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『神経文字学』発刊によせて
詩を書く立場から

谷川 俊太郎


 些細な一時的失読、失書は多くの人が経験していると思いますが、健康な人間は読み書きを子どものころからほとんど呼吸と同じようにしているので、コトバを失うことを、たとえば癌ほどには心配していないのではないでしょうか。ですがたとえ部分的にでも読み書きの能力を失うことは、他人とのコミュニケーションがとり難くなるだけでなく、生きている世界そのものの秩序が崩れていくことでもありますから、その不安は健康な人間の想像にあまります。私はコトバを材料に、詩という細工物を作る仕事をしていますから、本書を多分他の仕事をしている人より切実な感じで読んだと思います。

詩はどんなふうにして書くのですか、というような質問をされることがあります。パソコンの前に座ってコトバが泡みたいに浮かんでくるのを待つのです、というのが私の答え方です。浮かんできた数語ないしは一行を昔は鉛筆で書いていましたが、今はキーで打ちます。深層の混沌から生まれてきたコトバが表層で分節されて定着し、眼に見える形でディスプレーに現れる。普通は意識することのない、脳と眼と手をむすぶその働きの不思議さ、精妙さを、本書は脳の働きのある種の欠落から追求し、いわばネガからポジを写しだすように私たちに示してくれます。

 詩は散文と違ってより多くをいわゆる深層言語に負っているのですが、コトバの浮かび方は一様ではありません。詩を書くとき、ほとんどの場合私には静寂が必要ですが、ときに音楽の一節が、またときに漢字のある一語が、またときにはひと続きのひらがなの視覚的印象が、詩のコトバを喚起することがあります。それがまず音(声)として意識されてから文字になることもあるし、意味を伴った文字の形がコトバを導き出すこともあります。こういうコトバの浮かび方は、散文の場合と微妙に違うと思います。詩は時に通常のシンタックスからはずれ、病的になることすらありますから。

 長くともに暮らしていると、夫婦の筆跡が互いに似通ってくる例は私の身近にもありましたが、私自身はある時期、苗字の谷川を書くときの筆跡が亡父のそれとそっくりになって、少々薄気味悪い思いをしたことがあります。別に意識して直した訳ではなく、いまではまた父とは違う筆跡になりましたが、たとえば年齢とともに変化するサインというもの、また字形は変化しても筆跡鑑定家が調べれば同一人のサインだと証明できる事実、そんなところにも「神経文字学」という新しい分野の研究が拓いていく地平がありそうです。