医学界新聞

寄稿

2018.01.15



【寄稿】

終末期の意思決定をめぐり考えること

井藤 佳恵(都立松沢病院精神科)


「死が身近にない多死社会」

 内閣府が公表しているデータ1)によると,日本の高齢化率は2016年に27.3%となり,2060年には38.1%に達すると推計されている。前期高齢者は2016年にピークを迎え,2028年まで減少傾向となる。その後再度増加傾向に転じた後,2041年を境に再び減少に転じると推計されている。一方,後期高齢者は増加を続け,2017年に前期高齢者を上回り,その後も増加傾向が続く。高齢人口の増大により死亡数は増加し,死亡率(人口1000人当たりの死亡数)は上昇を続け,2065年には17.7になると推計されている。

 一方で,死を迎える場所についてみてみると,厚労省が公表しているデータによれば,かつては9割だった在宅死は,1977年に施設内死が施設外での死を上回り,2016年には13.0%になった。現在,病院等の施設内死が85.0%である(内訳:病院73.9%,診療所2.2%,介護老人保健施設3.2%,老人ホーム8.1%)2)。ほとんどの人が医療を受けて死ぬというこのような状況は,老化と死のプロセスが医療の専門家によって管理される事柄になっていることを示唆する。今,われわれが生きているのは,「死が身近にない多死社会」3)である。

終末期は誰のものなのか

 最期は家でと希望していたが,がん性疼痛に耐えかねて入院してきた高齢の男性がいた。本人は入院当初から,あらゆる方法での苦痛の緩和と気持ちのよい眠りを望み,そのために目が覚めている時間が少なくなっても構わないと,一貫して明確な言葉で話していた。しかし家族は,彼ががんの終末期であることを理解はしていたが,話し合いを重ねても「でも,もう一度元気になると信じています」と話し,本人が希望する麻薬による疼痛コントロールと向精神薬による軽い鎮静に反対し,“今の状態”が続くことを強く希望された。「何言ってんだよ,父さん」と。

 きっと,人の心とはそういうもので,大切な人が死ぬことを納得できないという思いは,人が抱く自然な感情なのだと思う。誰もが,人はいずれ終末期と呼ばれる時期を迎えることも,終末期とは死にゆく時間であることも,一般的な事項として知っている。ときには非常によく勉強されていて知識がある。だが,終末期に関する知識があっても,それが今だと実感することは難しい,そういう場面をたびたび経験する。

 それぞれに受け止めかねること,決めかねることがあり,何か正しい答えがあるわけではない。本人が今,明確に意思を表示しているときでさえ,周囲の者がそれを受け取ることが難しいこともある。本人の意思が明確でない場合はなおさら,本来,本人のものであるはずの終末期の医療方針は,周囲の者によって決められていくことになる。互いに高齢になった夫婦の間で,一度はこういったことが話題になり,「苦しいことや痛いことは嫌だ」「病気が見つかっても,何もせず家で最期を迎えたい」というようなやりとりがなされていることはそれなりにあるように感じる。一方,子の世代との間でこの種の会話がなされていることは,夫婦間に比べると少ない。自身が迎える終末期の医療について,明確な事前指示がなされていることは決して多くない。日常臨床のなかでリビングウィルや事前指示書を提示されることはまだまだ少ない。2013年に厚労省が行った調査で定義された事前指示書には,必ず記載される内容としてリビングウィルと代理人指名の2つがある。

●リビングウィル:

医療上の選択を自分ですることができないときのために,自分が望む,あるいは望まない医療を示しておくものである。心肺蘇生,人工呼吸器の使用,人工栄養などについての意向等が含まれる。

●代理人指名:

自分が医療上の意思決定ができなくなったときに,その決定をする代理人を指名すること。決定には,医療機関を含めたケア提供者の選択,治療法の選択,入所施設の選択等が含まれる。

