芸術的才能と脳の不思議
神経心理学からの考察

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脳が芸術に与える影響とは? この昨今のトピックに、1981年ノーベル生理学・医学賞受賞者D. W. Zaidelが切り込んだ意欲作の翻訳版。誰もが知る世界的に高名な画家、音楽家の損傷した脳を分析し、あふれ出る芸術的創造性・才能の源を、神経科学と脳科学の視点からひもとく。私たちが慣れ親しんだ作品誕生の背景に、実は脳の異常が存在していたという新たな衝撃。
Dahlia W. Zaidel
監訳 河内 十郎
発行 2010年05月判型:A5頁:352
ISBN 978-4-260-01000-9
定価 4,180円 (本体3,800円+税)

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監訳者前書き(河内十郎)/前書き(Dahlia W. Zaidel)

監訳者前書き
 本書は,カリフォルニア大学心理学部と行動神経学部の兼任教授で,脳研究所のメンバーでもあるDahlia W. Zaidelの著 Neuropsychology of Art: Neurological, Cognitive and Evolutionary Perspectives(Psychology Press, 2005)の全訳である.内容は,芸術的な創造性,才能,さらには芸術鑑賞といった,一見科学的研究の対象となりにくい問題に,神経科学と進化学の視点から科学的なアプローチを試みるという意欲的なものである.著者のD.W. Zaidelは,巻末の参考文献からも明らかなように,1981年にDavid H. HubelとTorsten N. Wieselと共にノーベル生理学・医学賞を受賞した,分離脳の研究でよく知られているRoger W. Sperryと1970年代から共同研究を進めており,その関係で左右大脳半球の間の機能分化に強い関心を示しているが,言語機能や視空間機能といった半球間の機能分化研究で通常扱われる問題に加えて,芸術作品を刺激として用いてそれに対する反応の左右大脳半球差を調べるなど,早くから芸術と脳との関係に強い関心を示してきた.さらに,Zaidelは1994年にAcademic Pressから,自らが編者となって神経心理学のテキスト「Neuropsychology」(神経心理学:その歴史と臨床の現状,河内十郎監訳,1998年,産業図書)を刊行しているが,その中には,第3章「脳の進化」(H.J. Jerisonが執筆)と第12章「脳の認知的・情動的機構:美術作品の創作及び知覚に対する影響」(W. Hellerが執筆)という,他の神経心理学のテキストにはみられない章が含まれている.こうした著者のこれまでの神経心理学の範囲を越えた領域に対する強い関心が,ライフワークともいえる本書に集約されたと見ることができる.
 本書には,脳に損傷が生じた世界的によく知られている視覚芸術家と音楽芸術家が紹介されているが,それらの芸術家たちの作品に親しんできた読者にとっては,作品の背景に脳の異常があったことに驚かれることであろう.自閉症の天才画家や天才音楽家など,先天的に脳に障害がある事例も含めて,脳血管障害やさまざまなタイプの認知症,さらには神経梅毒などに苦しむ高名な芸術家たちの実情を知ることも興味深いが,著者はそうした事例を逸話的に記述するのではなく,症例を病因別や損傷半球別に分類整理し,それに近年目覚ましい発展を遂げている機能画像研究の成果やさらには進化の視点も加味して,これまで体系的に議論されたことがほとんどなかった芸術と脳の関係を解明しようと試みている.こうした著者の新しい試みに感銘したことが,浅学を顧みず敢えて本書の翻訳を思い立った理由である.脳に損傷を持つ著名な芸術家の記録が限られており,なかでも正式な神経心理学的検査を受けている症例はきわめて稀で研究対象となり得る医学的報告が少ないこと,健常者を対象とした芸術作品の鑑賞にかかわる機能画像研究もその端緒に入ったばかりであること,脳の進化の傍証としての芸術作品に関する考古学的資料が乏しいこと,などの理由により,原著者の議論の進め方には説得力が必ずしも十分ではない面もあるが,芸術と脳との関係の議論に一つの方向性を示した原著者の努力は高く評価することができる.
