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≪シリーズ ケアをひらく≫
死と身体
コミュニケーションの磁場

内田 樹


わかりにくいまえがき

科学者というのはいつも世界が単純にできていると思いたがる。
そして、その期待は決まって裏切られる。
――Gregory Bateson, Steps to an Ecology of Mind

1 あべこべことば

 「適当」というのは正確にはどういう意味であるのか明らかにせよと、以前スイスから来ていたエリザベス君に問いつめられたことがある。

 「適当な答えを選べ」という場合の「適当」は、「的確な」とか「正しい」という意味だけれど、「適当にやっといてね」とか「適当なこと言うな」とかいう場合の「適当」は、「あまり的確でない」とか「あまり正しくない」という意味である。いったい日本人諸君は何ゆえに、このように同一語をして相反する意味に用いるのであるのか、そのあたりの理路を整然と論ずべし、と畳みかけられて困(こう)じ果ててしまった。

 言われてみれば、ご指摘のとおりである。こちらもうっかり気づかずに使っていたが、たしかに「適当」というのは、ずいぶん「適当な」使われ方をしている。まことにいい加減なものですね、と言うときのこの「いい加減」も、「適正な程度」という意味ではなく、おもに「適正でない程度」という意味で用いられている。というわけで、エリザベス君には、けっきょく得心のいくようなご説明をすることができずに終わってしまった。

その後も、ずっとこの問いがひっかかっている。

 どうして、同一語が反対の意味をもつ必要があるのだろう? いったい誰がそのことからどのような利益を得ているというのだろう? そのことが、それほどに非合理的なことであるとしたら、どうしてその陋習(ろうしゅう)を改善しようと朝日新聞なりNHKなり文科省なりが提言してこないのか?

 どうも不思議である。

 しかし、そう思ってあたりを見回してみると、わたしたちが日常使っている表現のうちには、反対の意味を同時に含意している語が思いのほかに多いことに気がついた。

 たとえば、人称代名詞。

 わたしが東京から関西に来て驚いたのは、大阪の人たちが「自分」を「あなた」という意味で用いることであった。「ジブン、騙されてんとちゃう」というのは、「あなたは騙されているのではないか」という意味である。

 『仁義なき戦い』で菅原文太が小林旭に向かって、「のうアキラ、こんなんが村岡の跡目継いだらいいじゃないの」というときの「こんなん」というのは、「こちら」というのが原義であろうが、文脈を勘案するに「あなた」の意らしく思われる。どうして「こちら」が「あなた」になるのかよくわからない。

 「手前」というのもそうだ。「てまえ」と読めば一人称、「てめえ」と読むと二人称になる。リバーシブルだ。

 「あなた」にしても、本来は「彼方」の意であるはずだから、目の前にいる人の呼称としてそれほど適切とも思われない。

 考えるとどれも納得のいかない話である。だが、べつにこれはわたしだけがひとりこだわっていることではなく、日常生活における「変なこと」にたいへんこだわりのあったフロイト博士も、この点に着目されて、例のごとき洞見を語られている。

 多くの言語学者たちは、最も古い言葉では強い-弱い、明るい-暗い、大きい-小さいというような対立は、同じ語根によって表現されていたと主張しています(『原始言語の反対の意味』)。たとえば、エジプト語のkenは、もともと「強い」と「弱い」という二つの意味をもっていました。対話の際、このように相反する二つの意味を合わせもつ言葉を用いる時には、誤解を防ぐために、言葉の調子と身振りを加えました。また文書では、いわゆる限定詞といって、それ自体は発音しないことになっている絵を書きそえたのです。すなわち、「強い」という意味のkenの時は、文字のあとに直立している男の絵を、「弱い」という意味のkenの時は力なくかがみこんでいる男の絵を書きそえたのです。同音の原始語をわずかに変化させて、その語に含まれた相反する二つの意味をそれぞれにあらわす表記ができたのは、後代になってからのことです。

 古代エジプト人はkenという発音を微妙にピッチや身振りを変えることで、「強い」という意味と「弱い」という意味に使い分けていたわけである。ずいぶんと七面倒なことをしたものだが、これはべつに古代エジプトだけに限った話ではなく、同じ現象は、じつは古今東西、言語のあるところではどこでも観察されるのである。

 フロイトは同種の事例をいくつか列挙している。ラテン語のaltusは「高い」と「低い」の二つの意味があり、sacerには「神聖な」と「呪われた」の二つの意味がある。英語のwithは「それとともに」と「それなしに」の両方の意味をもっていたが、今日では前の意味でのみ用いられている(withdraw「取り去る」やwithhold「与えない」という動詞には「それなしに」という古義の名残りがとどまっている)。

 もちろん日本語にも同じ現象は存在する。

 だいぶ前に見たテレビドラマで、主人公の少年(前田耕陽)が好きな少女(中山美穂)に向かって「オレのこと好き?」と訊ねる場面があった。中山美穂が「うん、好きよ」と答えると、前田くんはその答えに納得せず、こう言った。「その『好き』じゃなくて!」

 なるほど、とわたしは深く得心した(エリザベス君のご指摘以来、わたしはこういう事例にたいへんこだわる人間となったのである)。

 「好き」というような、誤解の余地のありそうもないことばでさえ、言い方ひとつで、「異性として好き」という意味と、「異性として好きなわけではない」というまったく反対の意味をとることができる。しかるに、今のケースでは、少女の答えた「好き」が「人間としては好きだけど、異性としては興味がない」という意味であることを、少年はどうやって瞬時のうちに識別したのであろうか?

 これはみなさんご自身の経験に照らして考えればすぐわかるはずである。

 前田くんが中山さんの「好き」を「異性として興味がない」という意味であると一瞬のうちに判別できたのは、「好き?」という問いかけと「うん、好き」という答えのあいだの「間」が有意に短かったからである。

 「オレのこと好き?」という問いに対して、「友達としては好きだけど、男として見たことないから」という場合には「うん、好きよ」。「異性として好き」という場合には「……うん、好きよ」と、こちらの場合は、「……」というわずかコンマ何秒の「ためらい」が入る。つまり、わたしたちは、問いかけに対する回答のわずかな遅速の差によって、それがエロティックな言明か非エロス的な言明であるかを識別しているのである。

 ずいぶん面倒なことをするものである。

 どうして、人間は「異性として好き」(「好き(1)」)と、「人間としては好きだが、異性としては興味がない」(「好き(2)」)に別の動詞を割り振ることをせずに、対立する意味を同一語のうちにとどめるに任せたのであろう? 新語があふれるほどに発明されているのに、どうして「好き」のような、語義解釈の間違いがときに死活的に深刻な帰結をもたらす語についてだけは新語の創造をどなたも提言されないのか?

 ここにはどうやら人間存在の根本にかかわる重要な問いがひそんでいるように思われる。わたしはこの問いを次のように定式化してみたいと思う。

 人間はどうして、わざわざ話を複雑にするのか?

(本文p.9-14より抜粋)