医学書院の70年
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1952年師走のある寒い夕暮れ,一人の外国人が医学書院を訪れた。対応したのは専務の金原元。名刺には,Otto Schäfer, Oscar Rothacher とあった。オスカー・ロータッケルといえば,ドイツの有名な医書専門店である。初対面の元に,彼は力を込めて握手しながら意外にも,流暢な日本語で話しかけてきた。「アナタガ,カネハラサンノムスコサンデスカ?」あとは日本語と英語とドイツ語を織り交ぜながら語り,敗戦によって一時は火の消えたようになったドイツの医学界も,また,それに伴って医書の出版界も,最近ではすっかり復興して昔日の隆盛を取り戻しつつあることを繰り返し述べた。 シェーファー氏はKanehara Verlag を探し歩いたという。Kanehara Verlag は1881(明治14)年,元の祖父寅作が初めてドイツ医書を輸入し,以来国内最大にして最も信用あるドイツ医書の専門輸入商であった。氏が敗戦の混乱期を経て再び日本を訪ねたのは,Kanehara に会って,また昔のようにドイツ医書の輸入に骨を折ってもらいたいと望んだからであった。 そのころ,社は創業以来の試練を迎えていた。前年の1951年夏,分離創立した医歯薬出版株式会社に発行雑誌20誌のうち6誌を移譲。なかには最大の部数を誇る雑誌が含まれていた。この移譲による経営上の危機を乗り切るための積極策の一つとして,元自身,洋書の取り扱いを思い立ったのはちょうど半年ほど前の6月のことであった。日本国内でも戦後のインフレが収まりつつあり,また編集会議の折には戦後の世界医学の進展が語られるなど先生方が海外に目を向け始め,時やよしと判断したのである。ところが,あいにく洋書の左ページ:Otto Schäfer氏Opposite page: Mr. Otto Schäfer in the guest room of Igaku-Shoin.上:Otto Schäfer氏と当時専務であった金原元。創業社屋2階の販売部事務室にてAbove: Mr. Otto Schäfer and Hajime Kanehara, Executive Director.047

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