 翻訳は正確にかつ読みやすくと努力したつもりだが,監訳者の非力のために十全とは言い難い.読者からのご叱責をお願いする次第である.
 なお,訳書の出版にあたっては,医学書院編集部の中根冬貴氏と大西慎也氏に実務の点で多々お世話になった.心からお礼を申し上げる.

 2010年3月
 河内十郎


前書き
 芸術家の仕事場は,地球上の何処にあろうとまた歴史上のいつの時代であろうと,神経心理学と神経科学の自然の状態での実験室とみることができる.行動や心のモデルを構築するために科学的実験室で理論に基づいて刺激を創り出すのとは異なり,芸術家はしばしば自発的に作品を創造するが,その過程は芸術家の脳のなかの自然な状態を反映している.芸術表現はヒトに固有のものとされており,基本的には言語表現と異なる点はないとみられている.芸術表現も言語表現も多様なコミュニケーション様式を示し,その一つ一つが無限の組み合わせの可能性を持っているからである.同時に,脳に損傷が生じた芸術家を研究することによって得られた神経心理学的知見は,芸術表現と言語表現が必ずしも関連していないことを示している.一部の芸術家では,脳に損傷が生じた後に,言語が重度に障害されているにもかかわらず芸術表現の障害はごく軽度かまったく影響を受けていないことが報告されているからである.このことは,ヒトの脳の進化の初期の段階では,言語と芸術とが密接に関係していなかった可能性を示唆している.この可能性を否定する化石や考古学上の証拠が得られていない現状では,この問題はまだ解決されておらず,また将来も常に解決が困難であろう.進化の観点からみると,芸術は言語より先に出現した可能性が考えられる.それは,芸術が非言語的な形態だからではなく,象徴的かつ抽象的でコミュニケーションの手段としての価値を持っていたからである.あるいはまた,芸術作品の創造と言語とは,互いに並行してゆっくりと進化の過程を歩んできたとみることもできる.芸術と言語という2つのコミュニケーションの様式の出現は,どちらも数百万年もの長い間進化の過程で存在し続けてきた認知的抽象化を支えている生物学的機構と解剖学的構造に依存していると考えられる.
 この本は,神経心理学者,神経科学者,神経内科医,心理学者,人類学者,考古学者,芸術家,さらには大学院生,臨床家,研究者など,ヒトの脳それ自体や脳損傷,芸術と脳の関係などについて研究しているか関心を持っているすべての人のために書かれたものであり,視覚芸術と音楽芸術の両方について議論されている.
 芸術の神髄やその固有の特性を測定する神経心理学的検査は存在していないが,言語やさまざまなタイプの認知機能の神経機構やそれらの局在を調べる検査は多数存在している.私たちは,芸術に関しては,“単語”や“文法”に該当する存在についてほとんど知識を持っていないが,それでもなお私たちは,語彙や統語を意識することなく芸術から意味を引き出すことができる.たとえば視覚芸術においては,語彙は形や形状,角度によって表現されるパターン,遠近画法を示す線,収束,消失点,重なり,明暗の濃淡,錯視的奥行き,慣習的視点,埋め込み,地肌,媒体,色,影,エッジその他多数のものに基づいている.ここで列挙した例は,視覚芸術のアルファベット的な要素の一部にすぎず,またすべてが既存の神経心理学的検査やモデルで説明に使用されているわけでもない.芸術と脳の関係には知的にアピールする問題が多数含まれているが,その解明は神経心理学の研究のなかで最優先の位置を占めているわけではない.その上さらに,芸術的構成物の意味は,全体として芸術作品が創作され,人々に経験されている文化的(そして,生態学的,環境的)文脈の説明のなかに位置づけられるのである.したがって,芸術の神経心理学には学際的なアプローチが必要となる.
