医学界新聞

看護学雑誌 創刊50周年記念
座談会 看護の50年を振り返る(3)

〔司会〕
川島みどり氏
(健和会臨床看護学研究所長)
  金子光氏
(元厚生省看護課長,元衆議院議員)

高橋シュン氏
(聖路加看護大学名誉教授)


看護の憂い

器よりも先によりよい中身を

 川島 学歴社会がいろいろな意味で批判される時になって,看護教育は遅ればせながら大学化してきて,いま全体が何か浮ついているように思うのですが。
 高橋 そうです。私もそう思います。
 金子 何年も前に厚生省が計画を立てて,文部省と共同して各県に1校ずつ医科大学を作ったでしょう。だけど実際問題としてあれは決して成功してないのよね。今ではあんなものを作る必要がなかったという批判があって,医者ができすぎて困っているという話も聞いたりするのね。私,看護でも同じことになりはしないかと危惧しているんです。できすぎて困るかどうかは知らないけども,安易に学校を作るということはしてほしくないですね。
 高橋 文部省は金さえ出せばいいという考えがおありになるかもしれませんけど,人を作らないで何でできますか。いまの看護大学って既成のところからスタッフをみんな引っこ抜いて作っているという状況でしょう。あんな節操のないことはないですよ。
 金子 私,さっきあなたに昔の文部省のほうがよっぽど話がわかると言ったでしょう。それは,あの新しい制度ができた当時のことなの。看護学校を新しくしなきゃならないという時に,困ったのは教える側の問題。高等学校を卒業してきた人が学生だから,それを教える看護婦は大卒でないとだめだと文部省は言うの。だけど,大卒の看護婦なんて日本中探したっていませんよ。だから,「そんな人がいない時にやれと言われたって困ります」と言ったのね。そうしたら,何とかしなきゃいけないから,名を捨てて実を取ろうということになって,文部省が言い出して教員養成講習を作ったのよ。ほんとは教員養成の学校が欲しかったのだけど,残念ながらあの時にそこまでできなかった。しかも急ぐから。それで短い期間だったけれど講習会を開いてにわか教員を作ったのよ。
 高橋 私は,昭和23(1948)年から20年近くも文部省,厚生省,看護協会の講師をやりましたよ。
 金子 そこで教員を作って学校へ配属する。そしてまた教員になれるような人を各県から指導者講習会へ送ってよこすと。そして教育して学校へ返すというやり方をしました。だけどいまの大学はそれになっていない。教員の用意がないんですね。
 川島 金子先生は戦前,戦後と行政を含めてずっと保健婦の指導をしていらしたと思いますが,現在保健所再編成が言われ出して,保健婦さんたちもご自分たちのアイデンティティをなかなか持てないで悩んでいる方が多いようです。そういう状況をどうごらんになりますか。
 金子 私,あまり詳しくは知らないのですけれど,そうらしいですね。それは厚生省,いわゆる行政の問題だと思います。初めは保健所がなかったら夜も日も明けないみたいに言われていました。昭和12(1937)年に保健所法ができ,翌年に厚生省が誕生して日本中に保健所を設置し担当地域を作らせましたが,日本の国民は全部どこかの保健所の傘下に守られるという,いわゆる保健所網を確立するという政策でした。それでずうっと進んできたのだけど,途中で保健所たそがれ論というのが出て,それが立ち直ったと思ったら今度は何になったの? 日本にGHQ主導型の公衆衛生行政が入ってきて,そして県の衛生部長には医師がなるという施策をとり,組織的にもきちっと整えてやって出発してきたのに,途中から保健婦の活動も随分違ってきちゃったと思えますね。
 川島 保健婦さんの数も多分足りなくて,それがいい仕事につながらなくなり,国民から遊離していったのかなという感じもしますが,どうなのでしょうね。
 金子 それはやはり看護の行政がだめになってきたからだと思います。GHQの指導下では中央もさることながら,全国を9ブロックに分けた都道府県体制もできました。そこにナースがいて,各県での看護指導をしてきたわよね。そして看護とはこういうもの,病院ではこうしなきゃいけない,保健所はこうしなきゃいけないということを指導してきた。公衆衛生看護は看護行政の中の一部ですからね。
 戦後すぐの話で,今は逸話になっているけれど,オルトさんたちが病院へ訪ねて行くと,院長と事務長がまず応接間へ迎え入れて「ようこそ」ということになりますね。だけど,話が始まってもそこに看護婦がいない。それで,オルトさんは「ここにナースがいない,婦長さんを呼びなさい」と言うわけです。当の婦長さんは静々と入ってきて部屋の隅のほうへ座る。そうしたら,彼女は「こっちへいらっしゃい」と院長の横へ座らせて,この人はこの病院でどのような仕事をしているか知っていますか,と病院長に看護婦の必要性をとくとくと説明するのです。そして「婦長を大事にしなさい。婦長の下にいる看護婦たちを育ててください。そうすれば病院そのものの質が上がります」と,看護婦の立場を一生懸命説明したのね。これがGHQの都道府県支部の人たちへの指導でしたよ。それは県に対する看護の行政でした。
 といっても医師会が強いという状況がありましたでしょう。だから県の看護係長はほんとに苦労したわね。中央の武見さん(元日本医師会長 武見太郎氏)もさることながら,各都道府県の医師会もまた権力があった。衛生部長なんてぺちゃんこにやられちゃう。それでも看護係長だけは医師会とぶつかりあいながら,一生懸命になって頑張りましたからね。あの人たちほんとによくやりました。私も感謝して感激するんですけれどね。そういう意味ではかつて行政の中で看護は強くありましたね。
 高橋 その時にオルトさんたちが使っていた言葉に,「ナーシングはプロフェッションであり,サイエンスであり,アートである」というのがありましたね。それは男の医者たちをわからせる1つの手法に使ったと私は思っています。
 金子 でも彼らはわからなかったのよ。
 高橋 そういうふうにしてわからせたと思うのだけど。
 金子 そう,わからせる方法だったのよね,オルトさんたちにとっては。
 高橋 あれは別にオルトさんが言い出した言葉ではなくて,前からある言葉ではあるけれど,いい結果が出たと思いますね。
 金子 ナースはあれに飛びついたものね。

