医学書院の70年
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して出向した。 書店中心の日本の流通と異なり,ISNYでは直販中心の営業活動が主体を占めた。社の存在や出版物は従来と比べ格段に速く周知されるというプラス面があったが,米国市場は日本での想像以上に内容,価格に厳しく,市場のニーズに日本とは質的な違いがあることも顕在化した。また,日本発のタイトルの発行遅れが品不足を招き,事業計画の達成を困難にし,ISNY経営にとって大きな問題となることもあった。 1981年ごろから,現地採用のマネージャーJohn Gardnerのもと,企画・編集・制作も行い,ISNY独自の出版を始めた。1983年以降はRohen/Yokochi:Color Atlas of Anatomyなどの企画で多国籍出版への道が見えはじめ,米国人著者間での認知度も高まった。また,世界の医書出版社に伍していくには“日本からの英文出版”の枠を超えて,国際的視野で市場ニーズに合った出版物を継続して発行することが必要との判断から,本社・国際編集部が1984年6月1日に廃止され,企画の軸足をISNYに移した。 1985年ごろからは急速に円高が進み,東京での制作はコスト面からますます困難となった。1984年から1986年はISNYの出版点数が少なくなり,出版活動が低迷した。原因はISNYに自主企画を推進するための編集者が不足していたことにあった。 数々の難局を乗り切り,1990年ごろには出版点数,新規企画点数も盛り左:設立許可の後,ISNYの看板を持って立つJohn GardnerLeft: John Gardner, then Market ing Manager, holding the signboard of ISNY.右:第8回国際細胞学会のISNY展示スタンドに立つ金原優(1983年6月20日/モントリオール)─隣は当時のISNYのMarketing ManagerであったJohn Gardner.Right: Yu Kanehara standing at the booth of ISNY at the time of the 8th International Congress of Cytology (Queen Elizabeth Hotel, Quebec, Montreal/June 20, 1983).101

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