 神経心理学の核となる部分は,局所的な脳損傷を持つ患者の研究によって築かれてきた.しかし,脳に損傷が生じた芸術家の神経心理学的報告や神経学的報告は少なく,しかもそのほとんどは厳密に検査されておらず,検査されている場合でも,芸術家以外の患者のために作成された検査が用いられている.また,芸術家の脳損傷についての報告の多くには急性期の情報がなく,発症後数か月の情報すら十分とは言えない状況で,そうした報告も主として観察結果に基づいており,信頼できる検査結果は記載されていない.脳損傷後にも残存した創作技術を,時間と共に発揮できるようになった高名な画家たちの場合は,発症初期の創作活動については報告されることを好まないことも多い.しかし,急性期の創作活動の報告は,たとえ脳の損傷による神経生理学的反応が事態を複雑にしているとしても,神経心理学にとってはきわめて有効で,多くのことを明らかにしてくれる可能性がある.神経心理学者がデータに基づいて行うことができる最良のことは,一般的な知覚や認知に関して既に明らかにされている構成要素を検討することができる現存する神経心理学的原理(芸術家ではない人たちから集められたデータから引き出された)を用いることである.後天的に脳に損傷が生じた高名な芸術家,先天的な脳の異常を持っている芸術家,感覚障害を持っている芸術家などは,脳と芸術との関係の解明を大いに助けてくれる.この本では,こうした事例すべてについて触れられている.
 神経心理学者たちは,研究の対象となっている行動の異常が感覚障害のためではなく,脳の損傷によるものであることを確認するために,末梢性の感覚障害と中枢性の感覚障害とを伝統的に明確に区別してきた.この区別が明確ではない感覚障害は,神経心理学的臨床像を曖昧なものにしてしまう.そのため,芸術家に生じたどのような感覚障害もその性質を明確にすることは,芸術と脳との関係の神経心理学的解明にさらなる情報を与えてくれるのである.特に視覚障害と聴覚障害に関しては,無視することなく十分に検討しておくことが重要である.たとえば,視覚芸術における中枢性コントロールの評価に関しては,眼の働きが健全であるかどうかを,その影響を認める場合も除外する場合も慎重に評価する必要がある.10万年以上前から始まり,さまざまなかたちでの営みと展開を続けてきた芸術活動の性質を探求するにあたって,この本では,芸術の神経基盤の可能性に関する洞察と,芸術の持つ意味のあるパターンの抽出を強調している.芸術を神経心理学的に理解するには学際的なアプローチが必要である.神経心理学,神経学,心理学,芸術史,人類学,考古学,進化論,生物学など広い範囲に及ぶ学問領域が結合して,それぞれの分野の基本的な神髄を議論することによって,読者に基本的な知識を与えることができる.さらに,芸術が創作された時点での社会の偏見や期待を考慮することも,芸術を正しく理解するためにきわめて重要である.ヒトの進化,習慣,気象条件,地形,捕食動物の存在,食物の資源その他すべてが,芸術の創作過程に影響を及ぼしているのである.
 この本では,文芸については,深く検討されていないが,その理由は,文芸家の神経心理学的患者がきわめて少ないからである.文芸家は,左半球に損傷が生じると創作活動ができなくなり,また,右半球に損傷が生じた文芸家の例を筆者は知らない.文芸の創作活動は,視覚芸術や音楽芸術の場合とは異なり,文芸家は左半球の働きに強く(おそらく原理的に)依存している.文芸における右半球の役割は,該当する症例が少ないためにほとんど研究されていない.右半球が関係している言語の成分(たとえば,冗談,ユーモア)については議論が続いているが,健常な脳の場合も損傷された脳の場合も,言語機能が主として左半球に特殊化していることに関しては,広く意見の一致が得られている(失語症と言語の側性化については,第1章の最後の節を参照).その結果現在のところは,脳の損傷が文芸作品の創造自体と創造に導く認知的,創造的思考にどのような影響を及ぼすのかを,意味のあるかたちで追求することは困難なのである.
