看護師が「書く」こと

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看護師として言葉を磨き、社会に発信してきた著者による、看護と著述をめぐる思索の旅。「看護師が、人間のちょっと抜けた行動を笑い合うとき、そこには他人に多くを求めない寛容さを感じます。この感覚をもち合わせた人間の著述が、多く世に出れば、寛容さが育つのではないかと期待します。」(本文より)

宮子 あずさ
発行 2020年03月判型:四六頁:224
ISBN 978-4-260-04153-9
定価 1,980円 (本体1,800円+税)

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まえがき

 この本は、『看護教育』の2015年1月号から2016年の12月号まで、2年間にわたって連載した「エキサイティングWriting」の構成を変え、大幅な加筆修正を行ったものです。
 この連載は、珍しく私から積極的に企画を出したもので、当時いちばん私がやりたい「書くことそのものについて書く」仕事でした。
 実はこの書き出しからすでに本論なのですが、この書き手の積極性というのも、書くことにおいてはくせ者なのです。なぜなら、書き手が書きたいものを、読み手が読みたいとは限らないからです。
 たとえば、今私が書きたいことのひとつが、モノの収納に関する話です。でも、私にそんな本を書いてほしい人がいるかといえば、まずいない。それに比べれば精神科訪問看護の話のほうが、どう考えても求められるわけです。
 ですから、このときも恐る恐るの提案ではあったのですが、運よく実現にこぎつけました。以後、ハンサムな男性編集者との共同作業が始まり、ひとつの転換期が来たと感じました。
 ただ、好事魔多しともいいます。まさにやりたいことだけに、いつも以上に読み手を意識してかからねば。連載にあたっては、かなり気を遣いました。なぜなら気分よく書いているそのときこそ、要注意。思わず筆が滑って、思いがけず傷つけたくない人を傷つけたりするのですよね。
 ではなぜ私は今、「書くこと」について書こうと思ったのか。その理由は、私が両親を亡くしたことにあります。父が亡くなったのは2000年、母は2012年でした。
 両親は2人とも書く人で、父は脚本家を目指して夢が叶わずテレビ局に就職。母は女優を目指して夢が叶わず、映画会社を経て、亡くなるまで著述をなりわいとしたのです。
 私は今、母と同様、著述も業としていて、その仕事への取り組みのほとんどすべては、母の働き方が手本になっています。特段の指南はなく、まさに門前の小僧。結果として母は、私という後進を残して、この世を去ったわけです。
 で、私の場合はといえば、背中を見せる子どもはなし。後継とはいわないまでも、私が書き手として何かを引き継ぎたいと思えば、自ら広く発信するしかありません。
 そう思い立つと、その意欲がマックスの内に、書きたいと思いました。自分が今「書くこと」について考えていることを、文章化する。さまざまな「書くこと」に直面している同業者に、それが何らかのヒントになれば幸いです。本書では「書くこと」=著述、と考えています。
 単行本化にあたり、連載に引き続いてお世話になった、番匠遼介さんと行き届いた校正をしてくださった歌川敦子さん、近江友香さんに深く感謝いたします。歌川さん、近江さんの適切な問いかけのおかげで、連載時よりさらに整理された文章に仕上げることができました。

 2020年春 宮子 あずさ

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まえがき

第1章 書くこと抜きに看護はできない
 1節 著述との長いつきあい
 2節 現役看護師として書く、楽しみとしがらみ
 3節 現役の看護師だから書けること
 4節 私はどのように読んできたか
 5節 “対義結合”――書くことはジャンプすること

第2章 看護を書く言葉
 1節 私の言葉磨き
 2節 言葉を選んで著述する
 3節 私は、患者を責めない疾病観で書く
 4節 臨床の「わかった!」を記述する
 5節 人間観は臨床で進化する
 6節 感情を書く言葉

第3章 著述の段取りと小技・大技
 1節 著述の段取り①――テーマを決めて書き出し、書き上げるまで
 2節 著述の段取り②――書き上がったら、寝かせて、さらに練る
 3節 無駄に感じの悪い批判をしないための書き方
 4節 主題に応じた著述、オチと言い訳
 5節 書きながら自分のバイアスを知る

第4章 さまざまな著述
 1節 「本音のコラム」の鍛錬
 2節 インタビュー、そして人を描く著述
 3節 著述としての研修資料
 4節 著述としての学術論文の可能性
 5節 書かずに死にたい「闘病記」

第5章 著述の可能性
 1節 時代の変化のなかで書く
 2節 書く看護師を育てたい

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看護師が臨床を書けば、世の中はよくなる(雑誌『看護教育』より)
書評者: 林 千冬 (神戸市看護大学看護学部)
 「書くことが苦手です」という人は多い。看護師にとって「書く」といえば、まず、事例や研修のレポートなどが想起されるだろうか。確かにあまり「得意」とはいえそうにない書き物だ。けれども、IT化が進む昨今、SNSしかりブログ類しかり、書いて発信する機会─「著述」の機会は恐ろしいほど拡大している。

 著者は、こんな時代が来る前からの、元祖「看護の書き手」ともいうべき人である。ピカピカの新人時代からベテラン訪問看護師に至る現在まで、一貫して自分の経験を対象化し、観て、考えて、表現し続けている稀有な書き手である。しかも、その著述の種類は、コラムやエッセイから研究論文まで実に幅広い。

