地域医療と暮らしのゆくえ
超高齢社会をともに生きる

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世界の貧困・紛争をテーマにさすらった若者が、医師となって、佐久で若月俊一の魂に出会った。沖縄にあっても地域医療の前線にあり、時に霞が関のミッションを帯びて奔走し、どの現場でも汗を掻き続けるその目に「地域包括ケアシステム」の実像はどう映るのか。この国のかたちをどう模索しているのか。診療の傍ら多方面に発信する著者による、現代に老い病むひとを支えたいすべての医療者に捧げる提言の書。
高山 義浩
発行 2016年10月判型:A5頁:180
ISBN 978-4-260-02819-6
定価 1,980円 (本体1,800円+税)

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はじめに

 西洋医学が病気の原因を取り除き、患者を治療できるようになったのは、せいぜい20世紀になってからのことです。麻酔や消毒が開発されて(まともな)外科治療ができるようになったのも、ペニシリンを端緒として次々と抗菌薬が開発されて感染症が治療できるようになったのも、レントゲンやエコー、心電図に至るまで各種医療機器で診断ができるようになったのも、採血して生化学検査ができるようになったのも、顕微鏡で覗いて白血球数をカウントできるようになったのも、このたった数十年の出来事にすぎません。
 それまで医師がやっていたことと言えば、解熱、鎮痛、鎮咳、去痰、強心、利尿といった対症療法で、患者が自ら治ろうとするのを少し手助けしていただけでした。こうした19世紀的な病院の存在理由は、病人の保護(あるいは隔離)という福祉(公衆衛生)サービスとしての機能にありました。
 しかるに20世紀の革命的な医療技術の進展は、住民を過剰に期待させ、医師を十分に傲慢にしているようです。そして、医療の恩恵を社会の隅々に行き渡らせることを求める社会的圧力が高まっていったのです。
 結果として、たしかに多くの病人が救われるようになりましたが、やがて限界も明らかになってきました。その恩恵とは裏腹に、慢性疾患を抱える患者の病態はより複雑になり、必ずしも幸せそうとは言えない高齢者が増えています。住民のなかからは、治癒よりも生活を優先した医療を求める声が聞かれるようになっています。
 この本は、こうした「病院」から「地域」への揺り戻しのなかにあって、主として沖縄県で地域医療に従事している私自身の試行錯誤を整理しようと試みたものです。決して、日本の医療を包括的あるいは体系的に論じるものではありませんが、私たちの道ゆきを見据えるための材料となってほしいと願っています。たとえば、医療系の学生にとっては、超高齢社会で働くうえでのキャリアプランを考える一助として。病院で働く医療従事者にとっては、これから地域に踏み出して多職種と連携するための手引書として。診療所や訪問看護ステーション、介護施設で働く医療従事者にとっては、病院側の葛藤を理解して自らの役割を再検討する糸口として。地域医療部門の行政担当者にとっては、現場感覚をもって医療改革を推進するための副読本として、それぞれ活用いただけるとすれば幸いです。
 第1章では、病院医療の現場において、どのような社会的矛盾に私たちが直面し、地域で葛藤しているかを紹介しています。そして、「断らない病院」であることを堅持しつつも、従来の「病床を増やして受けて立つ」という考え方では、超高齢社会の健康問題を乗り越えることは困難であることを明らかにします。
 第2章では、戦後の医療政策の歴史を振り返りながら、地域の総合的な発展の一部として地域医療を捉えることの重要性を確認します。そのためにも地域包括ケアシステムと病院医療との連携を深める必要がありますが、それは話し合いの場をもつというよりは、むしろ病院が積極的に地域に踏み出してゆくことが不可欠であると指摘します。
 第3章では、生活者のまま老いや死に向き合える地域づくりの大切さを強調しています。そのためには高齢者自身の視点でケアのあり方を考えるとともに、社会的に孤立しやすい高齢者を地域で「そっと」見守り続けることが大切であると提案します。また、高齢者の医療依存を軽減させるため、医療側と住民側双方が努力すべきことを強調します。
 ほとんどのセクションの末尾に、地域において求められるであろう「施策」について例示しています。地域ごとに状況は大きく異なるはずであり、これら施策をそのまま当てはめることは難しいとは思いますが、解決策を考えてゆくうえでの参考としていただければと思います。
 この本では、できるだけ事例を交えながら議論を進めるようにしています。ただし、個人情報保護の観点から、登場人物の名前や背景の一部を改変していることをあらかじめお伝えします。なお、使用している人物写真については、ご本人もしくは(故人の場合には)ご家族の了承を得ているものです。ご協力いただいた方々に心より御礼を申し上げます。