 この本では,視覚芸術と音楽芸術の両方について検討されているが,視覚芸術のほうがより多く議論されている.芸術家を芸術の創造に駆り立てる要因と,それに対する芸術の観察者の反応は重要な問題である.芸術の神経的基盤(神経要素)の問題は,さまざまな学問と科学の分野を強く惹きつける力を保ってきた.脳に損傷が生じた芸術家たちから得られた神経学的な資料は,たとえそうした事例が少ないとしても,きわめて重要である.なぜなら,脳の損傷は行動を基本的な要素に分解するので,それを調べることによって,芸術家における脳と認知機能との関係を解明することができるからである.しかしながら,芸術の神経心理学の単一の理論を構成する目的で,脳に損傷が生じた後の芸術家の行動を詳しく研究することは,芸術家の行動がきわめて多様性に富んでいるために,非常に難しい問題を含んでいる.
 この本のなかで筆者は,高名な芸術家の創作活動に及ぼす脳の損傷の影響だけではなく,初期の人類の出現,芸術の営みの生物学的出発点と意義などを背景に,視覚芸術と音楽芸術について議論していきたいと考えている.筆者はまた,自閉症の視覚芸術の天才,認知症患者といった特殊な芸術家のグループについても考察していく.さらに,脳における機能の局在,半球機能の特殊化,利き手,眼の健康状態,神経認知的能力と脳,長期記憶に貯蔵された概念,経験,情動,フィルム(映画),色彩,才能,創造性,美しさ,芸術の歴史,その他関連する神経心理学的問題と芸術との関係も検討していく.芸術作品の創作の基底にあるのは,捉えどころがなく定義もままならない才能であるが,この本のなかで提示されている証拠によれば,才能は脳のなかにびまん性に表現されており,そのために神経学的損傷の後でも芸術を表現する技能は保たれるのである.
 神経心理学において,脳と行動を統合する主要な原理は半球機能の特殊化である.これまでの研究結果は,2つの大脳半球が認知機能や思考に関してそれぞれ特徴的な計算スタイルを持っているとする考え方を支持している.左半球は,言語機能に特殊化されていることに加えて,詳細で注意深く,1つずつ積み上げていく分析的で論理的な計算様式を示し,一方右半球の計算様式は,グローバルで全体的なゲシュタルト方式を採用しているとみられている.しかし,右半球は芸術(創作と鑑賞),創造性,音楽に左半球よりも強く特殊化しているとする初期の理論を支持する強力な証拠は得られていない.右半球は創造的で芸術的半球であるとする考え方は,左半球と右半球の機能分化を研究するにあたっての作業仮説として提唱されただけの古い理論にすぎず,その後の研究は,この初期の仮説を支持していない.現在では,機能の特殊化とその結果生じる補完作用を通じて左右両方の大脳半球が,ヒトの知覚や表出の多くの側面をコントロールしており,これには芸術や創造性,情動のさまざまな要素が関与していると考えられている.
 その上さらに,第2章と第5章で述べられているように,脳の損傷は一側性の場合もびまん性の場合も,新しい芸術スタイルを生み出すことはなく,損傷によって生じた運動面と感覚面の問題に対する適応を示している(第2章の導入部「芸術のスタイルの定義」参照).写実的な具象性に欠けるスタイルで抽象的な表象を表現していた芸術家は,脳に損傷が生じた後でも,具象的な表現を行うことはなく,病前に示していたスタイルの特徴が正反対の表現様式に変化することはない.しかし,脳の損傷によって表現技術の変化が起こることはある.芸術的な才能と技能は,左右どちらの半球の損傷でも,また病因がどのようなものであれ,脳に損傷が生じた後も維持されるのである.