高齢化する社会の中で

 川島 いま超高齢社会にすでに突入していて,看護の役割といいますか,社会が看護に求めるものは大きいと思います。ただ残念ながら,マスコミに流れるものを読んでいましても,介護という言葉は出てきますが,看護という言葉はなかなか出てきません。そのあたりのこと,また後輩たちに望みたいことなどをお話しいただけるとありがたいと思います。
 介護福祉士法ができる時(1987年)に,金子先生は看護の立場を主張されてすごく頑張ってくださったと聞いておりますが。
 金子 でも頑張るチャンスがなかったのよ。介護福祉士法というものが出てきた時に社会福祉士法も一緒だったし,ほかのものも2つ3つ出てきた。そして国会の会期のおしまいごろに委員会に委員長提案として出されてきたのね。本来は各政党が提案を持ち帰り議論をした後に本議論となるのだけど,委員長提案だと議論も大ざっぱなというか,表面的な議論しかしません。社会党でも提案が来た時に,私が1人で頑張って,「こんなもの作ってごらんなさい,看護の業務とごちゃごちゃになっちゃうから。私は賛成しない」と言って反対したのね。でも結局残りのみんなが賛成したもんだから……。介護福祉士法ができる時はそういういきさつがありました。
 川島 確かに看護マンパワーだけではいまの需要に応えきれないと思います。だからこそ,介護福祉士でもいいですし,無資格者のヘルパーさんでもいいのですが,看護婦と同行訪問するにしても,別々に分担するにしても,逆に看護婦はこれが看護のプロフェッションだという専門性をクローズアップするような仕事ができないといけないのではないでしょうか。
 金子 いま訪問看護ステーションとかいろいろ作っているでしょう。看護ステーションが悪いとは言いませんよ。確かにああいうものがあったらいいなとは前から思っていましたし,そこにちゃんとしたナースがいて,彼女が仕事の振り分けをしているという形だったらいいと思いますよ。けれど,いまはそうじゃないでしょう。いろいろなところにできているみたいだけど,かえって混乱しているように思えますね。看護婦がする仕事,介護福祉士がする仕事,ヘルパーがする仕事と,それぞれあるわけだけど,それをきちんと決めないままに先行していってしまった。ちゃんとした政策の下にやればよかったと思いますね。
 川島 確かにそうなんですね。誰が何をするのと決めないうちに,訪問看護らしいことを,看護婦も准看護婦もヘルパーも同じことをしている。そこに家事援助サービスとが加わって,もうごちゃごちゃなんですよね。
 保助看法と,先ほどお話に出ました社会福祉士法と介護福祉士法がありますけれど,そのすり合わせがちゃんとされないままに法律ができてしまった。ですから,介護福祉士法には自由裁量権と言いますか,在宅で介護をする家族の人に指導をするということがうたわれていますが,保助看法には在宅での指導ということは入っていません。そういう意味では看護婦がとても不利なんですね。
 金子 あのような政策を打ち立てる時に,同じ省内にいる看護課と相談しましたか,看護課の意見を聞きましたかと聞きたいですね。まあ,看護課にもその時どうしていたのかを聞いてみようかと思ってはいるのだけど,まだ聞けないでいるのね。情報が伝わった時に,看護課が自分のほうから出ていってもよかったと思う。
 高橋 そうよねえ。
 金子 そういうことを考えているのだったら,こういうことも考えてくださいと言うべきだったと思いますね。
 高橋 私,やっぱり看護課は力がないと思う。悲しいですけれどね。私たちみんながサポートしているつもりだけれども,勝手に歩いているみたいな感じがします。

