医学界新聞

連載

2017.10.16



The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。

【第52回】
“ジェネラルとスペシャル”再々考――フレームワークを壊せるか?

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 われわれはみんな,自らのフレームワークを持っている。世界観と言い換えても良いし,「立場」と呼び換えても良いだろう。

 たいていのジェネラリストは,実はジェネラリストではなく,スペシャリストもたいていは本当のところではスペシャリストではないという指摘をした(第47回第48回)。この話を「フレームワーク」という観点から再考したい。

 家庭医は一般にジェネラリストと呼ばれている。ところで,以前ある家庭医は「家庭医は,家庭医療学のスペシャリストなのだ」という主張をしていた。それはもちろん,よい意味を含意していたのだと思う。そして,それは事実なのだとも思う。

 しかし,他方それは家庭医とか家庭医療学というフレームワークに収まってしまい,そこから一歩も出ないことを意味している。これは危険である。

 この場合,どのような事象に対しても「家庭医の立場としては」という家庭医目線からは一歩も離れられない。家庭医療学のフレームワークを超えることはない。ジェネラルに考えているようで,実は一種の「井の中の蛙」状態になっているのだ。

 例えば,患者のバックグラウンドに配慮して……みたいな言い方をするけれども,そこでも世界の構造はあくまでも家庭医療学的な視点,世界観で構成されている。その世界観から見える「患者のバックグラウンド」にすぎない。

 ぼくは何十年も前から,このような陥穽を回避するための訓練を繰り返してきた。訓練と言ってもそれほど難しいことではない。ある問題について,常にトライアンギュレーションを行ってきた,というだけだ。

 それは,「私が私の立場にいなかったとしても,同じ判断,同じ見解を保てるか」という自己検証,トライアンギュレーションだ。

 例えば,「私が医者じゃなくても同じ意見を保てるか」「私が男でなくても同じ意見を保てるか」「私が大学職員じゃなくても同じ意見を保てるか」「私が日本人じゃなくても」「私が黄色人種じゃなくても」「私がヘテロセクシャルじゃなくても」……。同様のやり方でいくらでも検証は可能である。慣れれば実に容易な話だ。

 容易な話なのだが,このような自己検証,トライアンギュレーションをやっている人を見いだすことは極めてまれである。たいていは「医者の立場から言えば……」「男として……」「大学側から言うと……」と自分のポジショントーク全開である。

 「私が家庭医じゃなくても……」というトライアンギュレーションが行われれば,それは家庭医療学的な目線を離れ,どのような立場にいても同じ見解を見いだすことができる。これこそが解の一般化だ。ちなみに,「私がオバさんになっても」は恋愛感情の一般化を表現した至言である(もう,みんな知らないかな?)。

 「一般化」。すなわちこれこそが真にジェネラルな目線なのである。

 ジェネラルな目線を持つためには自らのフレームワークを認識し,それを超えたり壊したりする練習をせねばならない。手っ取り早い方法はいろんな国に行っていろんな人に会うことである。自分の価値観に親和性の高い国,地域,文化,人だけでなく,自分の思いもよらなかった新しい「知らない世界」を開拓するのだ。これを人は「冒険」と呼ぶ。

 もっと手っ取り早い方法は読書である。漫画も含んでよい。あるいは映画鑑賞でもよい。乱読がよく,自分の知らない世界を開拓できるものがよい。

 本稿を書く前日の午後,ぼくは回診時にケインズの言葉,「I'd rather be vaguely right than precisely wrong」を引用した。感染症屋は得てして重箱の隅突きに躍起になってしまい,グランド・ピクチャーを見失ってしまうからだ。すると,フェロー(後期研修医)たちのほとんどがケインズを知らなかったので驚いた。

 もちろん,教養の多寡は相対的なものだから,経済学者をどこまで知っておくのが「常識」と言えるのかはわからない。ハイエクだったら知らなくてよいのか,森嶋通夫ならどうなのか……。一般化できる境界線はどこにもなさそうだ。

 にしたって,さすがにケインズぐらいは知っといてもらわないと困るとぼくは思う。患者ケアのときに,金銭とか経済という視点はとても重要だ。感染症オタクの知識だけで医療スキームを作るといびつなものになってしまいがちだ。エイズ患者に無思慮に高額な新薬をとっかえひっかえしたりするプラクティスがその一例である。ケインズを原書で読めとは言わないが,専門領域外の教養は極めて重要である。

 ウィメンズ・ヘルスの専門家がときに狭量になるのは,女性のことしか考えなくなっているとき,女性の話しかしなくなっているときだ。地域医療の担い手が地域のことしか考えないときも同様だ。感染症屋が感染症目線だけを持っていると感染症のプロとしては三流に落ちてしまい,彼(女)はただの感染症オタクになってしまう。「バイキンと抗生物質」の話しかできない感染症屋は,危うい。

 ジェネラリストが,真の意味でジェネラルでなくなっているのは「ジェネラリストと呼ばれるスペシャリスト」になっているからだ。もちろん,それは「ジェネシャリ」ではなく,むしろ対極の存在だ。ジェネラリスト目線をあえてぶち壊すような,フレームワークを超えた,ぶっ飛んだ発想や視点を持てるようになったとき,かの人は本当の意味での「ジェネラル」となる。

 フレームワークの外には,もちろん「スペシャリストの視点」も含まれる。だから,本当にジェネラルな人はスペシャリスト目線も併せ持つ。ここに至り,やっとジェネシャリな眼差しが生まれるのである。

つづく

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