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「治る」ってどういうことですか?
看護学生と臨床医が一緒に考える医療の難問

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代替医療、人工知能(A.I.)の医療への導入、出生前診断、病院での働き方、そもそも「治る」ってどういうこと?……etc., etc. 答えの出ない難問が山積みの医療界。それなら、とことん考えてみようじゃないか。酸いも甘いも知り尽くしたがんの治療医と、まだ現場を知らない看護学生との対話を通して見えてきたものとは? 看護への絶対的な信頼からはじまる現代医療論。
國頭 英夫
発行 2020年10月判型:A5頁:224
ISBN 978-4-260-04321-2
定価 2,200円 (本体2,000円+税)
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はじめに

 私は二〇一四年から都内の看護大学でゼミの講師を頼まれてやっております。このゼミでは、学内外の講師が各々十〜十五人くらいの学生さんを相手に講義したり演習したり、また発表させたり討論させたりするもので、テーマは担当講師が勝手に設定してよいのだそうです。私は「コミュニケーション論」をやらせてもらいました。私は進行した固形癌の化学療法などを専門としておりますので、予後不良の患者さんとお話しすることが多く、「コミュニケーション論」もそうした、死期が迫っている患者さんを相手にした場面を念頭において、ということにしました。
 ゼミの対象は一年生で、実習も未経験、つまりは臨床の現場を全く知らない、ド素人のガキどもです(笑)。ついこの間まで高校生だった子たちに向かって、癌の告知はおろか、治療法がないことを伝えるだの、終末時に心肺蘇生をするのしないのといった、エグい話を平気で始める私も相当なものでありますが、案に相違して学生たちは怯むことなく「食いついて」きました。
 彼女たちと私の議論は、末期患者のケアにとどまらず、医療者は何を考え何をすべきか(もしくはすべきでないか)、死ぬとはどういうことか、死後の世界もしくは神はいるのか、また社会はどう変わっていくべきか、人々の意識はどうあるべきか、等々に及びました。私はカントやパスカル、ヴォルテール、歎異抄などを持ち出してちょっと学生たちを眩惑したりもしました。ほとんどの子はそういう名前は知らなかったようですが、話の内容をとらえて討論するのに支障はないようでした。彼女たちのうち何人かは、身内の病気などの経験を通して医療者に対する不信を抱いているものもいました。しかしそれもまた、議論を通じて、理解できることは理解し、それでも理解できないことはこれから医療者になる自分自身の課題としてくれました。
 このゼミ一期生十三人は私の想像を超えて優秀で熱心であり、彼女たちの発表やレポートはプロの医療者にも大いに示唆に富むものでありました。ちょうどその頃、できたばかりの医学書院の雑誌「Cancer Board Square」に何か書いてくれという依頼がありましたので、私はこのゼミの内容を連載させてもらうことにしました。そしてそれは、加筆修正をして、二〇一六年に講義録『死にゆく患者ひとと、どう話すか』(医学書院)として出版されております。
 この一期生十三人が例外だったのではなく、その後のゼミでも、学生はみな優秀で熱心でした。ある日、日経新聞記者が四期生のゼミを見学に来ました。もともとはそういうゼミをやっている講師つまり私の取材が目的だったようです。その日、ある学生が「検査不安の患者への対応」というテーマについてプレゼンしました。その子は、患者は何が不安でそれに対してどうアプローチすればよいか、一つ一つ細かくかつ適切に、まるで患者の心の襞に入り込むように考察していました。私も聞きながら「キルケゴールのようだな」と思いましたが、日経の記者はビックリ仰天し、急遽、記事の内容を、学生のプレゼンメインに変更していました。
 ところで私が看護学生の熱意を「意外」と感じたのには理由があります。私は医学部でも講義をすることがありますが、医学生の態度にはいつも失望しています。というよりも、絶望しています。途中から寝るのなら、まだ「私の話がつまらなかったのか」と反省もしますが、最初から机に突っ伏している輩にはお手上げです。だったら最初から大学に来ずに、家で勝手に寝てればいいのに。また講義の途中に、断るでもなく平気で席を立って出て行く学生もいます。不真面目とかなんとかいう話ではなく、社会性もしくは人間性そのものが崩壊しております。そして「質問は?」と尋ねると、「何が試験に出るか」しか訊いてきません。興味といえば、試験のことしか頭の中にないようです。忙しい中、どうしてこんな連中の相手をしなければいけないのか。これは私だけの偏見ではなく、医学部に非常勤講師で講義に行った経験のある知人は一様に同じ指摘をしております。大学教授たちがそういうことを言わないのは、たぶんもう感覚が麻痺してしまっているのでしょう。それに比べて、看護学生たちはなぜこんなに熱心なのでしょう。そのモチベーションはどこから来るのでしょう。
 試しに、医学生に向かって「死んでいく末期患者とのコミュニケーション」なんて話をしても、まず絶対に乗ってきません。なぜならそんなことには正解がなく、だから試験には出ないからです。また、そういう知識や技術は、自分には不要だと考えているからです。私は眼科や皮膚科や美容外科を志望する学生のことを言っているのではありません。内科や外科でさえ、最近は「ターミナルケア」はそれ専門の緩和ケア科に丸投げで、「積極的治療」が終了すれば自分たちの役割はもう終わった、と考えている医師が多数を占めます。癌の治療をする急性期病院は一種の修理工場みたいになっていて、「患者が死ぬこと」は想定していないかのようです。少なくともそれは自分たちの仕事ではなくてアウトソーシングの対象であるとみなしています。「Cancer Board Square」に寄稿していたある有名な先生は、自分の受持の患者が夜間休日に亡くなる時に、絶対に病院に出て看取ったりはしませんでした。そんなのは無意味なことだと断言していました。私はその見解に同意はしませんが、それを批判するつもりも、またそんな資格もありません。そちらの方が能率的であるのは明らかであり、それが現代医療であると言われればそれまでだからです。
 それなのに、私のゼミにやってくる学生たちは、まだ私が一言も発しないうちから、人間は必ず死ぬもので、患者が死ぬその時にその場所にいるのが自分の(医療者の)役割であると、理解していました。これは私にとって驚愕のことでした。ただ、私が以前に勤めていた病院で同僚だったあるナースは、現在別の新設看護大学の助教をしていますが、学生を褒め讃える私に向かって、こう言い放ちました。「先生、そんなの大学によるわよ。うちの学生なんて、バカばっかりよ(笑)」。
 さあそれが本当なのかどうか。考えているところへ医学書院がまた「Cancer Board Square」誌に何か書いてくれと頼んできましたので、これを良い機会に、また看護学生と議論してみようと思い立ちました。残念ながら相手はその新設大学の学生さんではありませんが(笑)、ゼミの内容とは別に、いろいろ話してみようかという企画です。
 本書で取り上げるのは、現代の医療をめぐるさまざまなテーマでありますが、その多くは未解決の難問についてです。当初私は、そういう諸問題について学生に予習をさせ、その上で質問に答える、いわば少人数講義のようなことをするつもりでしたが、学生たちは、若くて柔軟でぶっ飛んだ発想の持ち主で、私ごときが小賢しくまとめあげた「結論」などには納得しませんでした。彼ら彼女らが、大人たちが勝手に設定した「現状」や「限界」を遙かに超越した次元で展開する真摯で感性豊かな考察は、そうした問題の解決のために、きっと何らかのヒントを与えてくれるものと思います。
 本書をお読みになるあなたは、必ずや、ここに出てくる「チカ」と「レイ」、そして「ジュン」(出番は少ないですけれど)に惚れてしまうでしょう。私がそうであるように。

