質的研究の基礎 第3版
グラウンデッド・セオリー開発の技法と手順

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1999年3月発行の初版、2004年12月発行の第2版に引き続く翻訳第3版。著者の1人Strauss博士の逝去後、共著者のCorbin博士が引き続き改訂を行い、グラウンデッド・セオリーの研究への適応プロセスを、具体的な実例を示しつつ紹介している。社会学から心理学、看護学へと広がった質的研究法の1つ、グラウンデッド・セオリーに関する基本的文献。
Juliet Corbin / Anselm Strauss
操 華子 / 森岡 崇
発行 2012年04月判型:A5頁:560
ISBN 978-4-260-01201-0
定価 4,730円 (本体4,300円+税)

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日本語版への序

日本語版への序
 アンセルム・ストラウスが亡くなってから年月が経っているが,彼が遺したものはその書物のなかに生き続けている。『質的研究の基礎』もそのなかに含まれている。ストラウスが亡くなってからの何年かで,グラウンデッド・セオリーを標榜する多くの異なるアプローチが出現してきている。このことはよいことだと思っている。なぜならば,理論構築をするという考えが生き続け,重要であり続けているということを示しているからである。しかし,その一方で,現在発表されてきているグラウンデッド・セオリー・アプローチの多くがオリジナルから枝分かれしており,そのことで学生たちはどの方法が「一番よい」ものなのかということについて混乱している。アンセルム・ストラウスは自分の方法に固執することはなく,新しいトレンドを前にしても,彼が動じないであろうことは疑う余地がない。また,他のアプローチと比べて,自分のアプローチの価値についての論争に時間を費やすということもしなかったであろう。彼にとって,この問題はどの質的方法,あるいはグラウンデッド・セオリー・アプローチが用いられるかということではなく,むしろ造り出される作品の質に関心が向けられていた。
 まず重要なことは,本当に理論か,ということである。もしそうであるならば,その理論は厚みがあり,十分に統合され,意味あるものになっているか,ということが重要となる。それでも,方法に関する討論を意味のないものとしてやめてしまう前に,方法を一緒くたにしてしまう,あるいは利点・欠点を十分に理解しないままにグラウンデッド・セオリーの最新版あるいは最新の流行に流されてしまう危険を研究者がおかすことになることは指摘しておかねばならない。その危険は,その方法の元々の意図を失ってしまったり,その方法が土台としている基礎的な前提を破ることに通じ,そして理論や質の高い研究の産出というものが目的でなくなることになりかねない。

 『質的研究の基礎』第3版の執筆は,本書の第1章で述べているように,私にとって困難なことであり,1つの挑戦であった。なぜならば,質的研究におけるコンピュータ・プログラムの活用といった新しい流れのいくつかを,本書に盛り込む必要性があることがわかっていたからである。さらに,幾人かの批評家がアンセルムの方法が過去の遺物であると述べているが,そうではないこと,そしてポストモダンあるいは構成主義的な考え方の流れのなかにまさに通じるものであることを示したかった。アンセルムの作品を注意深く読めば,たとえ執筆されてから久しいものであっても,著書や論文のなかに示されているアイデアが今日においても,なお意味あるものであることが理解できるだろう。現在のどの質的研究者が書いたものの前でも色あせることはない。近年の流行に応じて,彼の方法を徹底的に作り直す必要はない。ただ,いくつかの部分を更新し,『質的研究の基礎』の過去の版で生じた混乱を整理することで批判に応える必要があるだけである。私は『質的研究の基礎』の第3版が現在でも有効な方法論のテキストであること,将来にわたってこの方法が重要なものであり続け,そして,同時にそれはアンセルム・ストラウスの方法に誠実であり続けるものであることを信じている。さらに,読者が切望している質の高い研究の実現をなしえる方法論上の手段を,本書が提供できることを信じている。