 第1章は全体の概説で,芸術の神経心理学を論ずるにあたって必要な主要な問題点が明らかにされ,以後に続く各章で詳しく議論される内容の背景が述べられている.第2章では,一側性の脳血管障害によって脳に損傷が生じた高名な視覚芸術家と,両側性に生じた緩徐進行性神経変性疾患の場合とが述べられている.損傷後の機能代償と神経基盤の再構成が発症後の創作活動の基礎となっているが,こうした問題にも触れられている.第3章では,眼と脳のレベルでの視覚と色彩視の問題が取り上げられ,視覚の感覚レベルの変化と脳の視覚処理過程に影響する損傷が,芸術にどのような効果をもたらすかが議論されている.また,高名な画家における眼の疾患の問題も論じられている.第4章では,自閉症の芸術家と前頭─側頭葉性認知症の患者について述べられている.高度の視覚芸術の技能を持つ自閉症者は,言語と芸術という2つのコミュニケーション様式が脳のなかでは明確に分離されていることを示しており,また彼らの芸術作品のなかで欠けているもの(あるいは重度に障害されているもの)は,脳と芸術との関係の理解を助けてくれている.芸術家ではなかった人物が認知症になってから創作活動を始めた事例については,機能の代償と神経回路の再構成,連続的な損傷の効果の観点から議論されている.第5章と第6章は音楽に関する章で,第5章では,局所性の脳損傷や神経変性疾患が生じた高名な作曲家に焦点が当てられている.視覚芸術家の場合と同様にこうした症例はきわめて稀だが,梅毒が原因で神経学的疾患が生じた高名な作曲家をはじめ,他の何例かが詳しく紹介されている.第6章では,さらに進んで音楽の演奏と失音楽について述べられており,さらに,音楽聴取時の脳の活動部位を検討したfMRIをはじめとした神経画像研究についても触れている.第7章では,芸術家ではない一般人を対象とした長年にわたる研究から得られている知覚と認知に関する神経心理学の概念のなかで,視覚芸術の創作と鑑賞に関係するものが扱われている.絵画の創作と空間知覚における右半球の役割は,芸術の神経心理学の理解にとってきわめて重要である.そのため,西洋の絵画芸術の歴史における錯視的な奥行き描写の展開についても触れられている.第8章では,さまざまな病因による脳損傷患者の描画が紹介され,半側無視と同時失認についても記述されている.第9章では,美と視覚芸術(フィルム芸術も含む)における美の創造,芸術と快楽,芸術と情動について議論され,さらにこうした分野についての現在のところはまだ十分とは言えない脳の活動に関する研究にも触れられている.また,快楽に対する報酬システムの関係についても議論されている.第10章では,第9章で扱った問題をヒトの脳の進化の観点にまで拡張し,芸術活動の出現,考古学的知見,さらに視覚芸術と音楽芸術の生物学,が議論されている.また,伴侶を選択するための動物の求愛行動とヒトの芸術活動の形態と目的との関係についても,動物行動学の観察に基づいて述べられている.第11章では,創造性,才能,特殊な芸術家(自閉症や認知症)の才能に関する重要な神経心理学的問題が検討されている.また章の最後では,高名な芸術家から得られた知見が披露されている.第12章では芸術の神経心理学に関する結論と将来の研究の方向が述べられている.第12章を除く各章の終わりには,それぞれの章の内容をさらに深めるために読むべき参考書のリストが記載されている.
 筆者が神経心理学的実験の刺激として芸術作品を初めて使用して以来,筆者は芸術家の心に深く魅せられ,芸術の神経解剖学的理解に関心を持つようになった(Zaidel, 1990a).理論に基づいて行動を探求するために実験室で使用する検査の作成は,科学的法則と,妥当性,信頼性,再現性を得るための規則に強く制約されている.ベルギーのシュルレアリストの画家René Magritteは,筆者が実験室用に作成した刺激と類似した多数の絵画作品を描いている.そうした作品と実験用の刺激との唯一の相違点は,Magritteの作品のほうがより想像力に富んでおり,現実の視覚的世界の物理的,論理的規則をより大胆に冒していることである.そうした現実の世界との歪みは,当時の筆者の研究と関係していたのである.筆者は,さらなる洞察を得ることを望んで筆者の研究を補い豊かにするために,Magritteの作品を芸術における左右半球の役割を明らかにするその後の実験に使い続けた(Zaidel & Kasher, 1989).こうしたアプローチを科学に適用したことは,芸術家ではないが芸術の愛好者である筆者に喜びを与えてくれ,科学的実験状況のなかにおける芸術についての興味をよび起こしてくれたのである.