高度な看護婦って

 高橋 一般に高度の看護婦とか,高度の看護とか言っていますが,高度と言えばハイテクみたいなものがわかっている看護婦をさすと思っている人が多いのではないですか。私は高度というならば,人間を取り扱う思いやりとか,心とか,手とか,頭が高度であってほしいと思っているんですよ。
 金子 そう,それが高度でしょうね。
 高橋 人間を取り扱う技術なり,知識なり,心なりが高度でなければ,私は高度の看護婦と言わないと思っています。言葉で上手に言い表せませんが,自分たちもそう思わなくちゃいけない,人にもそう思わせなくちゃいけないのではないのですか。
 それとね,メディカルの雑誌だとか新聞にこういった座談会とかが掲載されますでしょう。そうすると医者が読みますよね。確かに生意気なことを言っていると思うかもしれませんけれど,医者にとっていい刺激にならないかしら。これも1つのコミュニケーションだと思うんですよ。そしていろんなテレビ局でも看護のことを取り上げているでしょう。
 金子 看護がずいぶん出てくるわね。
 高橋 ただ,ドキュメンタリーならいざ知らず,一番嫌なのはドラマ。あれは低級ですよ。あんなのを喜ぶ人がいるから仕方がないんだわね,売らんかなでね。
 川島 とは言いましても,看護婦があのように社会の目に映っているという面もあるのではないでしょうか。
 高橋 きっとそうでしょうね。そういう事実もまた起こっているから,情けないことですけれど。

看護婦って天使?