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はじめに

第1章 病院医療の葛藤と限界
 1 最後の砦としての病院
 2 「断らない病院」であるために
 3 持ち込まれる社会的矛盾
  COLUMN 文化的文脈のなかの疾病
 4 縛られる患者たち
 5 行き場のない高齢者たち
 6 地域から信頼される病院
  COLUMN 戦時下の医学部長
 7 患者表現としての「不条理」
 8 救急医療にみる鎮護のプロセス
 9 病院医療の居場所を探して
  COLUMN アラビアの看護師

第2章 地域と連携する病院医療へ
 1 戦後史は団塊世代とともに
 2 制度に依存しないケアの文化を
 3 効率化にある落とし穴
  COLUMN 弱者が支え合うコミュニティ
 4 プライマリ・ヘルスケアにおける5つの原則
 5 急性期病院から地域へ踏み出す
 6 「在宅医療」をめぐる4つの誤解
  COLUMN タイ山岳地域の在宅医療
 7 医療的介入を思いとどまるとき
 8 高齢社会における消費イノベーションを
 9 まだ、食べられねぇなぁ
  COLUMN タイで活躍するヘルスボランティア

第3章 看とりを暮らしのもとに
 1 終わらない戦争
 2 安らかに土に還る
 3 老衰死ができる地域づくりを
  COLUMN 子ネコの在宅ケア
 4 直観の濫用としての「胃ろう不要論」
 5 欧米に寝たきり老人はいないのか
 6 死に逝く人の「孤独」について
  COLUMN パキスタンの「ごちゃまぜ」障がい児教育
 7 真実を伝えること、判断を待つこと
 8 おかあちゃんが見える
 9 終末期における「もう1つの物語」
  COLUMN 「長生きしてくれてありがとう」の島

おわりに
参考文献

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医療のブラックボックスを解放するいのちの現場からの賛歌
書評者: 佐々木 淳 (悠翔会理事長/診療部長)
 急速な人口構造の変化に伴う歪みは医療現場を直撃し,そこには常に無力感や怒りが存在する。

 複数の慢性疾患を抱える高齢者には,急性期病院や専門診療など,これまでの医療の存在価値を支えてきた武器が通用しない。在宅医は病院が高齢者に最適化した入院医療を提供していないと苛立ち,病院は在宅高齢者の安易な救急搬送に憤る。患者のニーズは満たされぬ一方で,病院も本来の機能とは異なる役割を強いられる。医療機関の経営は厳しさを増すが,満足感を伴わない医療費の負担増大に国民は納得しない。さまざまな対立軸が交錯し,医療者も患者も疲弊している。

 特に病院という場所は社会の矛盾が最も明確に表現されるところなのかもしれない。

 病院で勤務しながらも在宅医療を通じて地域の実情を熟知する著者は,そこで顕在化する問題の根っこを一つひとつ丁寧に解きほぐしていく。

 医師になる以前にジャーナリストとして世界の貧困や紛争を見つめてきたその鋭い観察眼は,情緒豊かでありながら常に冷静に,弱者を弱者たらしめている隠れた真実をあぶり出す。そして,その言語化力で医療というブラックボックスを分解し,共通言語を持たない医療者と地域住民(患者)の強力な通訳者となる。

 明らかになった課題に対しては,地域のさまざまなステークホルダーに配慮しながら最適解を探り出す。当事者として自らの立場を正当化することなく,また安易な「弱者の味方」でもなく,あくまでも俯瞰的な視点。医療現場の問題が地域に,そして地域で暮らす一人ひとりにつながっていく。医療者として,そしてひとりの地域住民として,課題の核が,実は私たちの中にあることを気づかされる。私自身も医療者としての自らの態度を省みるよい機会となった。

 固定観念に縛られない自由な発想力と分析力,医療者そして政策家としての実務経験。さまざまなフィールドで活躍してきた唯一無二の著者ならではの展開であり,よりよい未来づくりのためのポジティブな提言集となっている。

 しかし全編を読み終えるころ,これは医療ジャーナリズムというよりは,著者が関わった一人ひとりの人生のルポルタージュであり,生きることへの賛歌なのだということに気が付く。