 この本のなかの図形のいくつかを用意してくれたHana Jungと,執筆を全般的に助けてくれたChristina Kyle,色彩視について議論してくれた筆者の実験室のStanley ScheinとJim Thomas,原稿の改良について多くの助言を与えてくれたRoss Levine,内容について議論し,コメントと助言を与えてくれたAndrea Kosta,そして原稿全般について貴重な意見を授けてくれたChris Code,筆者はこれら諸氏に対して心から感謝の意を表するものである.

 Dahlia W. Zaidel

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第1章 芸術の神経心理学へのアプローチ
 はじめに
 芸術の定義と目的
 芸術のさまざまな構成要素と脳に損傷が生じた高名な芸術家
 視覚芸術と知覚と神経心理学
 色と芸術と神経心理学
 音楽と脳
 芸術と創造性と脳
 人類の芸術の始まり
 芸術における美と脳の進化
 言語機能の側性化と言語の障害(失語症)
 芸術,言語と半球機能の特殊化
 芸術の神経心理学の手がかりとしての才能と感覚障害
 要約
第2章 著名な画家における脳損傷の効果
 はじめに
 左半球損傷後の創作活動
 右半球損傷後の絵画製作
 緩徐進行性脳疾患
 要約
第3章 芸術家と鑑賞者の眼と脳 視覚と色覚の変化
 はじめに
 色の情報は脳のどこで処理されるのか:脳損傷の効果
 視覚芸術家における健康な眼の役割
 視覚障害を呈した高名な画家たち
 要約
第4章 特殊な視覚芸術家 自閉症と緩徐脳萎縮が芸術製作と創造性に及ぼす影響
 はじめに
 非典型的な芸術家
 ゆっくりした脳の変化
 要約
第5章 音楽芸術と脳損傷I 成功した作曲家たち
 はじめに
 作曲家と緩徐進行性脳疾患
 作曲家と脳血管障害による局所的な脳損傷
 脳の梅毒が作曲に及ぼす影響
 要約
第6章 音楽芸術と脳損傷II 音楽の演奏と聴取
 はじめに
 音楽芸術と言語
 失音楽と音楽芸術
 脳における音楽の局在
 メロディーと音楽訓練の役割
 訓練を受けた音楽家における一側性脳損傷の効果
 歌うことの神経心理学
 音楽家の手の脳内表現
 fMRI研究とPET研究における音楽による脳の活性化
 要約
第7章 画家と鑑賞者 視覚芸術における知覚と認知の構成要素
 はじめに
 芸術,知覚の恒常性,そして標準的な視点
 大脳半球のカテゴリー化と絵の遠近法的視点
 一側性脳損傷と描かれた物品の認知
 絵に埋め込まれた成分を見つけ出す働きと左半球
 図-地と視覚芸術における視覚探索
 芸術作品におけるグローバル-ローカル,全体と細部
 芸術作品の知覚に及ぼす無意識の影響
 右半球の機能特殊化,空間表象と芸術の歴史
 絵画における奥行き知覚
 絵画の歴史における収束と線遠近法
 要約
第8章 絵を描くことと見ることの神経心理学的考察
 はじめに
 芸術家の利き手
 描画と頭頂葉
 脳に損傷がある患者の描画
 半側空間無視と注意
 状況画:同時失認
 状況,眼球運動,そして前頭眼野
 要約
第9章 美,喜び,そして情動 芸術作品に対する反応
 はじめに
 美と美学
 神経心理学と美術に対する情動反応
 要約
第10章 ヒトの脳の進化,生物学と初期の芸術の出現
 はじめに
 生物学と芸術の表示
 視覚芸術
 ヒトの脳の進化における音楽の起源
 芸術と言語の象徴的性質
 要約
第11章 美術の神経心理学のさらなる考察
 はじめに
 才能と創造性
 視覚芸術の複雑さ
 要約
第12章 結論と芸術の神経心理学の将来

 用語解説
 参考文献
 著者索引
 事項索引

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