 経験豊かな研究者にとってさえ,洗練された,質の高いグラウンデッド・セオリーを構築していくことは簡単ではないことは疑う余地がない。さらに,研究者がテキストを原語で理解しなければならないならば,用語はしばしば正確に翻訳されないので,それはさらに困難なことになるであろう。しかしながら,幸いなことに本書によって,日本の研究者たちは原語の意味を読み取るための努力にではなく,むしろ自分の研究の遂行に自身の時間とエネルギーを投入することが可能となるであろう。しかし,方法についての理解を増すこと以上に,本書を重要なものとする何かがある。すべての人々が多忙で,量がしばしば質よりも重要視され,流行は瞬く間に変化するような,今日の世界では,グラウンデッド・セオリーは,残すべき価値があるならば,しっかりと根づかせる必要がある。私は日本の研究者はその必要性を受けとめることができると信じている。日本の学者が研究に持ち込んでいる質,つまり,卓越性の追求,伝統への献身,勤勉さ,計画している方法を実施したいという願いすべてが,アンセルム・ストラウスの方法は決して失われることはないということを確証してくれることになるだろう。これらの理由から,この翻訳を実現させるために多くの労を費やしてくれた,操華子氏と森岡崇氏に心からの感謝を申し上げる。

 ジュリエット・M・コービン



 私の知的な部分の中核はおそらく,社会的現象の世界は不可解で複雑なものなのだ,というある種の感覚である。この感覚は皆さんが思うようにナイーブなものである。複雑性は人生を通じて私を虜にし,同時に悩ますものであり続けている。どのように複雑性を解きほぐせばよいのか,どのように整理すればよいのか,そしてどうすればその前で無力感にさいなまれたり落胆せずにすむのだろうか? どうすれば複雑性から逃げ出さずにすむのか,あるいは,どうすれば存在を過度に単純化することで複雑性の解釈を歪めずにすむのだろうか? これはもちろん,昔からある問題である。つまり,抽象化(理論)は不可避的に単純化をもたらす。それでも,深い理解と整理のためには,ある程度の抽象化は必要なのである。ではどうすれば,歪みと概念化のバランスをとることができるのだろうか?(Strauss, 1993, p.12)