 リビングウィルと事前指示書について,以下,米国で最近出版されたテキスト4)から引用する。

 「リビングウィルと事前指示書は重複する部分があり,リビングウィルによって治療法が選択されることがあるし(例えばDNR-Do Not resuscitate-蘇生を実施しない),事前指示書によって治療法が選択される場合もある(適応があれば心肺蘇生を実施する)。こうした状況では,その時に生じたある特定の状況下で,患者自身が自分の希望を明確に表明できたならそう言ったであろうことが事前指示書に記されていると仮定されている。この仮定に立つなら,リビングウィルと明らかに矛盾している場合を除いて,医師や後見人が事前指示書を無効にするということはまず起こり得ない」

人の意思はゆらぐもの

 このテキストから何を考えるだろう。その良し悪しを論じるものではないが,日本における現状として,個人の責任や意思と家族のそれとの線引きは非常に曖昧で,意思決定能力が十分にあるとされる個人でも,あるいは明確な事前指示があったとしても,家族の意向と折り合いがつかないままそれが実現されることは実際には難しいと感じる。家族がおらず,居宅介護事業所や行政機関の関与がある場合,本人の「病気になっても病院にはかかりたくない」「倒れていても救急車は絶対に呼ばないでほしい」という意思が尊重されることは現実にはとても難しい。

 現実にその時を迎えている今も,本人が事前指示を示したときと変わりない気持ちでいるのか,われわれは想像することしかできない。元気だったときの覚悟は変わるし,人は覚悟したことに対して首尾一貫した態度をとるわけでもない。救急搬送時,「苦しい,助けてくれ」と医師の手を握ってうめいた人が,翌日,呼吸が少し楽になったら「死なせてくれ」と言うことがある。人の意思はそれほど強固なものではない。何度装着しても酸素マスクを外すのは,きっとそれが邪魔だったり不快だったりするからなのであって,必ずしも直接的に,治療の拒否という意思表示でもなく,また,早く死にたいというメッセージでもないのだろう。

 人の意思は決してゆるぎないものではない。たとえその意思がゆるぎないものだとしても,現実社会の制約は,必ずしもその意思の実現を可能にはしない。

生きることと生かされることにどう向き合うか

 冒頭でご紹介した方は,本人と家族が同じ方向を向くことができたらと思いながら面談を重ねるうちに時間が過ぎてしまった。亡くなる数日前に彼が,「お前らはいつまで死を否定するんだ!」と怒鳴った言葉の重みを,われわれは真摯に受け止めなければならないと思う。ところが,家族が死を受け入れること,死と向き合うことが最期まで難しかったように感じた関係でかえって,全てが終わったあとは淡々と事が運んでいく印象がある。今,目の前で起こっている事象からどのくらい想像力の,あるいは思考の広がりがあるのかということの違いにすぎないのかもしれない。

 生きること,医療によって生かされること,本人が望む終わり方,家族が望む延命,その何かが正解だったり間違っていたりするということではなく,どのような選択にも悔いるところがあり,人との別れはいつも寂しい。必要なのは,生きることと生かされることは同じことではないということをわれわれが自覚し,そして伝えていくことなのではないかと感じる。

参考文献
1)内閣府.平成29年版高齢社会白書.将来推計人口でみる50年後の日本.2017.
2)厚労省.平成28年人口動態調査 死亡の場所別にみた年次別死亡数.2017.
3)岡村毅.宗教者と医療者の協働の可能性――医療者の立場から.宗教研究.91巻別冊要旨(印刷中).
4)Budson AE,他.小野賢二郎監訳.アルツハイマー病 認知症疾患――臨床医のための実践ガイド.朝倉書店;2017.


いとう・かえ氏
1993年東大文学部フランス語フランス文学科卒。2002年東北大医学部卒後,同大病院精神科入局。10年東京都健康長寿医療センター研究所研究員,15年より現職。専門は老年精神医学。精神保健指定医,日本精神神経学会専門医・指導医,日本老年精神医学会専門医。研究テーマは,高齢者困難事例を中心とした地域保健,精神疾患を持つ人の意思決定支援。

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