医学界新聞

連載

2013.12.23

The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,"ジェネシャリスト"という新概念を提唱する。

【第6回】
なぜ,二元論が問題なのか――その4 男と女

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 その昔,ぼくがサッカー小僧をやっていた1980年代,「日本人にはサッカーは向いていない」というまことしやかな説が流布していた。日本人は身体は小さいし,ボディコンタクトには向いていない。バレーボールとか,卓球とか,そういうのならよいけれど,サッカーは民族的に無理,止めとけ,という説である。

 事実,当時の日本代表はボロボロに弱くて,ワールドカップ出場どころか,イランとかサウジアラビアといった中東勢にすら,そして民族的に近接性が高いモンゴロイドの韓国,北朝鮮,中国といった東アジア勢にまで,ボディコンタクトで勝てず,技術で勝てず,戦術で勝てず,根性だけで立ち向かっては敗れ去る(ときどき,勝つ),という歴史を繰り返していたのである。

 当時はまだサッカーが卓球並み(ごめん)のマイナースポーツだった時代である。ましてや女子サッカーなんてマイナー中のマイナー領域で,島根県あたりになるとプレーする人すらいなかった(と思う)。女なんてサッカーは無理無理,だいたいどうやって胸トラップすんの? と下卑た揶揄をされた時代である(もっとも,同様の揶揄はヨーロッパなどサッカー先進国でも長くなされたそうで,女子サッカーの歴史は日本に限らず,総じて短い)。

 もちろん,現在「日本人にはサッカーは向いていない」なんて本気で思ってる人は,ごく少数派だろう。女子サッカーと男子のそれでは,いろいろ違いはあるけれども,「女なんてサッカーは無理」派はほとんど消滅したはずだ。

 何が言いたいかというと,「なんとかは,無理」という,ある属性を持つ集団全体の否定は,たいてい思い込みに過ぎない,ということだ。

 ちなみに,奴隷制廃止を訴えたとされる「北部」のハーヴァード医学校では黒人や女性を入学させようとしたとき,学生のほうが,「同列に扱われることに同意できない」と反対していた。ハーヴァード医学校が女性の入学を認めたのは1945年である1)。ちなみにちなみに,日本女性初の医師については,その定義によって諸説あるけれども,当時あった医術開業試験に初めて合格したのは荻野吟子で,1884年(明治17年)のことだ。もひとつついでにちなみに申し上げると,アメリカ最初に医師資格を得た女性医師はエリザベス・ブラックウェルという人らしいが,これが1849年のことWikipedia情報。当時,世界で一番頭がよい集団だと思われるハーヴァード医学校の連中にしてから,この程度の見識しか持っていなかった事実がとても示唆的である。ぼくらがある集団に対して判断する「能力」なんて,その程度なのである。むしろ,その集団が持つポテンシャルを通俗的な偏見で押しつぶしてしまっている可能性が,極めて高い。

 これは拙著『真っ赤なニシン――アメリカ医療からのデタッチメント』(克誠堂出版)でも指摘したことだが,アメリカは男女平等について優れた先進国だ,と勘違いしている人は,アメリカ在住経験のある人ですら(だから?)結構多い。確かに,医者の中で女性医師の占める割合は,OECDの33か国の中で日本は最下位の18.8%。でも,アメリカも31.7%と下から4番目で,五十歩百歩というところだ(2010年時点)2)。欧州では,男女比は半々か女性のほうが多くなっている国は珍しくない。つまり,アメリカは決してロールモデルじゃないのだよ。女性の社会進出について,オピニオンリーダー的存在はアメリカには多いんだけど(例えば,Facebook COOのシェリル・サンドバーグ),そのような力強い発言があるということ「そのもの」が,アメリカにおいて女性がまだまだ虐げられている,という事実の証左なのである。

 さて,行われがちで,回避をお勧めしたいことがある。それは,「男女差の比較」である。男と女は違っている。当たり前だ。だが,それを事細かに比較し,計量して,果たして何の意味があるのか,とぼくは思う。定量的評価がもたらす負の側面について,日本のデシジョンメーカーたちはあまりに無関心であり,無神経でもある。

 男女差があるなんて,当たり前じゃん。そんなの所与のものとして放っとけばいいじゃん,とぼくは思う。要するに,チームの,病院の,そして社会のパフォーマンスが最適化するような形になればよいのであって,そのとき個々の能力の査定なんてのは,二の次,三の次のプライオリティしかないのである。

 ぼくは自分と同じような人たちの集団よりも,自分とは異なる能力,性格,世界観を備えた人たちがいる集団のほうが,横揺れ(アクシデント)に強いと思う。等質な集団だと,ある間違いが「総倒れ」の原因を作りかねないからだ。それに,いろんな人がいたほうが,楽しいしね。そういう梁山泊的な組織をぼくは好む。医者というのは総合的な属性を必要とする仕事だから,ある能力が一点集中的に高くても優れた医者になれるとは限らない。医者のコンピテンシーは複雑に成立しているってことだ。よって,ある属性における男女の能力差はある,という仮説を認めたとしても(ぼくはあると思うけど),それが総合的にはどのように作用するか,については即断できない。

 まあ,医者が男性だけの世界なんて現代ではちょっと考えづらいけれど,かといって医者が女性だけ,ってのもどうかねえ。だから,両方いたほうがいいんじゃないか,と思う。そのほうが,その領域の進歩も早いはずだ。

 違いに対する配慮は,もちろん必要だ。男は案外傷つきやすい生き物だから,地雷踏まないような言葉遣いをしましょうね,みたいな(お願いします)。そのような配慮をしつつ(すなわち,違いに意識的でありながら),そのような違いをあたかも存在しないような,気にしていないような,アクロバティックで成熟した振る舞いが,医療現場をより豊かにするとぼくは思う。違いに配慮しつつ,気にしない。ここでも二元論は否定され,複雑で含みを持たせた振る舞いが要請されるのである。

つづく

参考文献・URL
1)ルイ・メナンド.メタフィジカル・クラブ――米国100年の精神史.野口良平,他訳.みすず書房,2011.
2)OECD.OECD Health Date 2013.

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