 改訂の依頼を受けると,私も含めて次のようなことを言う人がよくいるものだ。「新たな改訂は必要なのか? 前の版ですでにすべて言っているのではないのか?」と。私もそう思う。しかし,第2版を見て気づいたことは,第2版出版以降に質的研究の領域と私がいかに変化してしまったかということである。
 あの揺籃期以来,私は知的に成長してきたし,質的研究について書かれている文献を今日読むときにも同じように成長する。価値,信念,態度,専門職としての知識,この時代に生きるものとしての知識,こういったものを抜きに,私があるわけではない。質的研究について自分に語られたこと,そして書いたことを信じている。しかしある日,自分に対し「ポスト実証主義者」(Denzin, 1994)というレッテルが貼られているのを目にした。「おやまぁ。自分は自分が質的研究で行ってきた通りに分類されラベルづけされている」と思っていた。つまり,淡々といつも通りの仕事をしていた間に,質的革命が起こっていたようなものである。その革命の一端にある「解釈」という単語,かつての質的研究における決まり文句だが,これはもはや時代遅れとなってしまった。新しい質的な業界用語は,研究協力者が自身を語るままにさせることに焦点をあてた。さらに,「かつて」非難を受けた「go native」など,今は問題とされない。状況は悪化した。私の研究の世界は,ハンプティ・ダンプティと同様に,「客観性」という観念を保証しえないとき,崩れ落ちてしまったことを知った。「客観的な研究者」に代わって,ポストモダンの運動は,研究者を研究の中心に押し上げた。しかし私の研究者としてのアイデンティティに対する最終的な非難は,データのなかから「リアリティ」をつかむ可能性が,ファンタジーだとみなされたことである。すべては相対的である。つまり「多元的なパースペクティブ」が存在するのである。ポストモダンの時代が到来した。すべては「脱構築」され,そして再「構築」されていたのである。
 こういった新しい考えを聞いたとき,私が少々イライラしまたそれに関心を持ったと読者が思うことは,あたっている。私は,研究者が「自分自身の中心部の検討」や「優れたストーリーの語り」を気にしすぎるあまり,研究を行う目的を見失い(少なくとも私のパースペクティブから見た限り),専門家としての実証的知識体系の生成を見失ってきたことを心配していた。多くの場合,質的方法は,「科学的な世界」で獲得してきたいかなる信憑性も失ったのではないか,と私は心配していた。しかしながら,そのことについて考えれば考えるほど,「ポストモダン」,「脱構築主義者」あるいは「構成主義者」と称される人々の思想によって引き起こされたある種の有意義な点に気がついていった。私のオリジナルな研究の「バブル」が弾け,何が残ったのだろうかと思いをめぐらせた。この「告白」に,次のことを加えねばならない。つまり,ここ数年にわたり,私は世界各国で分析方法について教えてきており,学生たちとの相互作用もまた,質的研究に対する私の新しい理解を形作る助けになっていたということである。
 本書第3版の執筆を頼まれるまで,自分の考えをまとめる作業を開始していなかった。本書の概略の草稿段階で,次のような一連の問いに直面してしまった。方法とは何か? それは単なる手順のセットなのか? あるいはそれは,何らかの手順を伴う哲学上のアプローチなのか? 研究において手順は何の役割を演じるのか? それはガイドなのか,あるいはアイデアを広くまとめたものなのか? どんな,そしてどの程度の構造が,学生には必要なのだろうか? 研究者の役割とは何か? 研究協力者がストーリーを語る際,研究者はどのようにすれば受け入れられるのだろうか? どの程度,解釈を含めるべきなのだろうか?
 第3版執筆に際しての私の挑戦の一部は,研究者としての私が何者なのかを決定するという問題であった。私はグラウンデッド・セオリストとして教育を受けてきた。私がトレーニングを受けていた時代には,おそらく「グラウンデッド・セオリー」のアプローチは1つしか存在していなかった。時を経て,グラウンデッド・セオリーを標榜するものは,データに根ざす理論の構築を目指した数多くのアプローチに展開していった。そのどれもがオリジナルの方法論を現代の思想に合うように改訂し,あるいは拡張していく試みであった。それでも私は,故アンセルム・ストラウスの方法論上の立場を大切にしたいと考えてきた。彼は死の間際まで,専門家としての知識体系の発展に対する理論がもつ価値と重要性を信じ続けていた。この点を複雑にしていることは,新たな知識は理論構築によってのみ発展していくことをもはや私が信じていない,という事実であった。
 深みがあり豊かな記述,事例分析,困難な状況に変化をもたらすこと,ストーリーを語ることのどれもが,研究を行う際の正当な理由である。どのような研究形態でも,それ自身に十分な力をもっている。ストラウスバージョンに忠実であるために,それでも私は自分の信念を曲げるつもりはないのだが,理論構築に加えてそれ以外の研究の目標にも合うように,何らかの方法を考えねばならないと感じていた。さらに,この序の冒頭に引用したストラウスの言葉にあるように,複雑性にまつわる問題が存在する。複雑性はストラウスにとって非常に重要なものであったので,本書で提示される方法では間違いなく,何らかの複雑性をつかみ取るための方法の提示が不可欠であろう。言い換えればこれは,サイエンスとアートをブレンドし,複雑なストーリーの語りと解釈をブレンドする,そういう方法を見いださねばならないということになるのだろう。ストラウスの論文のなかに確実に特徴づけられている質でもあるのだが,ストラウスを知る者すべてにとって,彼は卓越したストーリーの語り手であったし,同時に彼の業績がもつ学問的貢献を否定する者はいないのである。
 いうまでもなく,あらゆることを考慮したうえで,第3版の執筆に挑戦することができるのかどうかわからなかったし,執筆に取りかかったときにはむしろ挫けそうになったものである。ぐずぐずしながら,あるアイデアを試すときには書いては書き直し,それの連続であった。しかしいったん乗り始めたら,そのプロセスを楽しんでいる自分を発見した。私は全く新しい方法を描き出そうとしているのではないことに気がついた。自分自身それとともに成長してきた方法を現代化しようとしているのであり,ドグマを取り去り,手順のいくつかをより柔軟にし,どうすればコンピュータが研究プロセスを手助けできるのかを考えようとすらしていたのである。
 この第3版では,すでに書いたようにストラウスバージョンを維持しようと試みている。私の目的は,分析に対するストラウスのアプローチを作り直すことではなく,『質的研究の基礎』の旧版がもつよい部分と,現代の考え方のある部分を組み合わせることにある。私は,「あれ」とか「これ」とかにラベル付けされることを好まない。その理由は,いったん貼られたものはなかなかはがれないからである。時間の経過,知識の変化の状態,そのなかでも,それに伴う人々の変化,こういったものをラベルは考慮しない。
 本書は,一組みのデータから構成されうる解釈は多様である(私自身実行してきた)が,概念の創出というものは有効な研究上の営みである,という信念のうえに書かれている。有効であるというには2つの理由がある。1つ目は,人々について彼らの日常生活(ルチーン/振る舞い/問題/課題)のなかでの理解が増すだろうし,人々がどのようにそれらに対処し解決しているのかという点に関しても,同様だからである。2つ目には,理解や意味の共有を発展させるための議論や討論にとって有用な言語を,概念が提供しているからである。理解は,専門にとっての知識体系を作り上げ,実践を促すのである。