 そんな著者の手による本書は、シンプルなタイトルながら内容は盛りだくさんである。第1章では「書くこと抜きに看護はできない」という著者の、著述そのものへの思いと覚悟が語られる。続く第2章は「看護を書く言葉」の選び方、磨き方が述べられつつ、結果的には筆者の「看護論」として読むことができる。

 第3章「著述の段取りと小技・大技」では見出しどおり、書き始めから前に進める段取り、そして推敲・練り直しといったプロセスについての、著者の技が惜しげもなく披露される。出色は「無駄に感じの悪い批判をしないための書き方」「主題に応じた著述、オチと言い訳」「書きながら自分のバイアスを知る」という3つの節だ。どんな著述においても大事なことなのに、誰も表立っては触れない・触れたがらないこの秘技(?)を、真正面から論じている点は痛快だ。

 ところで、現在、著者の名を世に広く知らしめているのは、東京新聞に連載中の「本音のコラム」である。毎日の連載の週1回分を、作家やジャーナリスト、研究者等と並び立ち、すでに担当は10年だという。多様な社会問題を看護師の視点でとらえる内容はもとより、末尾の「看護師」という肩書がちょっと誇らしい気持ちにしてくれる。第4章では、新聞連載執筆をめぐる舞台裏が語られるが、中身はいたってまっとう。看護師ならではのコラムとは、「現場の感覚を伝えること」に尽きるのだという。

 なお、「書くこと」といえば「看護研究」が思い浮かび暗い気持ちになる向きには、第4章4節「著述としての学術論文の可能性」がイチオシだ。「せっかく看護研究をやるなら、学術論文を読む機会にしてほしい」。大いに賛成。

 書くこと・著述とは、表現し、伝えること。つまるところ本書は、看護師への「著述のススメ」である。看護師が表現することで、社会に「日常に発見がある」ことが伝わり、「寛容であろうよ」というメッセージが伝わるのだという。看護師が「臨床を書けば世の中よくなる……かも!」といいつつ、きっとかなり期待していますよね、宮子さん。私もです。

(『看護教育』2020年8月号掲載)
看護師が書くと世の中がよくなるとは?(雑誌『看護教育』より)
書評者: 西村 ユミ (東京都立大学 健康福祉学部看護学科 教授)
 私には、本を後ろから読む癖がある。だから、最後の節の「臨床を書けば世の中よくなる……かも!」が最初に目に入った。なに!?「風が吹けば桶屋が儲かる」のようではないか。宮子さんは30余年間、看護師として働き、かつ著述を業としてきた。だからであろう、第1章の「書く」こと(=風が吹くこと)には、幾重にも意味が折り重なっている。

 宮子さんにとっての著述は、「依頼を受けて仕事として書く」こと。そのスタートは小学生の頃である。だから、発表した文章は「読み手のもの」という“覚悟”がある。書いた文章に潜む悪意を点検し、自身の感情に“責任”を負う。“覚悟”“責任”の先に続くのは、“選択”。書かないという選択、それは文章に反映される。これらの言葉からおわかりのとおり、著者にとって書くことは「生きること」そのものである。この「生きる」には、もちろん、看護師として働くことがあり、そこで多様なエピソードに出会ってきた。夫の臨終の場で妻が即座に通夜の寿司の段取りをする、「すごいな~」(感嘆)。失便によるシーツ交換後、背中の御守りがなくなり、まるめたシーツを解いて探す。あるある。看護師として経験したこれらをどう「書く」かが、本書では示される。

 他方で、多くの書き手の著作を読むなかで、著者は「知だけじゃだめだ、肉体なんだ」と思い、看護の道に誘われた。看護が著述を産むだけでなく、著述が看護へと促したのだ。宮子さんのなかで、看護と著述が絡まっているのは、そのためなのか。

 では、看護師はどのように書けばよいのか。第2、3、4章では、書く言葉として、禁句や「私」「ワタシ」「わたしたち」などの言葉の選び方だけでなく、宮子さんの疾病観や人間観と著述がいかに絡んでいるかが紹介される。書き出しから推敲、オチまでの段取り、小技、大技もある。具体的に書き方を紹介している箇所に、「トマトを通して根源的選択を書く」がある。私はこの節に、宮子さんの、文章を書くことの大事な点が凝縮されていると思う。ここでは、お店で「触ったトマトは買ってくれ」という宮子さんの訴えが、サルトルの「世界のなかにおける身構えの選択」と重ねられている。宮子さんの考えが、サルトルの言葉を経て明確になった。ここにも絡まりがある。

 「神は細部に宿る」。著者は、日常の些末な出来事こそが以下のような確信を深めてくれるという。著述とは、些末な場面から多くをくみ取り、磨くことだ。それによって生まれるのは、「実は大した存在ではない人への温かい見方」「寛大さ」なのである。宮子さんの文章には、クスっと笑わされることが多い。看護師が書くことの意味はここにある。臨床を書く→寛大さが表現される→世の中がよくなる。著者は書く看護師を育てたいという。それは「継承」であり、世界をよくしたいという願望を含んだ試みなのだ。

(『看護教育』2020年6月号掲載)

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