医学界新聞

図書館情報学の窓から

連載 佐藤 翔

2019.08.05



図書館情報学の窓から

「図書館情報学」というあまり聞き慣れない学問。実は,情報流通の観点から医学の発展に寄与したり,医学が直面する問題の解決に取り組んだりしています。医学情報の流通や研究評価などの最新のトピックを,図書館情報学の窓からのぞいてみましょう。

[第3回]medRχivの挑戦 医学分野対象のプレプリントサーバーの登場

佐藤 翔(同志社大学免許資格課程センター准教授)


前回よりつづく

 2019年6月5日,医学分野(medical and health sciences)を対象とするプレプリントサーバー「medRχiv」(https://www.medrxiv.org/)の設立が発表されました。設立者は米イエール大の研究者らと,生命科学分野のプレプリントサーバー bioRχivを運営する米コールド・スプリング・ハーバー研究所(以下,CSHL),そしてBMJ誌の発行元として著名なBMJ社です。臨床医学を対象とするプレプリントサーバーを,しかも5大医学雑誌版元の一つ・BMJ社がバックについて立ち上げたということで,図書館情報学者としては感じ入るところの大きいニュース……なのですが,この衝撃,医学にかかわる皆さんにはちゃんと届いているでしょうか?

 medRχivのトップページのキャプチャー画面(クリックで拡大)
トップページには設立者のロゴマークの他,サーチエンジンの下に「査読を経ていないプレプリントである」と注意書きがある。

 そもそもプレプリントサーバーが何かご存じでしょうか。理論物理学等の分野では,査読完了後,論文が雑誌に掲載される前から,自身の論文のコピーを他の研究者に郵送し,最新の情報をいち早く共有する「プレプリント」文化がありました。1991年に,プレプリントをインターネット上で共有する試みが現れます。それが「プレプリントサーバー」です。米ロスアラモス国立研究所のP. Ginspargが開設した最初のプレプリントサーバー arΧivは多くの人に歓迎され,理論物理学のみならず,物理学分野全般,あるいは情報工学や数学など異分野の論文も多く投稿されるようになります。

 arΧivの成功は多数のフォロワーを生み,多くの分野で独自のプレプリントサーバーや,分野ではなく所属機関を単位とする「機関リポジトリ」が作られました。しかし厳しい反対にあい,プレプリントサーバーを構築できなかったのが,医学分野です。

 医学,あるいは生命科学を含んだプレプリントサーバー構築の試みはかつて存在しました。提案者はノーベル生理学・医学賞受賞者であり,NIH所長でもあったH. Varmusで,NIHの管理の下,arΧivの生命科学版を作る「E-Biomed」の提案が,1999年になされています。資金も権威も十分で,多くの研究者から支持を得たものの,学会や学術雑誌編集者からの反対にあい,頓挫しました。

 実はさらにさかのぼれば1960年代にも,紙のプレプリント共有プロジェクトが頓挫したことがありました。この時も,E-Biomedも,頓挫の決め手は「査読・編集されない情報が流通すること」への忌避感と言われています1)。1967~77年にNEJM誌編集長であったF. Ingelfingerは,雑誌での公表前に論文内容を発表してはならないという「インゲルフィンガー・ルール」と後に呼ばれる編集方針を示しています。重複発表を防ぎ雑誌刊行時に新鮮さを確保するためですが,査読が完了する前の段階で,研究の内容が一般に,歪曲して伝えられることへの危惧も理由の一つです2)。Ingelfingerが想定したのはニュースメディアでの事前公開ですが,査読前に一般に情報が公開される点ではインターネットでの公開も同様です。内容を理解できる人が限られる理論物理学とは異なり,健康や生命に直接的にかかわり多くの人が興味を持つ,それだけに問題ある情報の影響が大きい医学分野では,この忌避感はもっともなことです。結局E-Biomedはプレプリントではなく,査読・出版済みの論文のみを公開するPubMed Central(PMC)へと形を変え,プレプリントサーバー構築はかないませんでした。