 本誌 今から40年前の『看護学雑誌』に,若い看護婦さんたちの座談会が載りました。この時にすでに「私たちは天使ではない」とサブタイトルについていまして,その中で結婚観について聞いています。「結婚して勤めている人が少ないのですが,それはほとんどできないということですか」という質問に,「ほとんどできません」と答えています。その背景には夜勤の問題もあるのですが,その当時の看護婦の結婚観を含めまして,現在とはどのような違いがあったのでしょうか。
 高橋 いまは変わっていますよね。結婚しても仕事続けるという人が多いもの。
 金子 変わったわよ。結婚したって仕事をしていますでしょう。できないなんて言わないと思う。むしろ要求して,勤務の時間を直してもらっている。
 川島 あの頃は独身というのはたてまえだったのでしょう。だって当時は全寮制で,結婚すると寮を出なきゃいけませんでしたからね。
 高橋 なぜ全寮制にしたかと言いますと,いったん緩急ある時にナースをすぐに使えるからみんな寮に入れたんですね。だけれどもそれも時代の流れには逆らえませんでした。うちの学生も,寮生活なんてノーマルじゃないからやめたいと言い出して,寮の問題で学生運動みたいのが起こったくらいですから。
 金子 私たちの時代は,結婚するか仕事にするかという,二者択一の時代でしたね。
 川島 物理的に全寮制で,結婚する時は寮を出なきゃいけない。寮を出たら,もうそこの職員ではなくなってしまうような制度だったわけですね。それと,意識の中に共働きとかいう考えはありませんでしたね。
 金子 そして病院側からは,結婚したらやめてもらいますというのが多かった。
 川島 それと3交替で,朝7時から勤務して,1週間ぶっ通しの夜勤という当時の労働条件でしたから,ちょっと家庭生活はできませんね。厚生省の看護課が行政改革で廃止された昭和31(1956)年当時は,みんなの意識が少しずつ変わりつつあるけど,まだまだという時代でした。その翌年に確か新制高校の卒業生が看護学校を卒業してくるのですが,そのあたりから労働条件も変わってくるようになります。
 高橋 週5日制になったのはごく最近のことですからね。
 金子 何年頃だったかの「看護学雑誌」を見ていましたら,亡くなった田中壽美子さん(元労働省婦人労働課長,元参議院議員)の「看護婦も労働者である」(次項参照)という表題の文章が載っているの。それは当然の話なんだけど,この制度が始まった頃の頭の中には,看護婦は労働者だという観念はあまりありませんでしたね。白衣の天使とまでは言わないけれども,天職という考えはありました。だから,労働者という考えは少なかったわね。
 高橋 特別に選ばれた人と,私なんか自分でそう思っていました。
 金子 だから,その頃は労働者という概念が違っていたのね。看護婦はいわゆる肉体労働者ではないと思っていました。そういう意味でも,私たちも看護婦全体もそれからだいぶ成長してきているといえますね。
 川島 今日は楽しいお話をたくさんお伺いすることができ,ありがとうございました。いまの人たちが聞いたら耳が痛いこともずいぶんあると思うのですけれども,この50年間の先生方の重みのあるご発言で,私はとてもうれしゅうございました。本当にありがとうございました。
 今後もますますお元気で,後輩たちのためにご指導くださいますようお願いいたします。

(おわり)


【連載を終えて】
 「看護学雑誌」創刊50周年企画の座談会も今回(3回目)で終了です。これまでの2回の連載に当たっては,読者から「おもしろかった」「事実誤認があるのではないか」といったご意見,ご批判をいただきました。その中でも多かったのは,現在と共通する,あるいは現在の看護界の問題がすでに50年前からあったのだというある意味での驚きの声であり,金子,高橋両氏の鋭い意見に「よくぞ言ってくれた」という称賛の声でした。
 なお,座談会の中に出てきました田中壽美子氏の論文(抜粋)を掲載します。この田中氏の論文は1949(昭和24)年に書かれたものですが,現在でも十分に通用する内容であり,ある意味での原点を示唆しているように思えます。50年を振り返るとともに,これからの指標になればと考え掲載いたします。改めましてご意見,ご批判をいただければ幸いです。なお,連載1回目の高橋美智氏(日本看護協会)の「GHQが推進した看護改革」の文章中に,「医療法の認識,特に准看護婦誕生の経過が違う」との指摘がありましたが,これは現法規とのかかわりから理解しやすいようにとの配慮の文章であり,誤認ではないことを付記いたします。
 また「看護学雑誌」では本年1月号(61巻1号)より,今回の司会を務められた川島みどり氏による「道拓かれて―戦後看護史にみる人・技術・制度」を新連載しています。戦後の看護界の50年を,その時折のエピソードを取り上げ解説するとともに,時代世相を語っています。ぜひご一読ください。

〔週刊医学界新聞編集室〕