 令和二年八月
 日赤医療センター化学療法科 國頭英夫

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はじめに

1 わたしたちが考えるケアと希望と時々失望
 代替医療と九五%の大丈夫
  がんは他の病気とはやっぱり違うと思います
  代替医療は取り締まれないんですか?
  「ただし、現実的な期待をもつ限りにおいて」なら?
 二〇三〇年のA.I.ナース
  ドクターに頼らずに活躍できる看護師になりたいです
  看護は人間の仕事なので残ります!
  看護とA.I.の相性は悪くないです
  ACPについて考えてみよう
  アドバンス・ケア・プランニングの大切さはわかるけど
    「何もしない」ことを文字通りにしないための存在
 希望と誠実を天秤にかけると
  常に正直に、常に希望を。でもそんなことは無理。
  「本物の希望」が出てきた時代
  人間は死ぬってことを一度は考えましょうよ

2 わたしたちの働くところ
 燃え尽き症候群バーンアウトになる仕事
  バーンアウトの定義から考える
  バーンアウトにならないためには?
  どうしようもない怒りへの対処法を教えよう
 患者の隣にいる家族
  「家族ケア」の勉強はまだこれからです
  死に目に会うこと
 理想の病院はどこにある
  最初は急性期病院に就職希望です
  ナースの仕事って何でしょう?
  「理想の病院」の決め手

3 言葉とドラマ
 言葉の使いかた
  専門用語のTPO
  言葉へのセンスも必要です
  「治る」とはどういうことか?
  「寄り添う」って書いておけば突っ込まれない
 令和版『白い巨塔』を見る
  主人公財前の設定/膵神経内分泌腫瘍/大学医学部の教授とは
  バッドニュースの伝え方/オーダーされなかった検査/裁判の理由
  残された遺族がしたかったこと/裁判の争点/内科医と外科医

4 これまでを振り返って
 私たちはいつから人間で、いつまで人間か
  やるか、やらないか出生前診断
  臓器提供の線引き
  やるべきか、やらざる道か
  自分の「終わり」を自分で決められるか
 わたしたちの勉強法とこれから
  これまでどんな勉強をしてきた?
  他の医療系の学生と話す機会はほとんどありません
  働き始めたらどう勉強する?

