医学書院の70年
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創業者,金原一郎の父,金原寅作は18歳で浜松から上京後,一代で医書出版業を営むまで財を築いた。さらには銀行業にも手を拡げ,本店ばかりでなく支店まで設けるなど大発展を計画したが,わずか数年で破綻を招き閉鎖,大失敗に終わった。まさに得意の絶頂で禍根を生じ,その心労がもとで明治41年,病を得て亡くなった。時に一郎は14歳,多額の負債を抱え出版業を引き継いだのは未亡人のとうであった。 1894(明治27)年,6人兄弟の第3子として東京本郷に生まれた一郎は,父の死後,母の手一つで育てられた。生家,金原医籍店は明治初年からドイツ医学書直輸入をもって知られていた。東京帝国大学文学部社会学科在学中に第一次世界大戦が勃発すると,取引先であったドイツの各出版社から直輸入することが困難になり,急遽オランダからシベリア経由で輸入することになった。一郎はその間の往復文書でドイツ語の翻訳などを手伝ううち,1919(大正8)年大学を卒業するとそのまま家業に転向,金原商店(当時)に入社した。 金原寅作は家憲として医学雑誌の発行を固く禁止していた。しかし1933(昭和8)年,一郎は父の遺言に背いて『臨牀の日本』という月刊医学雑誌を創刊する。これがすこぶる好評であった。さらに『週刊医学展望』や『月刊診療と経験』など次々と雑誌を創刊し,いずれも好評を得た(すべて世界大戦で中断)。 寅作は,専門書籍はたとえ失敗してもそれだけで済むが雑誌は売れないからといって簡単に中断するわけにいかない,として雑誌の出版を戒めたのであった。一方で一郎は,専門分化の著しい医学の進歩に追従するには医学雑誌の発行は絶対に必要不可欠であり,専門雑誌を持たない出版社はコンパスの左ページ:管理職会議─正面左より元,一郎,長谷川泉,細井鐐三,椿孝雄(1960年ごろ/創業社屋会議室)Opposite page: A meeting of direc-tors and managers at the meeting room in the original company build-ing (around 1960).上:軍服姿の一郎─大学卒業の翌年,かねて猶予していた兵役に一年志願兵として入営,陸軍歩兵少尉に任官した。写真はそれより後と思われるが撮影時期は不明。Above: Ichiro in military uniform. Ichiro Kanehara’s Appointmentas the First Managing Director ofNihon Igaku Zasshi Ltd.011

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