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≪シリーズ ケアをひらく≫
あなたの知らない「家族」
遺された者の口からこぼれ落ちる13の物語

柳原 清子


●あとがき

聴くことの力、語ることの力

 聞きとりを始めた当初、私はテープレコーダを携えて歩いた。が、途中からそれをやめてしまった。物理的に外で会うことが多くなったこともあり、その小さな機械を取り出すことがあまりに不自然で無粋だったからである。なによりも、テープをスタートさせたときの相手のビクッとするような一瞬の緊張、そして、カチャとテープの終了を告げる音がしたときのなんともいえない安堵の表情を私は知っていた。

 テープが終わってはじめて、ほっとしたように大事なことが話されたりして、あとでよく苦笑したものだった。大げさにも「この小さな機械はわれわれの大事な関係とこの微妙な時間を壊す」と考えて私はテープを使うことをやめた。

  「がんターミナル期を生き、そして逝った人のこと」や「その状況」を話してもらうこと、それはたった一回きりのことであり、この場をのがすともうふたたび聞くことはできない。もしかして、何気ない話のなかに大事なことばが含まれているかもしれない。テープさえ録っておけば、どんな音も拾ってくれるから、再生すれば大事なことばをのがしてしまうことはない。テープさえあれば、聞き手(調査者)の私は安心して、ゆったりと、その人の前にいられるのに。また、テープはデータ証拠にもなるので、調査研究においてそれを放棄することは致命的なことなのかもしれない。

 それでも、使うのをやめた。テープに頼りきって、相手の話しを油断しながら聞いてしまう(聞きとりを安易に感じてしまう)私の姿が予感できたから。

 ノートを出すときも出さないときもあったが、相手のことばはけっしてもらすまい、と私は身をのりだすようにして聞いていた。聞いていると、ふと心にかかることばが相手から出てくるときがある。たとえば、かたい口調で、理論整然と医療の問題点などを指摘していた人が、意識しないままにふっと我が子の幼少の呼び名を口にした瞬間があった。私は「ああ、〇〇ちゃんと呼ばれていたんですね」と問いかけた。一瞬、きょとんとしたその人の口から、やがてあふれるようにして我が子への思いが語られてきた。まわりの彩りが変わったと思える瞬間だった。

 テープレコーダーも何もない。あるのは、五感すべてで「あなたの語りを聞きたい」と表明する私の身ひとつである。

 待てよ! このような瞬間を私はどこかで体験している。どこでだったろうか……

 ああそうだ。外来看護婦の私だ。

 外来をおとずれてきたTさんの風貌は、一瞬ドキリとするものだった。長身のジーパン姿でカーボーイハット、皮膚の色は暗褐色である。診察室でカーボーイハットをとったとき、そこに髪の毛はなかった。大量の抗がん剤使用による皮膚色素沈着、Tさんは白血病だった。

 一年あまりの入院で化学治療が断続的におこなわれたが、けっきょく寛解に入ることはできなかった。外来に切りかわり、そこでは少量の抗がん剤と輸血がおこなわれていた。寡黙な人だったが、問うと、「家はいいです。好きなもの食べられますから」と言う。付き添ってくる奥さんが美人で、そのことを言うと「はあ、そうなんです」とボソッと答えるものだから、思わず笑ってしまう。

 そんなつかのまの外来通院だったが、やがて高熱が出、主治医より再入院が告げられた。

 入院後、病状があまりよくないことは、外来にも伝わってきた。「見舞いにいこう」。外来の仕事が終わって、私は病棟への階段を登った。そっとため息をついて階段を登った。

 個室のドアを開けたとき、こちらにからだを向けてうなだれるようにしてベッド腰掛けているTさんの姿が目に飛び込んできた。ゆっくりと首をあげたTさんは、目で私をとらえると、ああというふうにうなずいた。どお? と目で問いかけながら近づく私に向かって、うめくように「もう、死にそうだよ」と訴えかけてきた。「うん、死にそうなほどつらいんだね」……

 からだの熱さはそれほどでもないけれど、息苦しさに身のおきどころもない感じだ。酸素は流れている。私は「苦しいよね、苦しいよね」と言いながら、ギャッジベッドをあげてみたり、下げてみたり、なにかできることはないかと問いかけていた。白衣を着ている私であるが、悲しいかな、外来看護婦の立場ではできることはなにもなかった。カルテから情報を得ていまの状態を推測することも、医師を呼ぶ権限もない。いや、それらをしたとて、もうどうしようもないことは長年の経験で知っていた。この苦しさを共にいること。奥さんとふたりでTさんを見つめていた。

 そこに突然医師が入ってきた。胸の湿性音を聴診した医師は、すばやく利尿剤を注入し、痛ましい感情に目を伏せるようにして出ていった。「少し楽になるかな」「楽になるといいね」。

 やがて、「水がほしい」とTさんがいう。「うん、おいしい氷にしよう」奥さんと私はいそいそと冷蔵庫をあけた。

 口に入れた氷をTさんは、ガリッとかんだ。酸素吸入のポコポコという音と、氷のガリッという音が病室に響く。

 私に保育園の迎えの時間が迫っていた。「また明日来るから……」「うん待ってる」。

 だが、明日という日はTさんにはなかった。夜半の急変(おそらく脳出血)で、彼岸へ旅立って逝ったのだから。

 数日後、検査室へ出かけた私に「見る?」といって、顔見知りの検査技師が一枚のプレパラートを顕微鏡に差し込んでくれた。うす紫色に染められた細胞が見えてくる。核が大きくて、その辺縁がぼやけている。なんというきれいさなのだろうか。見とれてため息が出た。これが、Tさんの命を奪った白血病細胞だった。残酷さときれいさが同居するこの細胞を、私はずっと見つめつづけていた。

 死という現実の理不尽さは、遺された者(看護者)に、その共にいた時間の意味を失わせてしまう。私の見舞うという行為が、逝った人にとってなんだったのか。あの「死にそうだよ」とこぼれ落ちてきたことばが、なにによってもたらされたものだったのか、長年わからないままに私は看護者としての不充足感にあえいでいた。

 あれがまさしく「ケアの場面」だったのだ──と気がつくのは、私自身が、この聞きとりを始めてからのことである。

 人間としてのひたむきな真っすぐな関心をその人によせるとき、その照り返しのように、ことばがこぼれ落ちてくる。そのこぼれたことばがふたたび、ほわっとすくい取られるとき、「安堵」の感情があたたかくゆっくりひろがっていくのだ。病んで苦しいからこそ、人のまなざしに飢えるし、添えられる手のあたたかさがありがたい。

 看護者は排泄や清潔など、人間のもっとも生理的な部分の世話をしていく。撫で・さすりの体温のぬくもりでケアをしていく。その人のかたわらにふっと佇むことに長けている。だが、その持っている技の意味を自覚することには、まったく不器用だ。

 あの病室での私には、なんの情報源も、使う器械もなかった。もちろん白衣のポケットに聴診器は入っていたが、それを使うことにはためらいがあった。なにもない、なにもできない状況!

 ──待って。ほんとうになにもなかったのか?

 いや、そうではない。全身で苦しさを訴える人の前にいて、五感すべてで「あなたの苦しさを理解したい」と表明する私の身ひとつが確かにそこにはあった。

 身ひとつの意味。真っすぐでひたむきな関心を寄せること。ケアとはこのことをいうのではないだろうか。

(p.187-191「あとがき」より抜粋)