 『質的研究の基礎』の第3版は,質的研究実行のレシピではない。もしそのようにみられるのであれば,私はそれに異を唱えることになるだろう。そうではなく本書は,質的なデータの山の意味を理解するのに役立つような,一連の分析テクニックを提示している。研究者には自分のやり方で手順を使うことを勧めたい。しかしながら,私が強く感じている点がある。研究者たるもの,研究開始時にはこれから始めようとしているものが何なのか,明確にしておくべきである。その目的が記述にあるのだとすれば,それはそれでかまわないことであり,それを実行すればよいのである。私は,「優れた」記述を作り上げてもらいたいし,本書の活用はその作業を手助けするであろう。しかしながら目的が理論の構築であるならば,結果は,十分な射程をもつ理論的かつ説明的なスキーマを形づくるために統合されるべきである。あまりに多くの人が理論と称して記述を行っている。そのため,理論とは何なのかについて読者に混乱を与えている。
 どのように質的分析を行うかは,誰かに指示される類いのものではない。質的分析の実行は,研究者自身が自分自身を感じることなしには,行うことができないようなものである。本書は単にいくつかのアイデアとテクニックを提示しているにすぎない。それを自分に最も合うようなやり方でどう使うのかは,それぞれの個人に任せられているのである。
 本書の第1章では,「私たち」という代名詞に気づくであろう。本書後半では,代名詞は「私」に変わっている。混乱しないでもらいたい。これには理由がある。第1章は,方法論上の諸手順を扱う章が含まれているのだが,ここは,アンセルム・ストラウスと私が協働した素材が元になっており,その多くは本書の旧版の中で発表されている。本書の後半は,ベトナム戦争に関する素材を使った,分析のデモンストレーションにあてられている。これは新たに書かれた部分であり,私が責任を負っている部分である。数年前にアンセルム・ストラウスは死去しているが,彼は本書の中で強く生きている。私たちは15年にわたり協働して作業を行ってきたのであり,もはや彼の見解と私の見解を分けることは非常に難しいのである。時代は変わり私も変わったが,それでも本書に書かれている言葉は,彼が私に教えてくれたことのすべてに根ざしている。第3版で私は,彼にも誠実であり同時に今現在の自分にも誠実でありたいと思っている。ストラウスにとって,テクニックと手順は単なる研究を実行する方法以上のものであった。人生について学ぶ方法だったのである。
 第3版は,いくつかの新たな特徴をもっている。第1に,私自身の中で生じた変化を反映し,分析上よりオープンなものだという点である。第2に,1章は本書で提示される研究アプローチの基礎をなす理論的土台の説明にあてられている。本章はストラウスの死の数年前に書かれて第2版に入れられる予定であったが,出版の段になって,この理論的な部分は編集者によって割愛された。この部分が基礎的な書物としてはあまりに理論的すぎるのではないか,と考えられたからである。第3版ではその部分も組み込まれた。第3に,本書は理論構築を目指す人だけに限定される内容ではないということである。理論構築は,数多くの分析ステップからなる長いプロセスが求められる。読者は理論構築を行わないことが明確であるのであれば,理論構築という最終ステップにいくことがなくても優れた研究が可能である。理論構築のための章が本書には含まれているが,多くの分析に関する章は,深く豊かな記述,概念分析,あるいは単にテーマの抽出に関心のある研究者にとって便利なようにデザインされている。第4に,単に分析について語るだけでなく,実際に分析をやってみせている。読者も概念の同定から理論発展までの各ステップをみることができる。そして第5に,これまでの版になかったことなのだが,学習内容を確認できるような演習が各章ごとにつけられている。第6に,コンピュータソフトを分析に用い統合する方法にも触れている。
 ここ数年私が行ってきたセミナーではどこでも,質的分析のためのコンピュータソフトの利用に関する質問が必ずあった。確かに質的研究におけるコンピュータソフトの利用については議論があり,またそれを否定する研究者もいるが,分析のためのコンピュータソフトは普及しており,すでに利用できるソフトのなかで改良を重ねながら,研究プロセスを支援するソフトの能力は向上している。私がここで,「支援」という言葉を使っていることに注意してほしい。決して,研究プロセスの「代わりをする」ともそのプロセスを「指示してくれる」ともいっていない。この第3版がもつ最も興味深い側面の1つは,デモンストレーションにあると考えている。デモンストレーションする分析プロセスは,例えばコンピュータソフトの助けを受けたとしても,今なお,研究者が主体となって思考し感じていくプロセスである。これは非常に重要な点である。コンピュータソフトのユーザーは時に分析プロセスに固執してしまうことがあるが,これは不必要なことである。発展的な分析では,コンピュータソフトをどのように使いたいのかは研究者が決めるべきであり,その逆であってはならない。分析がソフトの能力に限定されねばならない理由など存在しない。コンピュータソフトは道具にすぎず,本書で紹介するその他の分析道具と同じである。これらは,研究者が素材を探索/整理/検索する能力を高めてくれる。またそれは,研究者が自分のコードを見失わないように,メモにアクセスしやすいように,ダイアグラムの活用を容易にしてくれる。さらに,研究者は分析段階のあまりに早すぎる段階から分析スキームにとらわれる必要もない。その理由は,現在のコンピュータソフトは,研究者が素材をめぐって動き回ったり,さまざまなやり方で考えをめぐらせたりするだけの余裕を持つものとなっているからである。どれもが分析者がワンタッチで操作できるようになっている。重要なメモを探して箱やノートをくまなく探しまわる必要はないのである。最後に,コンピュータソフトは研究プロセスに透明性を与えてくれる。研究者は分析プロセスをたどり直すことができるが,これは20年前にはなかったオプションである。「信頼性」と「監査の証拠」をどうすれば明示できるかという点に関心を抱く研究者にとって,分析プロセスをたどり直せるということは,分析中でも分析終了後でも,研究プロセスの評価がより容易になるということである。常に忘れないでほしいことは,研究者が分析で行った作業に応じて結果の善し悪しが決まってくるということである。研究者はプロセスを通じて自分のやり方について考え,自分のやり方を感じなければならない。コンピュータソフトは,分析プロセスを促進し,それから目をそらさないためのオプションであり道具であり手段である。コンピュータソフトは,この方法にとって不可欠なものでもないし,本書の演習をこなすうえで必要なものでもないが,ここではオプションとして存在している。
 本書で用いられているコンピュータソフトはMAXQDA(Kuckartz, 1988/2007)である。私は,特定のコンピュータソフトの活用を推奨するつもりはなく,ほかにも優れたソフトがあることを認めている。例えば,N-vivo,Atral.ti,Ethnographなどである。たまたま私がMAXQDAを触ってみたところ,私がコンピュータソフトに求めることが非常に明確に組織化されており,また使い方が比較的わかりやすかったために使っている。私のような機械音痴であっても理解することができた。本書の何か所かでこのソフトの使い方の詳細が,分析のある段階や局面での実際のソフトの画面とともに提示されている。さらに,本書で提示されるデータと分析は,MAXQDAのプロジェクトとして準備されているが,これはSageのウェブサイト(www.sagepub.com/corbinstudysite)やMAXQDAのウェブサイト(www.maxqda.com/Corbin-BasicsQR)から無料で入手できる。
 ソフトによって,読者はデータとともに「生き生きと」作業を行い,追加のコード化を行い,コードを付け加え,自分自身のメモを書く,・・・といった機会を手にすることができるだろう。読者は,MAXQDAのデモ版とともにプロジェクト(JC-BasicsQR.mx3)をダウンロードすることができる。またそこには,読者を導いてくれるワンステップごとのチュートリアルもあり,明確かつ簡単に,このソフトの基本機能を紹介してくれる。さらに,このプロジェクトをどのように扱うのかについての細かな情報もみることができる。