 どの命にも輝きがあるということ,人生には必ず終わりがあるのだということ,そして患者である前にひとりの生活者であるということ。全てのページに著者の「いのち」に対する尊厳と愛情が満ちている。愛おしく,そして時に切ないエピソードの数々は,医療者のエネルギーの源泉を思い起こさせるとともに,私たちの社会の優先順位に疑問を投げかける。

 これからの私たちの社会を支えるために必要な「地域包括ケアシステム」とは何なのか。

 それは,生きるということの意味を一人ひとりが考え,専門職も地域の住民も,自分自身にできることを一つずつやっていくことなのかもしれない。

 現場で行き詰まっている医療者や行政関係者,そして医療のあり方に疑問を感じている全ての人に読んでほしいと思う。
地域における医療・介護システムを考察する絶好の書 (雑誌『看護管理』より)
書評者: 伊関 友伸 (城西大学経営学部マネジメント総合学科 教授)
◆2025年問題-社会問題の大変革期

 わが国は年齢階層別人口で突出した数を占める第1次ベビーブーム世代が,75歳以上の後期高齢者となる「2025年問題」に直面している。現在でも,2025年以降起きるであろうさまざまな社会問題の先駆けとして,医療・介護サービスの提供力の弱い地方や,貧困が拡大している地域などで,医療崩壊や個人・家庭の孤立という問題が現れている。

 著者である高山義浩氏は,厚生労働省から二度にわたって招聘〈しょうへい〉を受け勤務した経験を持つ,沖縄県立中部病院に勤務する医師である。医学書院の月刊誌 『病院』 における連載「地域医療構想と〈くらし〉のゆくえ」や,朝日新聞デジタル「アピタル」での連載記事,SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などを通じて独自の情報発信をされてきた。

 その中でかねてから著者も指摘されているが,これからの社会は激増する後期高齢者にこれまでのような医療や介護サービスを提供できなくなる時代である。しかし,多くの国民が,そのことに気づかずに生活し,自分の老後も今と同様の社会サービスを受けることができると考えているのではないだろうか。

 著者の勤務する沖縄県立中部病院は,有名なトップクラスの臨床研修病院であるが,沖縄県の貧困という社会問題に直面する病院でもある。本書においても「社会の矛盾は,弱者を病気にしながら病院に持ち込まれて」いると書かれておられるように,医療現場での現状についての報告がなされている。

 医療・介護サービスの提供力が絶対的に不足する時代に,どのように高齢者をケアする体制を確立していくのか。著者は,国が進める地域包括ケアシステムについて「地域ごとに形成されるべき『高齢者を支えるネットワーク』であって,そのコンテンツは地域にある資源や自主的な取組に依存」すべきと指摘する。私も同じく,全国共通のツールを一律に高齢者に当てはめるのではなく,地域に住む人たちが高齢者の視点に立って,限られた医療・介護資源をうまくやりくりして生活を支えていくことが,結果として効率的なものになると考えている。

◆医療というシステムによる介入に求められる節度

 著者は医療というシステムによる介入について節度を持って行うことが必要と指摘する。特に高齢者にとって医療は強制力の強いシステムであり,ベッドに縛り付けることで高齢者の従来の生活を根こそぎ奪ったり,医療へ依存した生活を生む危険性を有している。コストの高い医療が必要以上に高齢者を抱え込むことは,医療が使うお金の増大を招くことにもつながる。

 本書は,医療が介護だけでなく,福祉,司法,教育など,あらゆる社会制度との連携を深めることの重要性を訴えている。こうした連携体制の構築にあたっては,「解らないこと,答えがないような課題について,答えが得られるまで待つのではなく,それぞれの立場から語り合うことが大切」であることを指摘する。

 超少子高齢化という人類の歴史上にもない大変化に対応していくための答えはない。地域の関係者が発生する問題を1つひとつ丁寧に解決していく必要がある。本書は,地域における医療・介護のあり方を考えるための絶好の参考書となっている。一読をお薦めしたい。

(『看護管理』2017年2月号掲載)
超高齢社会の医療と保健,そして人との関係を示す同時代のテキスト (雑誌『看護教育』より)
書評者: 波平 恵美子 (お茶の水女子大学名誉教授・医療人類学者)
 本書は,医療と保健,福祉にかかわる制度,施設そして行為主体である人との関係が,現在どのようなものであり,視点を変えることで今後どのようなものになり得るかについての優れたテキストである。語り口は優しくていねいで,ときにはユーモアに満ちているが,読み進むほどに,鋭い警告の書でもあることがわかってくる。医療,保健,行政に直接携わる人々だけではなく,医療と介護のサービスを受けるすべての人に,自身と医療・福祉制度との関係を理解し考えるうえでの多くの示唆を与える。さらに,本書の価値はそれを超えて,医療を通して,人が,生きること,死ぬこと,病むこと,老いることはどのようなことなのか,そして,家族や地域の人々,福祉や医療の現場の人々が,老いて病む人を支えるとはどのようなことかを考えるうえで,具体的な事例によって読者の新たな視点を与えるところにある。

