その先の看護を変える気づき
学びつづけるナースたち

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第1部「気づきの力」を養うこと、第2部の体験を「概念化」すること、また第3部の「暗黙知」を「形式知」に変えることは、その先の看護を変えることにつながる。自分の看護実践はどんな意味があったのかを自覚することは、非常に重要であるということだ。本書で紹介されるそれぞれの物語は、自分の看護実践を客観的に見つめることで、核となったものに気づく過程が表現されており、それを編者が講評し、意味付けする。
編集 柳田 邦男 / 陣田 泰子 / 佐藤 紀子
発行 2011年07月判型:B6頁:292
ISBN 978-4-260-01203-4
定価 1,980円 (本体1,800円+税)

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序 書くことと内面の成長 柳田 邦男

 人は、なぜ文を書くのか。
 人は、なぜ戦争体験記を書くのか。
 人は、なぜ闘病記を書くのか。
 この問いは、人間が生きるのを支えるものは何かという問いと、おおいに重なっているようにみえる。
 人間が自分の思いや感情を表現する手段は多い。言葉で書く、話す、顔の表情、手や身体の動き、手話、歌う、絵を描く、楽器を演奏する、劇を演じる、踊る、等々、日常生活の中での表現活動は、実に多様だ。
 その中でも、やはり言葉による表現は、身近な人たちだけでなく、見ず知らずの人々を含めて、多くの人々に思いや感情を伝え共有してもらうという手段として、中心的な役割を担っている。戦争や災害や重い病気のように、過酷な体験をすると、その体験を手記や詩歌で記録する人が多い。そういう人たちは、なぜ書こうとするのか。
 私はノンフィクション・ジャンルの表現活動をしていることもあって、数々の戦争体験記や公害・事故・災害などの被害者の手記を長年にわたって、読んできた。それら多くの手記を通して、書くという行為のモチベーションを分析したことがある。その結果、一人の人が何らかの手記を書こうとするモチベーションには、いくつもの要素がからんでいることがわかった。それらの要素を整理してみると、次のようになる。
 (1)辛さや悲しさが耐え難いほどに大きいがゆえに、表現しないではいられない気持ちの昂りが生じる。
 (2)この辛さや悲しさを、誰かに伝えたい、多くの人々に知ってほしいという思い。この広い世界には、何十億人という人間がいるが、こんな辛く悲しい思いをしているのは、自分だけだ、そのことを誰かに知ってほしい理解してほしいという、追いつめられた心境になる人が少なくない。
 (3)自分がこの世に生きたという存在証明を書き遺したい、そして身近な人々に伝えたいという強い思い。自分が何も遺すものもなくこの世から消えてしまうことへの恐怖感を克服するために書こうとするのだ。
 (4)自分は他の誰でもない自分であったのか、自分の人生はどんなものだったのかを、自分なりに納得できる形で確かめたいという思いから、自分の人生、自分が歩んできた歳月を、あらためて確認し噛みしめつつ、思い出の数々を中心に人生一代記とも言うべきものを書く。これは、(3)の自分の存在証明のために書く内容と重なり合うところが多い。
 (5)こんな辛い思いをする戦争、人によっては災害、あるいは病気なんか、この世からなくなってほしいという切実な願いを、社会にアピールするために書く。
 これら以外にも、なぜ書くかのモチベーションはいくつかあるが、主要なものはこんなところだろう。これらの要素を通して、私が注目したいのは、(3)と(4)に記したこと、すなわち、自分がこの世に他の誰でもない自分として生きた証をつかみたいという思いから、人生を振り返って、思い出の数々を書くという行為だ。そのような思いを昂ぶらせて手記を書いた本人あるいは身近だった人々の話を聞くと、自分の人生記を書こうとして振り返ると、忘れていたことが突然甦ってきて、その頃のことをしみじみとあじわったりすることが、しばしばあるということだ。
 そのようにして、自分の人生を探索すると、何のドラマも面白味もないつまらない一生だと思いこんでいた何十年かの歩みが、実は感動するほどたくさんの出来事で満ちていて、いくつかの波瀾もあり、よく生きてきたものだという納得感が生まれてくる。そういう納得感は、心の安定感につながっていくことが、少なくない。
 しかも、そうやって自分を見つめる心の作業を進めていくと、普段はほとんど文を書かない人であっても、リアリティのある表現をしたり、人生の機微や神髄についての深い気づきを書いたりするようになるのだ。実際、戦争体験記や災害体験記や闘病記(あるいは介護手記)などを読んでいると、そういう文章に出逢って感動することが多い。プロの作家やジャーナリストが書く作品のように、構成や文章が整っていなくても、胸に響いてくるものがある。いのちや生きることや死と向き合うことへの、体験者ならではの気づきがあって、考えさせられ学ばされるのだ。