画面例0 (図は本サイトでは省略)
 これは,「JC-BasicsQR.mx3」のプロジェクトを示している。本書で扱うすべてのメモとインタビューデータはここに含まれている。このプロジェクトは,www.maxqda.com/からダウンロード可能であり,ここではプロジェクトで作業をする際に必要なすべての情報も手にすることができる。この画面例は,MAXQDA2007のワークスペースを示している。4つのウインドウからなるメインスクリーンは,質的データ分析における4つの主となる領域を示している。すなわち,データセット(ウインドウ「Document System」),コード/カテゴリー(ウインドウ「Code System」),検索結果(ウインドウ:「Retrieved Segments」),そして,テキストの作業スペース(ウインドウ:「Text Browser」)であるが,ここでコードがつけられ,メモが書かれ添付される。操作オプションのほとんどは,この4つのウインドウの中に,context menuとして組み込まれ,マウスの右ボタンによって操作できるようになっている。MAXQDAの基本となる選択原理は,アクティブにするという操作で,これは,完全に自由にワンクリックでできるものであり,どんなコードやテキストも好きな数だけ組み合わせて選択することができる。この画面例では,研究協力者#1の1つのテキストと,研究協力者#2の3つのテキストがアクティベートされており,コード「生き残り(Survival)」がいくつかのサブコードとともに示されている。この選択は,アクティベートされているテキスト(アクティベートされたコードがすでにつけられたもの)のあらゆるコード・セグメントが,Retrieved Segmentsウインドウに提示されていることを意味している。当座開いているテキストは,Text Browserウインドウに提示されている,研究協力者#1の1つである。つけられたコードすべてとその正確な位置は,コードごとに色分けされて(色は自由に選択できる)コードの余白に示される。メモは,その横の余白で作られ表示されるが,メモをダブルクリックすることでそれを開くことができる。

