神経文字学
読み書きの神経科学

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ヒトの文化を形成する社会的能力の1つ、文字操作の始まりは、今から5,000年ほど前。その後、文字の社会的意義、文字を操作する手段、そして文字の形態そのものも絶えず変化し、それに合わせて脳機構も変化を遂げてきたはずである。本書は文字を操作する脳内機構を、歴史的変遷をみながら、日本語特有の漢字仮名問題も含め、第一線の研究者がわかりやすく解説する。
編集 岩田 誠 / 河村 満
発行 2007年10月判型:A5頁:248
ISBN 978-4-260-00493-0
定価 3,520円 (本体3,200円+税)
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本書発行によせて-神経文字学への想い
編者 岩田 誠・河村 満

河村 岩田先生,『神経文字学』という本が出るわけですが,先生が主宰なさった第47回日本神経学会総会で,「神経文字学」というシンポジウムをご企画なさって,先生と私が司会をしましたね。そのとき,この本の著者の何人かがそこで発表し,議論したことが出版のきっかけでした。
岩田 いつかは「神経文字学」というテーマのもとで,ディスカッションをするとか,本をつくるとか,国際会議を開くなどということをやりたいなあと思っていたのです。たまたま昨年,私が神経学会の会長をやることになったので,20年来の自分の思い入れでシンポジウムをやりました。
 私も,これに関する本をつくるということを考えてはいたのですが,河村先生が「これを本にしよう」と言ってくださったので,ムラムラッとその気になりました(笑)。夢に思い描いていたことが実現して,非常にうれしく思っています。
河村 その神経文字学というものについて,先生にはかなり思い入れがおありになるということですので,そこを教えていただけますか。
岩田 私が,読み書きの障害をもっている患者さんに出会ったのは,今から30年以上前の話なのですが,そのときに,日本の文字と欧米の人たちの文字というのは,ずいぶん違うのだなと,脳の障害を診ながら感じたのです。人間の脳は,アメリカ人だって,フランス人だって,日本人だって同じはずで,同じ働きをしているのだけれども,実際に働いている脳の部位は必ずしも同じではない。だとすると,これは何だろうと思って,そのときにハッと「これが文化か」というふうに思ったのです。
 当時から,神経科学では神経回路をどうやって解き明かすかということに主眼が置かれていましたし,まだ遺伝子という概念はなかったけれども,働きというのは,こういう構造,こういう性質をもっているから決まるのだというふうに,何かその根底にケミカルな変化があると,皆,感じていたのですが,文字に関してはどうもそうではないらしい。同じ場所に損傷があっても,欧米の人と日本人では,ぜんぜん違う現象が出てくる,そこに非常に興味をもちました。
 人間が生まれたときにはまだ決まっていなくて,その後だんだんと社会的な学習で獲得してくる能力というものがあって,それが脳の中でどう営まれているのかは,文字を調べていけばわかるだろうと思ったのです。そしてある時期に,「神経文字学」などという言葉を創るに至ったのですが,文化の背景みたいなものを獲得する,その脳科学を研究したいと思ったことが根底にあります。
河村 先見の明があったと思います。1970年代の神経学を思い起こしてみますと,私はちょうど卒業したばかりの頃で,なんといっても中心にあったのが運動障害の神経学でした。例えば錐体路徴候,錐体外路症状,小脳症状などです。対象疾患としては筋萎縮性側索硬化症,Parkinson病,脊髄小脳変性症などで,多くの患者さんを診ることができました。ただ,そういう疾患と文化との関連は,ほとんど注目もされていなかったですね。神経学の中で文化を論じた論文もそうたくさんはなかったと思います。ですから,先生がそういう意識をもたれていたことに,たいへん驚嘆するのですが,何か理由があったのですか。
岩田 一番大きな理由は,たぶん私の師匠である豊倉康夫先生が,そういう目でものを見ていらしたということでしょうね。私が今でも忘れられないのは,新潟で椿 忠雄先生が主宰された「脳のシンポジウム」のときに,豊倉先生が発言されまして,脳の研究にはまだこれからの部分が多いとしながら,「そのうちに,科学者だけでなく,すべての人が,脳を中心にして考えるだろう。今は脳科学者が脳を考えているけれども,文学をやる人も,音楽,社会学,経済学をやる人たちも,皆,脳を中心にして考えることになるだろう,なぜならば,そういったことはみんな脳がやっていることなのだから」,そうおっしゃったのです。そのときに,私は「ああ,そうだ!」と思ったのです。それが非常にシンボリックなイベントだったわけですが,豊倉先生と毎日いっしょにいて聞いていたので,豊倉先生の頭の中にあったものが,そのまま僕の頭に刷り込まれたんでしょうね。自然な流れで,そういうふうに考えただけです。
河村 脳という臓器に対する豊倉先生のもう1つの見識として,コミュニケーションのことがありますね。脳と脳とは会話するけれども,腎臓や心臓同士は会話しないということをおっしゃっていたともうかがいましたが,それはどういうことなのですか。
岩田 僕の記憶に残っているのは,「脳というのは異なった個体の中の,臓器同士でコミュニケーションできる唯一の臓器である」と最終講義のときにおっしゃったことです。コミュニケーションは,豊倉先生にとっての1つのキーワードで,コミュニケーションとはどういうものなのかを常に考えていらしたのだと思います。
 何かの本で,「文化とは何か。文化とはコミュニケーションである」と書いてあるのを見たことがありますが,僕もそういう感覚をもっていたのです。要するに,1つの生命体が個として生きている限り,文化というものはないですよね。そこに他人が存在することで,それが見えていなくても,その見えていない個体とコミュニケーションすることになって,それで何かを創る。それが文化です。そのコミュニケーションというのは,人間がもっている能力として,ものすごく大事なもので,それはこの大きな脳がやっているのでしょうし,生まれたときにはまだ決まっていないような仕事をするようになる,その素地をつくってくれている。その素地までは遺伝子なのでしょうけれども,そこから先は育ちなのだろうと,そのときに思ったのです。
 人の遺伝子というのはそれほど変わらないはずなのに,文字を使うようになったのは,人類の進化史からいったら10%もない,本当に短い時間です。しかし,その短期間にすごいことをやってしまったわけです。それこそ,人間がそれで滅びるかもしれないような文化を創ってしまった。
 それはいったい何だろう。生物というのは,遺伝子で決まっている部分があるのは確かだけれども,中には「こういうことができますよ」という,能力の遺伝子というものがあるのではないかと,漠然と思ったのです。その能力には積み重ねがなければ,実際に「できますよ」ということにならない。能力があることと,実現できることはたぶん別ですから。そうすると,その能力を世代間で伝えていくことで,実現に向けて少しずつ積み重ねていくことになる,それが文化である。能力は遺伝子によって規定されるかもしれないけれども,文化を創っていくときには,能力の遺伝子が予測しなかったような方向にいってしまうということがあるわけです。
 実際に世の中を見回してみると,インカ帝国のように高度な文化があっても文字がなかったということがあるわけです。たぶん,それはインカの人たちに文字を生み出す能力がなかったわけではなくて,偶然そういう機会に恵まれずに,文字なしで暮せてしまったということでしょう。それも1つの文化の形だろうと思うし,そうやって変化していく人間の能力というものは,やはり脳が規定しているわけですから,それが面白いなと思ったのです。
 われわれは皆,能力をもっているけれども,ある外的な条件がそろわないと,その能力は出ずに終わってしまうということもあるのだと思います。それは,われわれの日常の知識としても,「恵まれない人」とか,「運のよかった人」という形で言っているわけですが,それはたぶん,遺伝子でも同じじゃないのか。ものすごい才能をもっているのに,たまたまそれが花開かずに終わってしまうということは,いくらでもあるのではないかと漠然と思っていたのです。そういったことに,文字というのがぴったりあったという感じがしたのです。(2007年7月吉日 医学書院本社にて)