 普段はほとんど文を書かない人であっても、戦争や災害や病気に直面すると、なぜリアリティのある文を書いたり生と死の神髄にかかわる気づきを言語化したりすることができるようになるのだろうか。
 ちなみに、日本文学研究者のドナルド・キーン氏の興味深い指摘がある。キーン氏は、太平洋戦争中に情報部隊の若い兵士として前線に派遣され、太平洋の島々や沖縄などで日本軍を制圧した後に残された文書類を収集して翻訳する任務に就いていた。キーン氏が興味を抱いたのは、日本軍が兵士に軍人手帖を配って日記を書かせていたことだった。そんな国は世界で日本だけだという。もともと日本は学校教育において、自律心を向上させる目的で日記を書かせていたから、軍隊でも、その延長線で同じことをやっていたのだろう。
 キーン氏は、日本軍の兵士たちの日記を、情報収集活動としてだけでなく、個人的な興味から丹念に読んだという。そして、発見したことがあった。兵士たちの日記の中身は、ほとんど日常における何の面白味もない記述ばかりだった。「六時起床、六時十五分洗面……」といったぐあいで、あとは紋切り型に「堂々と勇ましく」輸送船に乗りこんだといったたぐいの文ばかりなのだ。
 しかし、日記の記述が突然、感動的になることがある。それは、自らのいのちが危機にさらされるような状況に直面した時だ。キーン氏は、日本の古代から近代に至る日記文字を読破して論評した著書『百代の過客―日記にみる日本人』(金関寿夫訳、上下二巻、朝日選書)の序章の中で、次のように書いている(十六ページ引用)。
〈日記につけている兵士の置かれた状況は、彼らの小さな手帖の内容を、しばしば忘れがたいものにしている。例えば船隊の中で、自分の船のすぐ隣を船行していた船が魚雷を受けて目の前で沈むのを見たような時、その兵士が突然経験する恐怖、これはほとんど文盲に近い兵士の筆によってさえ、見事に伝えられていた。とくに私は、部隊が全滅してただの七人生き残った日本兵が南太洋のある孤島で正月を過ごした時の記録を覚えている。新年を祝う食物として彼らが持っていたのは、十三粒の豆がすべてであった。彼らはそれを分け合って食べたのだという。〉
 異質な言語空間の中で、ものを感じ考え表現をしてきた米国の文学者の眼で、日本の兵士の書く日記を読んだがゆえに、その国民性の違いに気づくうちに、人間が言葉で表現することの本質にかかわることにまで気づいていったと言えるだろう。戦場は生死を分ける崖っ淵である。自分がどちらに転ぶかわからない限界状況に投げこまれた時、誰しも心の中に恐怖が走り、気持ちは昂る。そこから出てくる言葉は、たとえ断片的なものであっても、真に迫るものになるだろう。
 緊迫感のない中で、何か文章を書こうとすると、考えあぐねて、大した言葉が浮かんでこない。どうしても観念的になる。その最悪の例が、「六時起床、六時十五分洗面……」とか、「堂々と勇ましく」なのだ。ところが、危機的な状況にさらされると、感動的な表現さえ登場してくるのだ。キーン氏は、こう論じている。
〈こうした場合には、いわゆる美しい章句よりも、平明で、むしろ非文学的な表現のほうが、はるかに効果的なのである。「痛い!」といった単純な叫びのほうが、精妙に使われた比喩などよりも、もっと深く心を動かすのである。〉