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日本語版への序

謝辞
本書の概観

1章 はじめに
 デューイとミード:プラグマティストの知識の哲学
 存在論:世界に対する前提
 本方法論をめぐる近年の傾向の反響
 結論
2章 研究を行ううえでの検討事項
 はじめに
 研究課題の選択
 研究上の問い
 データ収集
 感受性
 文献
 理論的枠組み
3章 分析へのプレリュード
 はじめに
 質的研究のいくつかのプロパティ
 分析のレベル
 研究の目標
 文脈を記述することは分析の重要な側面である
 分析のための道具の活用
 ミクロ分析とより一般的な分析
4章 質的データ分析の戦略
 はじめに
 分析のための道具の目的の概要
5章 文脈,プロセス,理論的統合への導入
 はじめに
 文脈
 パラダイム
 条件/帰結マトリックス
 プロセス
 理論的統合達成のためのテクニック
 理論の精緻化
6章 メモとダイアグラム
 はじめに
 メモとダイアグラムの一般的特徴
 メモとダイアグラムの特定の特徴
 メモとダイアグラムを書くこと
7章 理論的サンプリング
 はじめに
 理論的サンプリングに関する質問と答え
8章 概念開発のためのデータ分析
 はじめに
 分析手順の実例
9章 分析の精緻化
 はじめに
 軸足コード化
 本章で用いるインタビュー内容について
10章 文脈に基づくデータ分析
 はじめに
11章 分析へのプロセスの取り込み
 はじめに
 プロセスとしての生き残り
12章 カテゴリーの統合
 はじめに
 記述から概念化へ
 理論の精製
 理論的枠組みの妥当性の検証
13章 学位論文とモノグラフの執筆,研究発表
 はじめに
 口頭発表
 モノグラフや学位論文の執筆
14章 評価のための規準
 はじめに
 いくつかの文献
 質に関するいくつかの一般的考え方
 研究の質を評価する際のさらなる規準
 おわりに
 評価とコンピュータソフト
 むすび
15章 質問と答え
 はじめに

付録A 4章と6章のための演習
 フィールドノート
付録B 研究協力者No.1:退役軍人の研究
付録C 研究協力者No.2
 第1部:電子メールでの交信/質問
 第2部:電子メールでの交信/追加の質問
付録D 研究協力者No.3
 第1部:電子メールでの交信
 第2部:電子メールでの交信:物語を書く
 第3部:電子メールでの交信:フォローアップ
 第4部:電子メールでの交信:フォローアップ
 第5部:電子メールでの交信:フォローアップ

