DVと虐待
「家族の暴力」に援助者ができること

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なぜ虐待された子は親を慕い,殴られた妻は夫のもとに戻るのか--この「当事者性の不在」という“謎”解きから始めない限り,援助者は家族の暴力に太刀打ちできない。「味方になる」「第三者を登場させる」「数と時間の効果」等の魅力的な概念を駆使して贈る,まったく新しいアプローチの数々。
信田 さよ子
発行 2002年03月判型:A5頁:192
ISBN 978-4-260-33183-8
定価 1,980円 (本体1,800円+税)

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  • 目次
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I 家族の暴力
 前提(1) 「家庭内暴力」
 前提(2) 児童虐待
 前提(3) ドメスティック・バイオレンス
II エピソードにみる被害者-当事者性とはなんだろうか
 事例(1) 鼻の曲がったA子さん
 事例(2) 日本刀を振り回す夫から逃げられないB子さん
 事例(3) 長男に連れられてきたC子さん
III こう介入する
 介入(1) 介入は正当だ
 介入(2) 介入の基本
 介入(3) 被害者への介入方法-DVを中心に
 介入(4) 加害者への介入方法-虐待を中心に
 介入(5) これだけは覚えておきたい七箇条
IV 暴力を解くキーワード
 キーワード(1) 「1人」はあぶない
 キーワード(2) 「2人」もあぶない
 キーワード(3) 「第3者」を登場させる
 キーワード(4) 「仲間」をつくろう
V 援助者側の問題-わたしたちは何に縛られているのか
 転換(1) 中立はない
 転換(2) プライバシーは被害者を守らない
 転換(3) 家族は暴力と支配に満ちている

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封印された「家族の物語」を解く
書評者: 田辺 等 (北海道立精神保健福祉センター)
 精神科医療や心理臨床では,目の前のケースに臨床的誠実さを貫こうとすると,しばしば社会や家族のあり方を考えざるを得なくなる。しかし大多数の臨床家は,立ち現れたクライエントの事例性に応答していくことで,作業の枠組みを,個人の治療,癒しの作業へと限定していく。そもそも,ほとんどのセラピストは,疾患モデル,医学モデルに依拠した治療者の役割に自分を限定している。
 しかし信田さよ子は,そうではない。医療やソーシャルワークやカウンセリングという営みの中で,問題の本質の何かが封印され,問題を語る文脈がすり替えられることを,彼女は断固として拒否する。あたかも生理的な嫌悪であるかのようだ。こうして信田さよ子は,考えることで,書くことで,戦う人になる。

◆援助者の否認と荷担

 本書『DVと虐待』は,日々の臨床活動の中で「家族の中の暴力」に直面した著者が,社会を,家族を,男女関係を,女性の生き方を,考え抜こうとしている過程でできたものである。
 この主題は,いわば“おどろおどろしい家族の物語”である。心の病理を扱う臨床家といえども,しばしばこの問題からは顔をそむけたくなる。書評子自身が,児童虐待防止の民間運動に協力したささやかな経験でもそうであった。例えば,看護や保育に携わる人たちが,実母が実子に加えた数々の虐待の傷跡を見ていながら,虐待という事実を認知することに躊躇し,当の実母が別の場面で見せた子どもへの愛情味ある1つの仕草,1つの発言で,すべてを否定してしまうのである。専門職の側も,問題を否認したくなるのだ。
 しかし著者と彼女の主宰する相談室は決して問題を看過しない。著者は言う。
 “ドメスティックバイオレンスの被害者は,しばしば「当事者性」を持てていない。だからこそ問題の認知には教育が必要である。それは心理臨床における中立的態度を超える。なまじカウンセリングやケースワークを学んでいると,プライバシーを尊重し自己決定を尊重する。それは閉じられた家族システムの権力構造を維持し,加害者に荷担する立場になることだ”

◆臨床直送の「戦場訓」

 著者は,自身の思考のプロセスを露にしたまま,ひるむことなく書き進み,いわば“臨床の畑からの取れたての産物”を,泥のついたままに産地直送してみせた。
 彼女は眼の前で起きている暴力の構造を許さないし,なぜその構造が継続,維持されてゆくかの疑問を考え抜こうとする。文献の渉猟をして,誰がこう言った彼がこう言ったという論文を著者は書かない。ケースに向き合った経験を自分の頭で考え抜くことが知性であり,誠実ということだと信じている。
 こうして得られた知恵が戦場訓のように提案されているが,実は,それはアルコール関連問題における豊かな臨床経験に裏打ちされている。