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序論
第1章 漢字仮名問題の歴史的展開
第2章 日本語の読み書きと漢字仮名問題
第3章 語義失語
第4章 読み書きの半球差
第5章 記号としての文字形態
第6章 読字の神経機構
第7章 触覚読み
第8章 書字障害の種類
第9章 書字動作の神経科学-書字運動の計算理論モデルからみた失書症
第10章 Primary progressive aphasiaにおける書字障害
第11章 書字の神経機構
第12章 日本語書字の機能画像解析

あとがきにかえて
索引

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脳と文字の神秘に触れる
書評者: 下條 信輔 (カリフォルニア工科大教授・認知神経科学)
 この本の帯には「時空を超えたヒトと文字の神秘」とある。惹句にしてもいかにも大げさな,と評者は最初思ったが,本書の中身に触れた今は「まったく同感」としか思わない。ヒトの脳と,文字という文化の間には,実にそれだけの豊かな内容が広がっているのである。

 この本は,文字にかかわる神経心理学と神経科学の知見を,各テーマごとにトップの専門家を擁して編んだアンソロジーである。初学者にとって最適な入門書であるとともに,専門家や隣接分野の研究者にとっても最新のデータをいち早く参照できるハンドブックとして有用である。神経文字学という新しい分野を打ち出す上で,教科書としての決定版をめざした節もある。

 中身の構成も,ある程度そうした使用法を意識している。まず編者お二人のイントロを兼ねた短い対論に続いて,序論で神経文字学の起源と背景の広がり(進化,文化,情報などの観点)を示す。そして第一章「漢字仮名問題の歴史的展開」,第二章「日本語の読み書きと漢字仮名問題」と続く。まずこのあたりまでが,大ざっぱにみて概論に当たる部分だろう。

 以下が各論である。語義失語,読み書きの半球差,読字,触覚読み,書字障害の分類,その計算モデルと神経機構といった順序で,各テーマの最先端の研究者が背景と最新知見をわかりやすく整理している。

 公平にみて,この本には類書にない大きな美点がいくつもある。第一は,既に触れたことだが,文字をめぐる神経科学的問題を一つの学として統合的に考察しようという高い企図である。その多,えに必要にして十分な視点と書き手とが集められている。