解説-手順の修得とは何か
訳者あとがき
文献
索引
訳者プロフィール

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社会と個人の関係を探る手がかりとして (『保健師ジャーナル』より)
書評者: 竹崎 久美子 (高知県立大学看護学部)
 『質的研究の基礎』も版を重ねること第3版になります。2008年に改訂された本書がこれほど早く翻訳されるのは,本書がそれだけ質的な研究方法,なかでもグラウンデッド・セオリーに関する理論的背景や分析の実際について,創始者の1人である故アンセルム・ストラウスが解説する数少ない著書であるからです。

 質的研究方法というと,地域看護ではエスノグラフィやKJ法が有名だと思います。長い歴史に裏打ちされた「文化」や「風土」を探ることを目的とするエスノグラフィ,新たなものの見方を見出すべく,言葉を文脈から切り離して分類するKJ法,それぞれに方法論の特徴があります。その意味でグラウンデッド・セオリーはある特定の社会とそこで生きる個人との相互作用について探究することを目的とした研究方法論です。

 ある小集団に所属している構成員の人々は,その社会とどのような関わりをもって生きているのでしょうか。そこには共有される価値観と,その価値観に対する個人のさまざまな反応のパターンがあります。さらにそのパターンには変化する過程があり,そのパターンや過程,変化の段階が解明(説明)できたとしたら,人々の行動変容にもつなげることができます。グラウンデッド・セオリーは,そのような実践につなげることのできる研究方法です。

 第3版となる本書では,1996年に亡くなったストラウスの社会学者としての哲学的バックグラウンドや,分析における基本的考え方を真摯に踏襲しようとするコービンの思いが,随所に窺われる内容となっています。この点で,第1章を始めいくつか難解な内容に思われる章があるかもしれません。これらの章は,修士・博士課程の学生や研究者にとって必要となる章なので,興味のある方はじっくり読んでみられたらよいと思います。

 実際の分析方法については,8~10章を中心に書かれています。これらの章も,決して本書が分析方法のハウツー本ではないので,これを読めばグラウンデッド・セオリーの分析ができるというわけではありません。しかし今回の改訂では,実際に著者たちが行った「ベトナム戦争の退役軍人に関する研究」のさまざまな事例の分析が収録されていて,それらを読むと実際の質的な分析の深め方の一端を垣間見ることができます。きっと,こんなふうに掘り下げてみたいと思う身近な社会と個人の現象に思い当たることと思います。

 著者のコービンが再三語っているとおり,本書は研究方法のハウツー本ではありません。むしろ,一通り研究の分析を終えた人には,あらためて自分がどのような知的探究作業を展開してきたのかを確認できる著書かもしれません。しかし実践家の人も,開いてみると今現場で向き合っている「ある社会」と「個人」の関係を探究するヒントが,随所に見つけられる書籍だと思います。

(『保健師ジャーナル』2012年12月号掲載)
グラウンデッド・セオリー研究の道に迷ったときに読む本 (雑誌『看護教育』より)
書評者: 大久保 功子 (東京医科歯科大学医学部保健学科教授)
 本書は,明日からでもグラウンデッド・セオリーを用いた研究ができそうな気にさせてくれる本である。表紙も手元に置きたくなるほど素敵で,写真の場所を訪ねたことがある人にとっては,「あそこだ!」と郷愁を誘う。

 この第3版は内容が刷新されており,引用されている具体例が以前にも増してビビッドに迫ってくる。実際に多くの看護研究者を育ててきた著者らの教育経験に基づいているからである。パソコンでのデータ管理方法やメモの活用法も追加され,分析の具体的な例示には,ベトナム戦争帰還兵へのインタビューを用いている。ベトナム戦争帰還兵の症状が,PTSD(posttraumatic stress disorder;(心的)外傷後ストレス障害,DVや虐待の被害者にも類似の症状がみられる)の発見の契機となったことは周知の事実である。PTSDにせよドラッグにせよ,なかったことにされがちなことに,看護研究者はあえて踏み込んでいく。看護学はどこに立脚すべきか,日本の看護教育ではあまり教育されていないのだが,立脚すべき一つの側面として,Social justice(社会正義)が看護学の根幹にあることをこの本は感じさせてくれる。