 では、戦争体験記にしろ闘病や災害の体験記にしろ、書くことによって、書いた本人は何を得るのだろうか。そのことこそ、書くことの本質的な意味だと言える。書くことによって得られるものとは何かについて、結論を言うなら、以下のようになろう。もし言語化して表現しようとしなければ、気づくことのなかった自分自身の内面に刻まれていた語るに足るだけの体験や出逢いのエピソード、あるいは潜んでいた再生の道しるべ等が、何かを書こうと苦吟する中から、ふっと浮かび上がってくる。そして、それらを文章化するという作業をすると、もう一度胸にしっかりと刻むことができる。書くということは、内面にあったものを、目に見える文章という形に客観化することである。一旦自分から離れて文章になると、内面でもやもやしていたものが、すっきりとした形をもったものになる。それは自分の内面の確認作業になり、自己の再認識になる。そのような自己の再認識こそが、生きる方向性をつかむことにつながり、生き直す力を生み出すエネルギーになる。多くの手記のたぐいを読んできた経験から、私はそうとらえるようになったのである。
 さて、看護学生にエッセイを書くことを勧めるのは、なぜなのか。その答は、いのちの危機に直面した人がなぜ体験を書こうとするのかという問いをめぐる考察の中からつかむことができると思うが、念のため少しばかり補足しておきたい。
 看護学生の中には、家族など身近な人に起こった死や難病や心身の障害などを体験したことをモチベーションにして、医療の世界で人を支える役割を果たしたいと考えて、看護職を目指すことにした人もいるだろう。しかし、大半の学生は、そういう体験がないまま、何らかの動機があって、看護職を選んだに違いない。それはそれでいいのだけれど、いよいよ学生になって、看護の理論と実際を学ぶ中で、心がけてほしいことがある。
 それは、自分を見つめるもう一人の自分の眼というものをもつことだ。病気や障害を背負っている人のために役立ちたいという情熱や意識は大切なのだが、それだけでは、なかなか患者の気持ちに寄り添える医療者にはなれない。自分の考えだけで接していると、患者の気持ちやニーズとのずれが生じてしまうことがある。やはり人間的な内面の成長、成熟が求められるのだ。
 どうすればよいのか。一つの方法は、日々の学習や臨床実習の中で、新しい気づきや、逆に行き詰まりを経験した時、それを日記とか手記に書いてみるのがよい。誰かに見せるためでなく、自分のために書くのである。既述の「なぜ書くのか」の考察で書いた表現を用いるなら、気づきや行き詰まりといった内面の意識を文章という形に客観化して確認するという作業をするのである。文章という形に客観化することは、自分をもう一人の自分の眼で見ることになる。
 そうすると、もやもやしていた考えが整理されたり、大変だと思っていたことが、それほど大変なことでもなく、脈絡をつけて考えれば十分に理解できるものであることがわかるとか、あるいは患者から学んだことが、医療者として胸に刻むべきとても大事なことであることに気づくなど、様々な気づきが生じる。それこそが、患者を見る眼、患者への接し方、ひいては人間を見る眼を成熟させていく歩みになるのだ。そういう歩みは、時には、看護職として生きようとする意志や人生観を、本当の意味で確かなものにすることさえあるだろう。
 そのことは、戦争や災害や病気によっていのちの危機に直面した人が、手記という形で思いのたけを書くことによって、再生の道しるべを見出すのと、同じようなものだと、私は思う。
 私が看護学生に、日記であれエッセイであれ詩歌であれ、書くことを勧める理由は、そこにある。書くことによって、たえず自分を見つめるもう一人の自分の眼をもつことを、ほとんど習慣化するほどになれた学生と、そうしようと努めない学生との間には、人間的な成熟という点で、一年、二年と経つうちに大きな開きができてくるだろう。実は、そういう営みは、学生だけでなく、すでに臨床現場で働いている看護師たちにも勧めたいことなのだ。
 病中の患者は、感性が鋭くなっている。看てくれる医療者が内面において成熟しているかどうかを、感覚的に察知してしまう。そのことは、医療者に対する信頼感に直結するのである。