おわりに

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垣間見た覚悟に胸をつかれる
書評者: 反町 理 (ジャーナリスト,フジテレビ報道局解説委員長)
 看護学生と医師のやりとりをなぜ本にするのか? そうした基本を理解しないまま読み進めて行った。

 國頭英夫さんと看護大学生のやりとりを読んでいると,医療に従事する皆さんとの距離が急速に縮まってくるように感じた。多くの一般の人は医療への感想は医師による診察から得ていると思うが,その現場に必ずいる看護師の皆さんがどういった思いでいるのかがひしひしと伝わってくるからだ。というか,医療現場の裏側をチラッとのぞけたような感覚を,いま,覚えている。

 看護学生の新人医師や医学生に対する見方は辛辣だ。「できもしないくせに」「医師免許を持っているだけで」と言わんばかりの厳しい見方は胸に刺さる。テレビの報道も含めて,仕事の現場ではこうした葛藤,不満はありがちだが,命に関わる現場でのこうした対峙は聞くだけでハラハラする。その上でそれらを飲み込むのは看護師の役割であることを知り,感嘆する。

 また,「患者に対しては常に正直にありながら,常に希望を与えよう」という,医療従事者が,特に重篤な患者の治療においては直面し続けているであろう二律背反に関するやりとりは,自分がそうした状況になった場合を想定しながら真剣に読んだ。それは,医療側が患者の心をくじくまいとして精一杯配慮しながら,事実を伝えようともがくさまであり,医療という領域を超えた「業」の世界のように見える。そして同時に,自分が患者ならばどうして欲しいと思うだろうか,という問いかけも浮上する。しかし,答えは「わからない」のである。そのときの自分の社会環境,心理状況などもあるだろう。同じ条件であっても数分ごとに考えが変わることも十分あり得る。いや,全てを達観して受け入れることができるわけはないのだから,変わるのが当然だ。そんな患者を前にして刻々と変わる体調,心理状況を把握する看護師のプロフェッショナリズムはいかにして出来上がっていくものなのだろうか。

 看護学生と医師のやりとり,問答を本にすることの狙いが私なりに見えてきた。高齢化が進み,皆が自分の命や死と真剣に丁寧に向き合わねばならない時代に,國頭さんは,われわれ一般人も医療従事者が持っている感覚,覚悟を持つべきと問いかけたいのではないだろうか。タイトルは『「治る」ってどういうことですか?』という本ではあるが,本著の中では死を捉えたやりとりが何回も出てくる。さらに國頭さんはあとがきでは自らの死の場面の予想図で締めくくっている。これは矛盾か? そうではないだろう。われわれが命を預ける「プロ」の意識がどのように形成されているのか,それをわれわれはどう受け止めるべきなのかを問いかけているのだ。読み終えて,まさに「後を引く」読後感に包まれている。
医療問題へのフレッシュな刺激
書評者: 久坂部 羊 (医師・作家)
 本書は,看護大学でゼミを受け持つ臨床医の著者が,医療現場の難問について,看護学生と語り合った記録である。

 一般にベテランの医師は経験が豊富なので,多くのことに結論を出している。一方,看護学生は素人よりは知識はあるが,現場の経験がないので,患者と医療者の中間に位置している。このフレッシュな感性が,ときにベテラン医師を感心させ,翻弄する。

 例えば,がんと生活習慣病の違い。がんは肝臓病や心臓病などと違い,「全身の病気」なので,局所がOKでも患者は安心できず,誰に起こるかわからない不安があると指摘する。だから「たぶん大丈夫」と思うときでも,伝え方に工夫が必要でしょう,と。――彼女らにかかると,「生活習慣病」という呼び名さえ,「自己責任と責められているよう」と批判される。

 今,流行のACP(アドバンス・ケア・プランニング)についても,イザというときの意思を優先するなら,事前に決める意味はどれくらいあるのかとか,そんな差し迫ったときに,事前に考えた一般論的な死生観が役に立つのかという疑問は,こちらもあらためて考えさせられる。さらには,どうせやるなら六〇歳になったら全員,自分の「死」について考えることを義務化すればどうかという大胆な提案までなされる。

 新治療に対するメディアの過大な報道が,実際の患者の失望を深めているという批判や,患者の死に目にそばにいたいと思うのは,家族の自己満足ではないかという指摘などは,私も大いにうなずかされた。

 著者からの情報も,当然ながら興味深い。例えば,がんの代替医療は,日本ではほとんどが詐欺扱いだが,欧米ではむやみに期待せず,補助的に使うのなら可という考えもあるという。

 患者に事実を正直に伝えることと,どんな状況でも患者が希望を失わないようにするという医療者の使命は,実は二律背反であるという指摘は,遺憾ながら事実だろう。また,安易に用いられがちな「寄り添う」とか「患者に向き合う」みたいな言葉は,本気でやろうとすればとんでもないことになりかねないので,その道の専門家は軽々しく使わないという話も,納得させられる。

 本書はタイトルからして意表を突いている。病気が治っていなくても,十年,二十年,元気でいられる場合もあれば,治っても寝たきりになる場合もある。一般の人は「治る」ことにこだわるが,必ずしもそれがゴールではない。そのことをうまく伝えられれば,医療にも新たな地平が開けるのではないか。

 本書はベテランの医師や看護師に,初心に返るきっかけを与えてくれ,現場にさまざまな矛盾と疑問を感じている人にも,共感を呼ぶだろう。お薦めの一冊である。

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