 多少マニアックな観点からも一言。長年,グラウンデッド・セオリーの哲学は,技術と手順の解説に覆い隠されてきた。まさにグラウンデッド・セオリーが形骸化した御手前に成り下がろうとしたとき,哲学的前提はシカゴ学派の相互作用論とプラグマティズムである,と著者はその哲学を明示することで足場を取り戻した感がある。むしろ立場が明確で潔い。

 さらに,本書では時代の動向を捉え,巧みに解釈学的文化人類学や現象学者の記したことを摂取して,伝統的な方法を刷新しようとしている。研究方法は時代とともに変わり得るのである。シャーマズ(K. Charmaz)の構成主義的グラウンデッド・セオリーなど,さまざまな修正版が編み出されてきているなかで,著者コービンのグラウンデッド・セオリーは,あえて揺るがない。抽象的に解釈し,概念でくくり,研究者が理論を開発することを中核に据えつづけている。ストラウスの魂を継承すべく,構成主義を意識しながらも,明らかにそれとは異なる立場を貫く。理論的サンプリング,ディメンション,プロパティ,継続比較,フィールドワーク,それらがどうかみ合うのかが示されているこの第3版は,1,2版をすでにお持ちの方にもぜひ一読いただきたい本である。

 グラウンデッド・セオリー研究の道に迷ったとき,まさに本道はここにあり! と言ってくれている。

(『看護教育』2012年8月増大号掲載)
研究の手順だけではなく,基本的な考え方を押さえていますか (雑誌『看護管理』より)
書評者: 原田 博子 (九州大学大学院医学系学府看護学専攻准教授)
◆「質的研究のアプローチの基礎をなす理論的土台の説明」が加わる

 この本が私のもとに届いたのは,大学院生とともに第2版第4刷を読んでいる最中であった。それまで量的研究を学んできた者にとって,その書名から手を伸ばす機会がないと思っていた。さらに,質的研究は理解しにくいとか,教えてくれる人が近くにいないと困難だという話も聞いていた。

 ところが,第2版第3章で,深く精緻化され,統合され,かつ総合的な理論を構築するためには,研究者はどのような方法論も操れるべきであり,忘れてはならないのは,方法論同士の真の相互作用なのだと著者は論じている。さらに,研究のデザインは,概念と同様に,研究プロセスのなかで浮上するようでなければならないとしている。これを読んで,私は「そうだったのか」と思わされたのみならず,第3版への興味が高まったのだった。

 第3版は,6つの新たな特徴をもっている,と序のなかで述べられているが,特に注目したい特徴は,第2版のために書かれていながら,初学者向けのテキストには複雑すぎるとの理由で削除されていた第1章である。ここでは,質的研究のアプローチの基礎をなす理論的土台の説明がされている。この方法論の認識論は,シカゴ学派の相互作用論と,John DeweyとGeorge Meadに大きな影響を受けているプラグマティズムの哲学との2段階の展開を経て形成されている。知識は,行為するなかから,あるいは自己内省的な存在が行為する,相互作用のなかから生まれるとしたうえで,知識は有効な行為を導き,行為は考えられ解決されるべき問題を設定し,そうすることで行為は,新たな知識へと変換される。そして著者は,世界と知識に対するプラグマティストおよび私たちにとって,行為と相互行為は決定的に重要なものであり,自己内省を過小評価してはならないとしている。

◆研究者としての気持ちを内省

 また,第3版が第2版と最も大きく異なるのは,第10章から第12章と付録のB・C・Dの直接型インタビューや電子メールでの交信記録であり,これらは,第9章から展開されるベトナム戦争志願兵たちへの具体的なインタビュー方法から,データ分析のプロセスを示すものである。ベトナム戦争に志願して行った非戦闘員だった退役軍人には,直接非構造的インタビューを行ない,戦闘員の退役軍人にはメールによる構造的インタビューを行なうなかで,著者は研究者としての気持ちを随所で内省している。さらに,質的研究者の役割として,研究協力者が関わった章については査読の機会をつくり,その意見を受け入れている。

 本書は,研究者がインタビューを実施する前,フィールドノートやメモ・ダイアグラムを見るとき,分析の過程においても,そばに置いてこそ有用である。質的研究の手順を示すだけではなく,研究に関する基本的な考え方を示している点においても,手元に置き,何度も目を通すことで,質的研究に対する自分の考え方を確立することにつながると確信する。

(『看護管理』2012年7月号掲載)

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