 いずれの章のいずれの節も示唆に富むものであるが,特に繰り返し読まねばならないと評者が思わせられた箇所は,第1章1節の「最後の砦としての病院」,第3章4節の「直観の濫用としての『胃ろう不要論』」である。前者は,今後高齢化と過疎化が進む(それは必ずしも地方だけのことではなく,都市でも地域によっては起こる現象である)日本社会において,病院が果たすことのできる役割に新たな視点を当てるものである。病院の日本社会のなかでの新たな位置づけについての著者が示す視点は,地域包括ケアシステムの構築についての議論のなかで,論点を変えながら本書で繰り返し述べられているが,冒頭に据えられたこの視点は,著者のこれまでの医療者としての豊かな経験から得た結論であろう。安易に「医療化」という言葉で批判できない病院の果たす地域での役割について述べている。後者は,現在議論になっているテーマである。胃ろうは,わかりやすいため広範な議論の対象となっているが,これを議論するうえで,著者の言う「直観の濫用」が起きていることが,この問題が本来示しているはずの,人間の生きることの意味についての思索を浅薄なものにしているという警告として読むことができる。「胃ろうについて悩んでいる方々のこと,もう少し,そっとしておいてくださると助かります。」(133頁)という節最後の文章は,著者がどれほどの回数,さまざまな患者とその家族のことを考えてきたか,その軌跡を知る思いがする。

 本書を彩るCOLUMNを,読者はぜひ読むべきだと思う。著者が,日本とはかけ離れた状況で生きる人びと,また,そのなかで医療を行う人びとを多く見てきたことが,この書から他では得られない感銘を読者は得ることができることを示しているものだからである。

(『看護教育』2017年1月号掲載)
エピソードと思考の織り成す医療の原点と未来-それは暮らしの中に
書評者: 井階 友貴 (福井大講師・地域プライマリケア)
 皆さんは,どんな思いで医療の道を志しましたか? 私は,子どものころかかった地域の町医者的おじいちゃん先生の,地域の人々の生活にまみれた土臭い医療——家族の成長や健康,米や野菜の収穫を共に喜び,家族の死や作物の不作を共に悲しむような——のイメージをたどって,今,地域医療の現場に立っています。

 本書の著者,高山義浩先生のもとへ,ある企画でお話をうかがいにお邪魔したことがあります。高山先生は途上国への関心から保健学の道を歩まれ,カンボジアなどの厳しい保健医療環境の国でのご活動を通して,地域の中にこそ持続可能な医療があると考えられるようになり,やがて医師の道をめざされたそうです。先生はその後,「地域から何を求められているか」に打ち込める佐久総合病院の医療や,時には厚生労働省での国全体の衛生活動をご経験され,現職に就かれています。本書は,そのような経歴を持つ先生だからこそ到達できた視点と原点にあふれており,多方面に地域への思いを発信され続けている高山先生の,現段階での集大成と呼ぶにふさわしい書となっていると感じます。

 本書の特徴は,まず,いわゆる地域医療や地域包括ケア,高齢・人口減少社会の医療などに関する一般的な教科書のように,ナショナルデータや将来予測だけを基に論述していく説得の書ではなく,あくまで先生の経験された実際の臨床・生活エピソードに基づき,そこに先生ならではの多岐にわたる視点が加えられていることです。そして,そのエピソード自体は,独居高齢者,在宅介護,認知症,身体拘束,救急医療など,地域の現場に身を置くものであれば誰しも経験したことのあるようなものでありながら(あるいは地域のエピソードすら実感がないという方には,ぜひ本書から暮らしの中での患者や家族がどのような姿なのかを知っていただきたいです)/あるいは,折に触れて登場する「コラム」では,なかなか経験できない途上国でのエピソードを目の当たりにしながら,一事例から地域全体,国,世界のことまで飛躍して展開するお話が,まさにわれわれのプライマリ・ケア分野でいうところの“地域志向”そのものであることです。さらに,先生もエピローグで述べられているように,本書は現代の日本の抱えるさまざまな地域医療の問題——西洋医学への過度の期待や医療倫理,超高齢社会,家族構成や住民意識の変化などに基づく——に関連して,読者に絶対的な答えを与えてくれる書ではなく(もちろんそのような答えがあればすでに日本の問題は解決しているわけですが),読者に一緒に考えるきっかけや気付き,ヒントを与えてくれること,それでいて,もやもやさせるのではなく,先生の英知と文才によりひとつひとつのエピソードが感動的に花開き,読者に爽快感も与えてくれることも,特筆すべきでしょう。

