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見えないものと見えるもの
社交とアシストの障害学

石川 准


作為的脱社交と、非作為的脱社交

 社交と、さまざまなバリエーションの脱社交を、場所と相手に応じてスマートに切り替えられるのが社交の達人といえるだろう。が、ここではそれよりも、社交で求められるいくつかの要素をどうしても満たせないという人の脱社交、さらには非社交について考えてみたい。

 「作為的」脱社交は魅力的な演出を意図してなされるが、「非作為的」脱社交はやむをえない結果である。社交が求める礼儀作法を遂行する能力を欠いている人や、社交という場の文脈を理解する力を欠いている人がいる。精神障害、認知障害、知的障害、身体障害……障害者は心ならずも多かれ少なかれ社交から逸脱する。

 たとえば二四時間介護を必要とする人のことを考えてみよう。

 障害者はよそゆきの自分だけを見せることができない。介護者はローテーションで交代するので社交モードを保持することも可能だが、障害者は替われない。ずっと社交的であることは不可能であり、どうしても社交性は破綻する。ときには自分の思うようにいかないことに腹を立てて、介護者にあたってしまうこともあるだろう。落ち込んでしまい、社交で求められる明るさや快活さを提示できないこともあるだろう。ましてや礼儀作法にいたっては、どうにもならない部分が多い。

 しかし、こうした社交の挫折から、新たな関係が始まる可能性がある。より深い関係、親密な関係の幕開けである。

 冷静な反論が予想される。

 介護は、障害者が食べる、飲む、排泄する、体を動かす、外出するなどの目的を達成するための手段である。障害者は介護者を手足のように使いたい、道具のように自由に使いたいという欲望をもつ。この欲望からすれば、感情をもたない優れものの介護ロボットがあればそれが最善である。

 一方介護者は、自分を必要とする欠損者を必要とする。介護という善きものを実現するには欠損者が必要となる。介護者は、自己の優秀性を証明するには、未来と現在の落差をできるだけ大きくしなければならない。「それを埋めたのは私」だとするには、現在を過小評価し未来を過大評価しなければならない。現在ある姿を見ずに、未来との差分を見ることになる。これでは、どうみても介護する・されるの関係は、社交にとって好条件とは思えない。

 それでは、ボランティアだったら自己目的としてのケアが可能かというとそうでもない。私探しのためのボランティア活動、自分のいる意味を知るためのボランティア活動が想起される。役にたつ自分でありたい、と介護に入ってくるボランティアは少なくない。彼らもまた自分を必要とする欠損者を必要とする。

 そもそも、介護は有償であろうとボランティアであろうと、仕事である。仕事であれば達成すべき目標があり、したがって介護者の仕事は評価の対象となる。目的が達成されたのか、されなかったのかが問われる。だから自己目的としての介護などはどうみても成り立たない。――こう言われるかもしれない。

 だがそれでもある種の社交はありうると私は思う。あるいは社交中心の介護というものがありうる。いや、私の言葉では社交でなく脱社交である。

 言い直そう。介護する・されるの関係には脱社交的な付き合いを触発する可能性がある。社交的に振る舞えない障害者がいることで、そこに脱社交の関係が生じる。障害者の非作為的脱社交が、介護者の脱社交を支援する。脱社交モードに入りやすいのは、先にそのモードに入っている人がいるときだ。先に裸になっている人がいると、裸になることが恥ずかしくなくなる。よそゆきのかっこうをしているほうがむしろ恥ずかしくなる。

 重度障害者が生きていけるのは、脱社交という感情公共性を主催できる立場にいるからである。そこに自分を開示したいのになかなかできないという人が集まる。自分のすべてをさらけ出して全力で生きている障害者の介護をするなかで、介護者たちは、ある者は介護ノートで、ある者は障害者に直(じか)に、自分のことを語り出す。そうやって自分の戦略性が解体していく。

 よそゆきの自分を見せる身振り、感情ワーク、目的のない会話、礼儀作法によって他者を承認する身振りを示し合うのが社交だとすれば、形にはこだわらず、自分を開示することで、他者を承認していることが相手に伝わるのが、脱社交的関係である。

 脱社交的関係では、忠告、お節介、からかい、喧嘩などなんでもありの関係となる。しかし、素の自分に戻るわけではない。お互いに他者を尊重しようと精いっぱいがんばるのだが、それでもどうしても挫折してしまうことのやむをえなさをお互いに了解しあっているような関係が、脱社交だともいえるだろう。この意味で脱社交は、社交の先にあるものである。

(本文p.205-208より抜粋)