◆日常診療の裏に「DVと虐待」が潜んでいないか

 医師が“直接の問題”として,DVや児童虐待に関与することは多くないのかもしれない。しかし日常の診療での,アルコール・薬物依存,解離性障害,パニック障害,抑うつ,摂食障害,ひきこもりの問題の裏に,あるいは,子どものチックや多動や夜尿の問題の裏に,実は,外には語れない“封印された家族のストーリー”として,しばしばDVと虐待がある。
 20世紀初頭,フロイトの症例が心的現実としてエディプス葛藤を体験し神経症を患っていたのだとしても,21世紀の初頭では,親からの強姦や夫からの暴力の被害を実際に体験した人が,いろいろの解離性障害となってクリニックを受診しているのだ。
 本書は,明解な主張,歯切れよい文体,美しい表紙絵からなる。理解しやすく,パワフルで美しい。著者がよく現れている本である。
「当事者性の不在」を超える能動的な援助
書評者: 西山 明 (共同通信社記者)
 20数年前,東京都内の隅田川沿い一帯にある下町担当のサツ回り記者をしていて,今も忘れられない光景がある。深夜,警察署に詰めていると赤ランプが点滅,パトカーが街に飛び出していく。後を追うと4階建て団地の一室。警察官がノックする。ドアが開き「何ですか」という男の不機嫌そうな声。「お宅から繰り返し悲鳴が聞こえてきて,人が殺される恐れがあるんではないか,という通報がありました」と警察官。「いい加減な近所の話でくるんじゃないよ。何もない」と強気の男の背後から,髪を振り乱した女性が訴えるような口調で「帰ってください。何でもないんですから」と。すごすごと警察官は引き下がりドアが閉まった。こうしたケースは週に1,2回あったが事件化しなかった。

◆「なぜ逃げないのか」から始めた実践書

 後に男による女への暴力がドメスティック・バイオレンス(DV)と名づけられ,配偶者からの暴力の防止と被害者の保護を目的としたDV防止法も施行された。米国流の解説書にしたがって被害者には,「逃げろ」と何度も警告されるけれど,現実は援助が手遅れになることが多い。自らのカウンセリングの現場を見つめて「なぜそうなるのか」を探り,「受動的」な傍観者の姿勢で被害者を見殺しにせず,「能動的」な介入で被害者を援助する方策を提起した実践書が本書である。
 被害者は,殴られているのに被害者と思っていない。加害者も,殴っているのに加害者と思っていない。殴られた妻は,すぐに夫のところに戻っていく。そのからくりを「当事者性の不在」の言葉で説明する。殴られている妻がDV被害の当事者として自覚していなければ,そもそも外部に援助を求めることは不可能である。その不在こそ米国と違って日本の困難な現状を言い当てている,という。「何でもないです」と警官を追い返した女性は,当事者性が不在であったと言える。当事者性が不在だからこそ,援助者は座視をせず介入することが必要になる。

◆「家族の壁」を乗り越える手だてを提起

 その前提には家族は支配・被支配の構造を持ち,被害者の女性は,「家族愛」の神話から解き放たれず,暴力を暴力として自覚していないという。そうした家族内部の暴力に介入していく時の正当さは,どこにあるのか。そこで,実にシンプルな視点に気づく。暴力を容認してはいけないという点である。「暴力は,他者から自己に対する侵入であり越権であること,それを許容し続けることは自己を破壊させ,プライドを壊し,腐敗させ,さらには弱い他者への支配者として転化していくということを植えつけなければならない」と提起する。夫に殴られる妻は,被害者であると同時に子どもには加害者になる。
 援助者が被害者の「発見」,加害者と被害者の「分離」,暴力はいけないと洗脳する「教育」という能動的なプロセスを通して,「当事者性の不在」が潜む家族内暴力の壁を越境していける。そのように著者が提起する手だては,実に刺激的である。

◆あなたはどこに立っているのか

 最近,農水省のBSE(牛海綿状脳症,狂牛病)への対応を,「重大な失政」と断じた政府の調査検討委員会報告書がまとまった。そこでは,見て見ぬふりをした「行政の不作為」や相手の所管事項に口を差し挟まない「内政不干渉」を指摘している。行政が消費者のポジションに立つかどうかで,被害が起こり得る事態を未然に防ぐ「能動的」な取り組みができる。
 あらゆる場面で私たちは,「あなたはどこに立っているか」と自らの立場が問われる時代を迎えているのかもしれない。中立性や客観性を盾にすることは,加害者の立場に立つことであり,援助者は「被害者の味方」になろうという。その著者の力強いメッセージは,今日本の社会が陥っているシステム混乱を解きほぐす方向性も示唆しているように思える。

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