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第2996号 2012年10月1日


在宅医療モノ語り

第31話
語り手:心を込めて押させていただきます 印鑑さん

鶴岡優子
(つるかめ診療所)


前回からつづく

 在宅医療の現場にはいろいろな物語りが交錯している。患者を主人公に,同居家族や親戚,医療・介護スタッフ,近隣住民などが脇役となり,ザイタクは劇場になる。筆者もザイタク劇場の脇役のひとりであるが,往診鞄に特別な関心を持ち全国の医療機関を訪ね歩いている。往診鞄の中を覗き道具を見つめていると,道具(モノ)も何かを語っているようだ。今回の主役は「印鑑」さん。さあ,何と語っているのだろうか?


三文判ではなく認め印で
私は三文判とか認め印と呼ばれます。実印さんや銀行印さんと区別されるのは仕方ないけど,「二束三文」と決めつけなくてもねえ。普段は,ライトのキーホルダーをつけ,小さい朱肉付きのケースに収められています。
 免許取りたてのころはびっくりしたと,ウチの主人も時々回想しています。研修医になったばかりの新社会人にもかかわらず,突然「先生」と呼ばれるようになり,さまざまな場面で署名や押印を求められたそうです。実力もなければ,尊敬されている感じもない。それでも“先生”の責任は重大でした。「診察しました」とカルテにポチ,「処方しました」と処方箋にポチ,「診察をお願いします」と他科依頼書にポチ。手軽な押印ですが,実は案外重い責任がのしかかっていたのです。

 私はある往診鞄に生息する印鑑です。ザイタクで押印が求められる場面というと,一番多いのが処方箋の作成時でしょうか? 大抵の処方箋は電子カルテで処方医の氏名までが印字されており,記名欄にポチと押印します。それらの役割を担うのは,私の仲間のインキ浸透型のゴム印,いわゆるシャチハタ族の皆さんが多いようです。ええ,この往診鞄の中には複数のシャチハタさんがいらっしゃいます。なんせこの鞄の持ち主,忘れ物のプロですからね。患者と在宅医の苗字が一緒なんてことはほとんどなく,訪問したお宅で印鑑をお借りすることはできません。また,道中のコンビ二で買うことも難しいでしょう。その結果,ウチの主人は「複数持ち歩く」という方法に至ったようです。

 ただ私はシャチハタ族と違って,滅多に下界に出ることがありません。先月の出動要請も2回。夜中と昼間,いずれも計画された訪問診療ではなく,家族から呼ばれた往診です。私は死亡診断書の作成のときに使われたのです。

 すみません。シャチハタ族でない私がなぜこの鞄に入っているのか,をお話ししたほうがよさそうですね。きっかけは,がんという病気になったおじいさんの最期でした。2週間に1回医者が通うようになり,在宅医療が始まりました。医療用麻薬の処方箋を作ります。シャチハタさんをポチ。看護師さんに「マメに訪問してください」と指示書を作ります。ポチ。その間,緩和ケアを続け,ご家族も一生懸命にかかわりました。遠くに住んでいる親族もお顔を見せるようになり,お別れが近づいてきました。そして最期の時間。さいごの診察を終え,主治医がさいごの診断書を書きます。ウチの主人は死亡診断書を書きあげると,間違えがあっては困るので,いつもその場で名前の漢字,住所などの確認作業をご家族と一緒に行います。その時です。この家の口数の少ないお嫁さんが申し訳なさそうな声を出しました。「先生,ここのハンコはいいのでしょうか?」。

 本来,医師が自署したのであれば,診断書の最後の欄は捺印の必要はありません。でも診断書には医師名の横に「印」と,ご丁寧にも捺印を促すような印字が入っています。確かに捺印しないと,なんとなく文書としてシマリがないようにも思えます。「本当はハンコがなくても大丈夫なんですけど」と言いながら,その時はシャチハタさんでポチとしました。そんな出来事があってから,私が鞄に入れられるようになりました。主人も,「ポチ」では軽いタッチで悪いような気がしたのでしょう。さいごの診断書の押印は,今では私の仕事。朱肉をたっぷりつけ,丁寧に心を込めて朱色の仕上げを押させていただくのです。

つづく


鶴岡優子氏
1993年順大医学部卒。旭中央病院を経て,95年自治医大地域医療学に入局。96年藤沢町民病院,2001年米国ケース・ウエスタン・リザーブ大家庭医療学を経て,08年よりつるかめ診療所(栃木県下野市)で極めて小さな在宅医療を展開。エコとダイエットの両立をめざし訪問診療には自転車を愛用。自治医大非常勤講師。日本内科学会認定総合内科専門医。

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