医学書院の70年
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上:合併御挨拶のポスターAbove: The announcement reporting the merger of the two companies and establishing a new company named “Igaku-Shoin Ltd”.左ページ:医学書院宣伝カーOpposite page: Igaku-Shoin’s traveling exhibition van. 桃李不言下自成蹊(桃李もの云わざるも下おのずから蹊をなす)。桃李は何も言わないが,甘味であるから大勢の人々が行くので樹下に自然に小道ができるという。金原一郎はこの言葉を“最も好きな文句”としながらも,出版社の経営に当たっては public relations (PR)を重視した。確かによい本はあえて宣伝をしなくても自然に売れる。しかし,いくらよい本でもまず通報によってその存在を知らせなければ売れることはない。利害はともかく,出版社が必要者に必需書をアナウンスし,PRに全力を尽くすことは著者や読者に対する礼儀であり責任である,と考えていた。 その一郎が社を創業してまもなく,熱心に取り組んだのは“社名”のPRであった。 日本医学雑誌株式会社と株式会社学術書院が合併登記したのは1950年12月1日だが,これは翌1951年4月1日から東京で開催される第13回日本医学会総会に備えてのことであった。一郎はこの学会で「医学書院」という新社名のPRに主眼を置き,具体的にはいかにして参会者に社まで足を運んでもらうかを考えた。そこで思いついたのが,出張手配の代行サービスである。当時はまだ旅行が不自由で,汽車の切符も思うようには入手できない状況であった。学会事務局にお伺いを立てたところ「大いに結構,こちらでは計画していないからぜひお願いしたい」とのこと。日本交通公社と協力して,本社1階を交通公社臨時出張所に提供することにした。この企画は大成功で早朝から千客万来の人だかりとなった。 また,社では学会期間中サービスセンターを開設し,手荷物の一時預かり,湯茶の接待,伝言引受のほかワイシャツのスピード洗濯まで行った。何事も不自由な時代であったからそれだけ感謝され,おかげで医学書院の名は改称半年でほとんどの医学者に知れ渡る結果となった。 総会が好評のうちに終了した日,一郎は全社員を集めて慰労と謝辞を述べPR Activities to whichIchiro Kanehara and Hajime KaneharaDevoted their Energy The Announcement of the New Company Nameat the Time of the 13th General Assembly ofthe Japan Medical Congress041

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