲載)
(3)脳における統合の仕組み
(第2474号に掲載)