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序 書くことと内面の成長(柳田邦男)

第1部 看護学生の物語から(柳田邦男 編)
  血肉に染みこむ現場での気づき-看護学生の成長の物語
   看護師さんごっこでわかった“頑張る力”を引き出す看護(谷野真衣)
   共感的態度で(佐藤美幸)
   夏休みのちいさな出会いから(高尾智美)
   支えることは、支えられること(佐藤奈緒美)
   役割の変化に目を向けて(佐潟佳一)
   強い不安と身体的苦痛のある終末期患者の看護 そばにいることの意味(奥野紗織)
   学生エッセイへの論評

第2部 いのちの学びの物語から(陣田泰子 編)
 見えにくい“看護の力”を描く
  学び合い、育ち合う現場
   概念化レポート(1) 救命救急センターにおける患者とのかかわり(飯野好之)
   飯野さんの物語へのコメント
   レポート 先輩から看護を学び、伝えていくこと(河本千恵子)
   河本さんの物語へのコメント
  日常生活を支援する-セルフケア
   セルフケアの支援(1) 最期の願いを聴き届けること(黒田悦子)
   黒田さんの物語へのコメント
   セルフケアの支援(2) 健康維持と予防の時代の看護専門職としてのかかわり
    -外来患者のセルフケア能力向上に向けて(本舘教子)
   本舘さんの物語へのコメント
  小児外科病棟の出来事と二十年後の再会
   早く元気になーれ(陣田泰子)
   入院した病院の看護師を目指す(山崎 雅)
   概念化レポート(2) 今、私を支える二十三年前の体験
    -小児外科病棟での看護(竹内久恵)
   IVHはライフライン(吉田一彦)
   四つの小児の物語
    -今を生きていること、この不思議な力。そしてそれを紡いでいくこと
   物語を経て、今

第3部 師長のものがたりから(佐藤紀子 編)
 「師長のものがたり」に見えてくる看護師の姿
   ひとつめのものがたり プロジェクターに込められた願い(新井敏子)
   ひとつめのものがたりの看護としての意味
   ふたつめのものがたり 三浦さんが子どもの入学式に
    参加できたことの意味(小原雅子)
   ふたつめのものがたりの看護としての意味
   みっつめのものがたり 深夜二十三時の二十分間の出来事(香取秀則)
   みっつめのものがたりの看護としての意味
   よっつめのものがたり 阿部さんとのかかわりを通して
    成長した青野看護師(吉村美樹)
   よっつめのものがたりの看護としての意味
   いつつめ、むっつめのものがたり 師長の行うケアの意味(宮子あずさ)
   いつつめ、むっつめのものがたりの看護としての意味

第4部 座談会 「その先の“私”を変える気づき」(柳田邦男・陣田泰子・佐藤紀子)

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毎日の積み重ねに無駄はない それはその先の自分を創ること
書評者: 遠藤 俊子 (京都橘大教授/母性看護学・助産学)
 『看護師であることに迷ったとき,この本を手にとってみてください。ここにはたくさんの物語がつまっています』と帯に書かれているとおり,登場する事例にハッとしたり,ホッとしたりで一気に読める本である。本書は四部構成になっており,三人の編者が看護学生の物語(柳田邦男),いのちの学びの物語(陣田泰子),師長のものがたり(佐藤紀子)として事例の提供をしながら第3部まで進め,最終の第4部では座談会によって,「看護師としての私の気づきと看護」を深めている。

 第4部の中に「人間は物語を生きている。患者というのは,その人なりに三十年であれ,八十年であれ,生まれてからこの方,生きてきた文脈があって,さきほども言いましたが傾聴して記録を取れば一つの物語になっているわけですね。……(中略)……患者の物語と,医療者の物語とが出会う交差点が医療の現場であり,そこで生み出される作品が医療行為,診療行為であるというわけです」という表現がある。しごく当たり前であり,看護師は誰もがこの交差点で出会う患者との体験から「一生の宝物になる物語」を持っているだろう。これらの物語が日々通り過ぎてしまうような臨床の現実こそが,看護の危機的な状況ではないかと思えてくる。あまりにも業務量が多くて,忙しくて,ギスギスしていることをも本書では指摘しているが,今日という一日が,事故がなくて安全に経過することだけを目標化する医療現場にしたくはない。

