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≪シリーズ ケアをひらく≫
ケア学
越境するケアへ

広井 良典


1.ケアすることの意味

●ケアということば

 本書のテーマは「ケア」ということである。ここでまず、本書で扱うテーマの広がりを明らかにする意味でも、ごく簡単に「ケア」ということばの意味について確認しておこう。

 最近では、高齢者ケア、在宅ケア、ターミナルケア、こころのケア、ケアマネジメント、ケアプランなどなど、「ケア」ということばは完全に日本語として定着していて、実際「ケア」ということばに接しない日はない、というような状況になっている。では、そもそもそこでいう「ケア」ということばの意味は何であろうか。

 あらためていうまでもなく、「ケア」ということばはもともと英語であるが、一般に、その意味はおよそ次のような三つに整理できるかと思われる。

 第一はもっとも広義のもので、たとえば英語の“take care of yourself”といった表現に示されるように、「配慮、気遣い」といった広い意味のものである。この場合には、およそ人が別の人のことを「気にかける」ことはすべて「ケア」に含まれることになる。また、「ヘア・ケア」といったことばがあるように、その対象は必ずしも「人」とは限らない(以前アメリカのサーフィスというグループの曲に“Shower Me with Your Love”というものがあり、そのなかに、“I will care for you, you will care for me. Our love will live forever.”という一節があった。こうした例では「ケア」は、「(誰かのことを)大切に思う」、あるいはほとんど「愛する」と言ってもよいような、広い意味で使われている)。

 さてケアの第二の意味は、いわば中間的な、少し限定された内容のもので、「世話」ということばに相当するような意味である。

 そして第三に、もっとも狭義の、医療や福祉(または心理)といった分野に特化された意味である。つまり英語にそくして言えば“nursing care(看護)”“ambulatory care(外来ケア)”“intensive care(集中ケア)”“long-term care(長期ケアまたは介護)”といった用法に示されるもので、もっとも「専門的」あるいは職業的な意味内容を含むレベルに関わるものである(以上につき川本隆史「介護・世話・配慮」、拙著『ケアを問いなおす』参照)。

 このように、「ケア」ということばの意味はその使われる場面に応じてさまざまなものがある。そして、本書の基本的なスタンスとしては、「ケア」ということばの意味を最初から狭いものに限定してしまうのではなく、できるかぎり「ケア」ということばあるいはコンセプトのもつ広がりや奥行きを広い視点でとらえていく、という姿勢をとりたいと思う。

 本書の第Ⅱ章以下では、ある程度限定された、あるいは専門的な意味でケアの内容について考えていく部分も含まれているが、はじめからケアということの意味を特定の分野に限定して考えるのではなく、いわば「そもそも人間にとってケアとはどういう意味をもつものなのか」という問いにつねに立ち返りそれを深めていきたい。そのことが、ケアという営みの本質的な意味を明らかにし、また、私たちの日々の「ケア」の行為に確固たるよりどころと力を与えてくれるものとなると思えるからである。

●ケアへの欲求

 さて、ケアという行為について、ある意味でもっとも本質的なことでありながら、しばしば見落とされやすい基本的な点をここでまず確認してみたい。それは、ケアという行為を通じて、ケアを行っている(あるいは「提供」している)人自身が、むしろ力を与えられたり、ある充足感や統合感を得る、ということがしばしば起こる、という点である。

 通常、ケアという営みは、「ある人が別の人をケアする」というぐあいに、いわば「与える-与えられる」といった関係でとらえられがちである。けれどもこれはある意味で非常に表層的な見方ではないだろうか。

 というのも、ここで人間がもつ「ケアへの欲求」ということを考えてみれば、いま述べていることははっきりする。人間は、それがどのような形をとるかはさまざまであるにしても、いわば本来的に(誰かを)「ケアしたい欲求」とでもいうものをもっているように思われる(もちろん同時に「ケアされたい」欲求というものももっている)。

 先にケアということばが本来「気遣い、配慮、世話」といった広い意味をもつものであることを述べたが、それはすなわち他者とのかかわりということであり、すぐ後でも考えていくように、それは人間が普遍的にもっているひとつの性向である。

 したがって、ケアという行為を、いわば「誰かのために“してあげる”」行為といったものとしてとらえるとしたら、それは先にも述べたとおり非常に表面的な理解になってしまうだろうし、またケアという営みのもつ奥行きを見失ってしまうことにもなる。人間はケアへの欲求というものをもっており、また、他者とのケアのかかわりを通じて、ケアする人自身がある力を得たり、自分という存在の確認をしたりする。このことは、「ケア」ということを考えていくうえで、出発点として確認しておくべきことと思われる。

 この点は、逆にいえば、ケアという行為は、一歩まちがえるとある意味で独善的なものになってしまう可能性を常にはらんでいる、ということでもある。

 人は、案外「他人のために」と言いながら、実は「自分(の存在の確認)のために」行動している、ということがあるかもしれない。だれかの「ために」役立つことを何かしたい、ということが、自分自身の存在理由を確認できる何かを求めている、という動機による部分が大きい場合があるかもしれないし、もちろんそれがただちに「よくない」ということでもない。しかしそれが独善的なものとなるのを避ける意味でも、ケアを「与える-与えられる」といった一方向的な関係としてとらえるのではなく、むしろ人間という存在が「ケア」への欲求をもっており、それが実現する場として様々な関わりのかたちがある、と考えるべきではないだろうか。

(p.14-19より抜粋)