HOME書籍・電子メディア > 病んだ家族、散乱した室内


≪シリーズ ケアをひらく≫
病んだ家族、散乱した室内
援助者にとっての不全感と困惑について

春日 武彦


はじめに

 わたしは民宿が苦手である。嫌なのである。

 大概の民宿はご飯の炊き方が柔らかすぎて「にちゃにちゃ」と気持ちが悪いとか、海老や蟹に対する恐怖症があるので料理を全部食べられない場合が多いとか、風呂がいまひとつ寛げないとか、見知らぬ人物とすぐに鉢合わせすることになるのが面倒だとか、数え上げればいろいろ原因はあるのだが、とにかく他人の家庭に入り込んでいるようなその生々しさがわたしには耐えがたい。妙に生活感が伝わってきたり、人情味とやらをひけらかされたり、自分自身の主義主張がたんなる「わがまま」としか解釈されなかったりするあの違和感に、うんざりさせられる。なぜわざわざ金を払ってまでしてこんな目に遇わなければならないのかと、情けなくなる。

 ただしこんな感じ方をするほうが、世の中では少数派なのであろう。ましてや人の心を扱うような職にある者がこんな発言をするというだけで、普段の仕事ぶりに対する不信感を読者から表明されてしまうかもしれない。

 精神病の人や痴呆老人が暮らしている家を訪問することがしばしばあって、少なからぬ確率でその家は途方もなく散らかっていたり、ゴミ屋敷状態であったり、幻覚や妄想にもとづく得体の知れない工夫(たとえば壁や窓がびっしりとアルミ箔で覆ってあるとか、テレビのスクリーンに自筆の御札のようなものが貼ってありリモコンはなぜか新聞紙で丁寧に包んであるとか)がしてあったり、おそろしく不潔であったりする。家族のほうも一筋縄ではいかず、常識からは判断のつきがたい思考法をしていたり、呆れ返るような要求を突きつけたりする。室内にあたかも妄想が濃縮されているかのような重苦しい雰囲気を体感せずにはいられないことも珍しくない。

 ところが、わたしはこういった家であっても中へ入っていくことには躊躇しない。皮膚病だらけの飼猫がすり寄ってきても、ちゃんと頭をなでる。垢だらけの相手であっても、平気で手を握ったりなれなれしい態度を示すことができる。訪問自体を楽しい体験と感じられる。自分でもときおり不可解な気持ちになるが、民宿に泊まったときとは感情モードがまったく切り替わっているのである。

 基本的に家庭とか家族とかは欺瞞と錯覚に満ちた「グロテスクなもの」であるといった考えを、かなり幼い頃から抱いている。それがために、民宿のように中途半端に家庭的なものにはある種の気後れを覚えてしまうようなのである。他人の家庭の生ぬるさは、気色が悪い。が、精神を病んだ人たちの家庭を訪問したり家族と会ったりするとなると、これは最初から仕事であり自分の使命であると割り切っているから、誤解を恐れずに言うならば「好奇心」や職業上の関心が前景に出てくる。結局、家庭的なるものをグロテスクだなどと言いながら、それに惹かれてやまない部分が自分にはあるらしい。

 こんなことを述べているのは、本書を綴りつつ「いったいどうしてわたしは、人の心の優しさや悲しさといった側面よりも、どうしようもない依怙地さやグロテスクさといった歪んだ側面ばかりに注目したがるのだろう」と訝らずにはいられなかったからである。世の中に対する斜に構えた姿勢やアンビバレントな感情が、おそらく仕事においても不健全で愉快ならざるものへの興味として表出されているということなのだろうか。

 そして一途で純真な援助者たちが、病んだ人たちやその家族に対してさまざまな形で失望させられたり鼻白んだり困惑している姿を見かけると、わたしは善意や誠意だけでは通用しないシチュエーションに戸惑っている彼らに対して、深い共感とともに意地悪な喜びをも覚えてしまう。だって、そう簡単に事が運ぶわけがないじゃないか。屈折したりシニカルでなければ見えてこない事象があり、またそれがために安直な感傷などに引きずられずに適切な方策を立てられることもあるのだ-そう思ってやっと自分にいくばくかの価値を認めることが可能となるのである。

 本書では、イメージとしてどのように適切に疾患や問題事項を理解をすべきか、偽善ではない本音の援助を推進するにはどのような「覚悟」とテクニックとを必要とするのか、すべてがハッピーエンドに終わるわけではないのだからいかに自分の心と目の前の事態とのすり合わせを行い、無意味な罪悪感や無力感に囚われないようにすべきか、そういった本当の意味で「援助者に役立つ本」であることを目指した。空疎な建前論や偽善めいた原則論などは一切排し、曖昧さを避け、腑に落ちる発想や納得のいく考え方を示すべく心掛けた。ときにはあえて思い切った言い方をしている箇所もある。ただしそれは決して奇をてらったものではなく、むしろ問題提起と捉えていただきたい。

 この本によって多少なりとも援助に応用できるものが読者へ伝われば、わたしとしては「素直に」嬉しい。願わくば、固めに炊いたご飯のように歯応えがあったと実感していただければ、これに勝る喜びはない。

(p.3-5「はじめに」より抜粋)