 また,看護カンファレンスでは,ぜひに患者の物語を提示できる事例の提供を心掛けたい。しかし,短い時間に事例提供できるのは一朝一夕でできるものではない。事例を客観視するためには誰かに手紙のように書く,名文を書こうと思わずに雑記帳に書くくらいのつもりで書くことから始めることと,本書で提案されている。そして,自分の看護実践を客観的にみつめ,核となったものに気づく過程がそこにある。その見方や行ったケアへの気づきが,チームとしての気づきになり,臨床の力が増すことになる。

 「医療現場に入って一年,二年は大変だから,だいたいそこで脱落しそうになるんですよね。そういう中でも,僕はいっぺん職業を選んだら五年とか七~八年はそこで歯を食いしばってでもやってみると,ある日突然にパッと何か,割れ目から光が射す時があるだろうと思うんですよ。そういうことがあり得るんだということを,心のどこかに思っていたほうがいいと思うんですね」という柳田氏の発言も,新人看護師に伝えたい言葉である。あなたの行っている毎日の積み重ねには何も無駄がないこと,そうした体験こそが,今の自分,その先の自分をつくっていくことになるのだ。

 最近,基礎ならびに現任教育でも,ポートフォリオという手法で自分自身の成長を確認する手法が進められている。そこには自己の記録,写真,提出レポート,他者からのメッセージなどの記録が残されていく。今日からあなたも書くことを始めたくなる1冊である。
臨床の看護実践を物語として表現するために (雑誌『看護教育』より)
書評者: 大池 美也子 (九州大学大学院医学研究院保健学部門看護学専攻)
 本書は,看護学生,看護師,看護師長というそれぞれの立場による看護の実践経験を,物語として解き明かそうとするものである。一人ひとりの物語には,看護師のひたむきさや患者の辛い思いを包含する豊かな表現があり,読み手の心を引き寄せる。しかし,本書は,物語の読み方あるいはその意図のすべてを読み手に委ねようとはしていない。それぞれの物語が,なぜ読み手の心を揺さぶるのか,どうして看護実践を凄いと思わせるのかについて,執筆者らが深い解釈や説明を投げかけ,読み手の思考を刺激し広げてくれている。

 最初に紹介される看護学生の物語は,本誌の看護学生論文エッセイ部門に取り上げられたものである。看護学生は,病む人の「がんばる力」を引き出すことや「共感すること」あるいは「そばにいることの意味」など,看護だと実感した出来事をみずみずしい感性のなかで書き上げている。執筆者の一人である柳田邦男氏は,看護学生の物語について,専門的知識を知らないからこそ書けるという。そのような物語には,感性に揺さぶられた多くの「気づき」が見出されている。二つ目の看護実践の物語は,「見えにくい看護の力を書く」ために「帰納的な道筋で『経験』をたどる」方法に取り組んでこられた陣田泰子氏によって構成されている。実践経験がなぜ忘れられないのか,本書の物語を読み進めることによって「看護の力」が浮かび上がってくる。それは,先輩から後輩に引き継がれる看護であり,不思議な巡り合いをもたらす小児看護などであり,実践経験の意味が物語から解き明かされてくる。三つ目は,看護師長による看護実践の物語である。看護師長だからこそ「なんとかしなければいけない」ことがあり,その姿は「看護師の成長」を支えることや「責任をとる」ことなどとして描きだされている。この箇所の担当者である佐藤紀子氏は「臨床の知」の解明に取り組まれており,佐藤氏のことばからは,臨床看護の可能性を引き出すのは,看護師長あなたですよという応援メッセージが伝わってくる。そして,本書の最後は執筆者らによる意見交換であり,書くことが看護実践を変えていく「気づき」になるとして締めくくっている。

 本書が述べているように,効率性や科学性が要求される医療現場で,他者との関係性や個別性に注目した一生懸命な看護実践を伝えていくことは容易ではない。しかし,私たちは,今の時代だからこそ,実践経験を物語として「作品化」することが求められているのだと思う。私たちの経験が臨床の看護実践を解明する資源であり,本書はそのような資源の大切さとともに,実践経験を書く具体的方法を教えてくれる必読書であることに間違いない。

(『看護教育』2011年11月号掲載)

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