 第二に,文字という対象の性質上,その進化的,文化的,学史的背景が十分に意識され,それに紙幅が割かれている。例えば「漢字仮名問題」の学史的展開の記述から,国際学界における日本固有の研究の独自な価値を再認識させられる。

 第三に,門外漢から見てこの分野のテクニカルタームは把握が難しいことも多いが,そうした概念の盛衰や用語の使い分けといった点にも配慮が行き届いている。例えば「二重神経回路説」をめぐる記述などは,編者自身がかかわっていることもあって精彩に富んでいる。

 第四に,文字というテーマの性質上期待される,幅広い神経機能に言及している。例えば,感覚間統合や感覚運動協応,運動の計算理論,学習と可塑性などは,評者の専門である心理物理学や認知神経科学の観点から見ても,大いに参考になる。今後さらなる交流が期待される。

 最後に補足すると,この本は初学者へのサービス精神にも満ちている。例えば文学は好きだが神経科学はまだ素人という読者が,たまたまこの本を手に取ったとしよう。彼(女)はまず,扉で引用されている谷川俊太郎の印象深い詩に目を奪われるかもしれない。それから自然に巻頭,巻末の対論を読み,「文字学こぼれ話」という囲み記事に引き込まれていくだろう。「そういう読み方もありです」とこの本の構成自体が語っているように思える。

 一読して,編者であるお二人の碩学の高い志と意欲を感じ,また最先端の研究を肌で感じることができる。分野を超えて,広く若き学徒に薦めたい一冊である。
読み書きの限りない面白さを取り上げた世界初の名著誕生
書評者: 田代 邦雄 (北海道医療大学心理科学部教授)
◆神経文字学(Neurogrammatology)とはなにか?

 その斬新な用語にまず驚かされる。有名書店で本書が目立つ場所に積み上げられているのをいち早く見つけ直ちに手に取ってみたが,その書評の御依頼を受け感激である。また,この用語は,編者の岩田誠先生の造語であることも知り,まさに言語の神経科学者によるすばらしい発想と言えるであろう。

 2006年の第47回日本神経学会総会(岩田誠会長)シンポジウムで,今回の編者である岩田誠・河村満両先生が司会をされた「神経文字学」を聴衆の1人として拝聴した者として,その際のシンポジストの他に新たな著者も加え一冊の本にされたことに対し,両先生ならびに関係各位に敬意を表する次第である。

 本書を開くと,通常の「はじめに」,「おわりに」にあたる部分が,「本書発刊によせて――神経文字学への想い」,「あとがきにかえて」となり,しかも両先生の対談による本書への想いが熱く語られていることもユニークである。

 現在の日本人は形態素文字である漢字,表音文字と呼ばれる仮名文字を持ち,通常,縦書きでは「書く方向;上→下,改行;右→左」,それが,横書きでは「書く方向;左→右,改行;上→下」となる。額入りの漢字文字で経験するが,右→左方向への書字をみることがあっても漢字では読むことに問題はない。しかし,欧米のアルファベット文字,特に筆記体では上→下へ書くことはなく,また右→左方向への筆記体はアラビア語やヘブライ語の子音アルファベット以外では“鏡像書字”でみられるだけであり,また鏡に写した場合は漢字では理解できるが,アルファベット文字,特に筆記体で読むことは不可能である。これら書字の方向についても「文字学こぼれ話・書字の方向(1)」に紹介されており更なる興味をそそることになる。

 第1章「漢字仮名問題の歴史的展開」に始まり,第12章「日本語書字の機能画像解析」に至まで文字学に関する種々の話題を,編者以外に15名の執筆者が加わり最先端の知見を踏まえて論旨を展開する。また合間合間に「文字学こぼれ話」として,リラックスしながら文字学の面白さをアピールする構成である。

 日本語の欧米の文字にない特徴を生かした研究は,それだけでも新知見を提唱できるだけではなく,脳機能画像などの最先端の解析装置を駆使することで欧米語では計ることのできない発見も期待されるであろう。

 また編者である両先生は,神経学,神経症候学,高次脳機能障害学に特にご造詣の深く,その分野の日本のパイオニアにあたられる恩師であられる豊倉康夫先生,平山惠造先生にそれぞれ師事された方々という見事なペアを組まれていること,さらに各章の担当者として,その項目の日本の一人者を揃えられ,神経文字学のコンセプトを生かした記述が展開されている。その各章の内容に触れることは省略せざるを得ないがすべて力作であり,参考文献を参照しながらさらに学ぶことができる配慮がなされている。
 各章を通読するもよし,むしろ章間を行き来しながら学ぶもよし,また各章ごとに用意された軽妙な「文字学こぼれ話」で頭を冷やすもよしと,神経文字学の世界に引き込まれていく魔法にかけられていく感がある。

 本書こそ,難解ともいえる「神経文字学」を,神経学・脳科学関連の諸先生ばかりでなく,医学生,一般の読者をも引き込む魅力を無限に秘めたすばらしい著書として心から推薦するとともに,両先生の今後ますますのご指導,ご発展を期待し書評の任を務めさせて頂くこととする。

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