 医療とは本来どうあるべきか,何をめざすべきなのか——医療者であれば誰しも考え続けるべき命題に,本書は優しくかつ丁寧にいざなってくれます。とにかく,エピソードとそれに続く思考が絶妙です。ぜひどの分野の医療者へも,はたまた一般の方へも,強くお薦めしたいと思います。
書評 (雑誌『訪問看護と介護』より)
書評者: 村松 静子 (在宅看護研究センターLLP代表)
 諸外国に例をみないスピードで高齢化が進んでいるわが国では今、「地域包括ケア」という言葉が飛び交い、各地域の現場が戸惑う様子だけが見え隠れしている。そんな世相のなか、時宜を得て発行された1冊である。バックパッカーとして世界の貧困・紛争地帯をさすらった経歴をもつ若者が、「農民とともに」の精神で地域医療の実践に尽くした佐久総合病院の若月俊一氏と出会い、医師として奔走するようになった経歴が本書の背景にある。

◆答えは暮らしのなかにある

 多死時代のプライマリ・ヘルスケアのあるべき姿をみつめ続けた著者は言う。「その答えは暮らしのなかにある」と。在宅看護の道を30年以上歩いている私は、その言葉に頷ける。原っぱに寝そべる子どもたちの笑顔の表紙からは、その暮らしぶりと彼らのこころの風景が伝わって来て惹かれる。本書は、豊富な事例とコラム、各章の末尾の施策が活き、著者の感性がここそこに小気味よく溢れ、温もりが伝わってくる。革新的な医療技術の進展は住民に過剰な期待を抱かせ、治癒よりも生活を優先した医療を求める声が数多く聞かれるようになっているなか、関係者は皆、今一度、退院後の生活にも関心をもてと警報を鳴らしている。それぞれの専門性を活かしながら、支え合い、活かし合うことで社会を循環させ、価値を生み出していかなければと説かれる。

 コラムでは、アラビアの旅先で緊急入院した不安と寂しさのあまり、パニックに陥り体が震えていた著者が、ナースのさりげない関わりを受けて眠りについた逸話が紹介される。それこそが看護の真髄だと思わず頷いた私だった。またカンボジアでの体験として、患者に「息を吹きかける」リー先生に弟子入りを志願したコラムが出され、その話に溶け込んだ私にも幼少の頃の経験が蘇った。「痛いとこ、飛んでけ~!」。あの息が飛んでくるようだった。「施策」での例示は読者の創造力を高める。トータルな町づくりを住民参加のもとにめざしてゆく必要性の示唆には、思わず頷いてしまった。

◆「老衰死」を社会で進めるしかけを

 地域包括ケアという理想像、その価値が明らかになるのはこれからで、自分の考えや思い、願いを重ねて読むと、じつに有意義である。2025年にピークを迎えるとされる超高齢社会、そのとき病院に何ができるか。ある写真に添えられたフレーズがある。「患者さんが紡ぐ物語に寄り添うためには、医療者として共有できる時間、語り合える時間が大きい。しかし、もう1つの物語に触れることができるのは、主治医であっても一瞬のことに過ぎない」。この一節に、ヒントが潜んでいるように思う。自らの老後も2016年現在と同様の社会サービスが受けられると夢見ているとしたら……。著者の視点は鋭い。団塊世代が「伝説の世代」となり得るかどうか。今一度、延命医療だけでなく「老衰死」を社会全体で進めるしかけを準備しておけと団塊ジュニアに囁かれた、私はそんな気がした。

 本書は、地域の総合的な発展の一部としての地域医療、これからの地域創生のヒントが含まれている。医療者だけではなく、超高齢社会を真摯に生きようとするすべての人々に、多くの示唆を与えてくれる確かな1冊である。

(『訪問看護と介護』2016年12月号掲載)

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