 E-Biomedでのプレプリント公開頓挫から10年以上を経た2013年,生命科学対象のプレプリントサーバー bioRχivが公開されます。

 E-Biomedが頓挫したとはいえ,医学・生命科学者の間でも,プレプリント公開に興味を持つ人はいました。その受け皿として,2003年にarΧivは定量生物学分野のプレプリント投稿を受け付け始めます。同分野には毎年数百本の論文が投稿・公開され続け,2011年頃から増加ペースが伸び,需要が確認されました。懸念されていた査読前情報を公開する弊害について大きなものは見られなかったことから,今度こそarΧivの生命科学版を作ろうという動きが現れたわけです3)

 arΧivで生命科学関連分野のプレプリント公開がある程度の成功をすでに収めたこともあってか,複数の出版社がbioRχivに好意的に対応します。米国遺伝学会や米国生態学会などは当初からプレプリント公開を認める投稿規程に変更し,その他の学会・出版社でも認められていきました。プレプリント公開に対する出版社の方針はウェブ上(https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_academic_journals_by_preprint_policyなど)でまとめられており,Elsevier社やWiley社はじめ大手出版社も,現在ではほとんどがプレプリント公開を認めています。

 設立後1年間でbioRχivは824本のプレプリントを集め,その後も順調に投稿数を伸ばし,2017年8月には月間で1200本以上が投稿されるまでになっています。それでもPubMedに収録される論文数から見れば1.3%程度だとも言われます4)が,生命科学においてもプレプリントサーバは一定の成功を収めつつあると言えるでしょう。

 しかしbioRχiv成功後もなお,プレプリント公開が難航したのが臨床医学領域でした。bioRχivは当初から,対象は生命科学(life sciences)であり,医学(medicine)の論文は受け付けない,としていました。臨床医学領域はarΧivでも投稿対象外です。また,出版社等の多くはプレプリント公開を認めていると先に書きましたが,NEJM誌や米国医師会系列の雑誌(JAMA Network)は今もプレプリント公開を推奨していません。臨床医学領域においては基礎医学系(生命科学)以上に,査読前の情報公開に慎重であり続けてきたわけです。

 とはいえ,臨床医学領域でも国際学会では完全な査読前の情報を発表することもあるのに,なぜプレプリント公開はためらうのか,との意見もあります。そこで臨床医学のプレプリントサーバーの提案が,2017年に米イエール大の医学研究者からなされた……のですが,当初段階では賛否さまざまな反応が寄せられます5)。それもあってか,米イエール大独自に同年中の公開を予定しましたが,先行者のbioRχiv運営元・CSHLや,一部出版社と協議・協力し,慎重に計画を進めることになります。その中でプレプリント公開に好意的であったBMJ社も共同設立者として参加することになり,そうして約2年をかけて,今回のmedRχiv公開へと至ったわけです。

 査読前情報公開を危惧する根強い声に,medRχivは複数の形で応えようとしています。まず,サイト内の至る所,そして個別のプレプリントにも「これは査読を経ていないプレプリントである」と明示されます。また,著者は自身のプレプリントに,臨床試験登録や利益相反情報等を必ず含まなければいけません。さらに,プレプリントは公開前に,査読とまではいわなくとも,他の研究者・医学編集者による一定の選別を受けることになります6)

 2019年6月25日からプレプリント公開を開始したmedRχivですが,6月中に公開されたプレプリントは31本,7月はこの記事を書いている7月5日時点ですでに16本に上ります。bioRχivの初年度公開プレプリント数が824本ですから,今のペースが維持されれば初期段階としては上々と言えそうです。ただ,設立者であるBMJ社はプレプリント公開済み論文に好意的でしょうが,NEJMやJAMAの姿勢は前述の通りです。プレプリント公開された論文に実際に主要医学雑誌がどう対応するかは,今後注目される点です。

 それ以上に注視されるのは,長く懸念されてきた,「査読前の情報公開」が,実社会に何らかの悪影響を及ぼすかでしょう。公開数が少ない段階では,慎重なチェックが行われるはずと思いますが,今後公開数が増えても大丈夫なのかは気になるところです。臨床医学でもプレプリントサーバーを問題なく運用することは可能なのか,その挑戦は,今まさに始まったばかりなのです。

つづく

参考文献・URL
1)倉田敬子.第6章 オープンアクセスとは何か.学術情報流通とオープンアクセス.勁草書房;2007.145-85.
2)山崎茂明.論文投稿のインフォマティクス.中外医学社;2003.167.
3)Nature. 2013 [PMID:24226869]
4)Science. 2017 [PMID:28963238]
5)Enserink M. Plan for new medical preprint server receives a mixed response. Science. 2017.
6)Kaiser J. Medical preprint server debuts. Science.2019.

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