医学界新聞

連載

2009.11.02

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第162回

米国肝移植ルールの公正さをめぐって(2)
ミッキー・マントル「呪われた」家族歴

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2851号よりつづく

前回のあらすじ:2009年4月,アップルCEO スティーブ・ジョブズが肝移植を受けた。


 ジョブズが,わずか4か月という比較的短い待機期間で移植を受けたことについて,「有名人だから特別扱いを受けたのではないか?」とする疑義が生じたことは前回説明したとおりであるが,14年前,ヤンキース往年の名打者ミッキー・マントルが肝移植を受けたときにも,そっくり同じ疑いがかけられた。

 しかも,マントルは,米野球界にあって「戦後最大」といっても過言ではないほどのスーパースター。いかに「カリスマ性が高い」とはいっても,ネームバリューに関していえばジョブズが太刀打ちできる相手ではない。「特別扱い疑惑」をめぐる議論は,ジョブズのものとは比較にならないほどかまびすしいものとなったし,実際,マントルの肝移植をめぐって起こった大議論がきっかけとなって,肝移植ルールの見直しが行われたほどなのである。

 というわけで,米国の現行肝移植ルールを読者にご理解いただくために,まず,なぜマントルに肝移植が必要となったのか,その「病歴」から話を始めよう。そして,マントルの「病歴」を語るためには,マントル家の「呪われた」家族歴について触れざるを得ないのである。

スーパースターを育てた鉱夫の父

 マントルを大打者に育て上げた最大の功労者は,父親のマットだった。マットはオクラホマ州コマースの亜鉛鉱山で働く鉱夫だったが,自分の子供たちには鉱夫の貧しくつらい暮らしは送らせないと決めていた。長男マントルに,物心つくと同時に野球の英才教育を施し始めたのも,「貧しさから逃れる早道は野球選手にすること」と信じたからだったし,そもそも,「ミッキー」と名付けたのも,自分が一番尊敬する選手「ミッキー・コクラン」(註1)にあやかったからだった。

 マットは,鉱山の仕事を終えると,毎日,ボールが見えなくなるまで,何時間もマントルの野球練習につきあった。しかも,マットは,初めから,「マントルはスイッチ・ヒッターにする」と決めていた。当時,「右(左)投手に対して左(右)打者をぶつける」という「ツー・プラトン・システム」はまだ普及していなかったが,「将来的には必ず普及するし,出場機会が多くなるメリットを考えればスイッチ・ヒッターのほうが有利」と見越していたからである。そのため,右投げの自分に加えて,左投げのマントルの祖父にも,打撃投手を務めさせたのだった。

 父親の英才教育が実り,マントルは高校卒業と同時にヤンキースに入団。プロ入り3年目の1951年には,19歳の若さでメジャーに昇格した。

 ちなみに,ヤンキースが与えた背番号は「6」。ヤンキース歴代大選手の背番号が,ベーブ・ルース「3」,ルー・ゲーリッグ「4」,ジョー・ディマジオ「5」であったことを考えれば,マントルがこれら大選手の後を引き継ぐ「大器」と期待されていたことは一目瞭然だろう。

ホジキン病の恐怖

 しかし,いかに「大器」といえども,弱冠19歳の青年にとって,初めて味わうメジャーの水は甘くはなかった。スランプに陥り,三振の山を築き始めたマントルは,7月半ばマイナーに落とされた。降格後,マイナーでも23打数1安打と不振を極めたマントルはすっかり自信を喪失,父親に「もう駄目だ。家に帰る」と電話で泣きついた。

 オクラホマから遠路カンザス・シティまで迎えに現れたマットは,「臆病者ではなく一人前の男を育て上げたつもりだった。野球をやめて一生鉱山で働くんだな」と言うなり,荷造りを始めた。スーツケースに次々と荷物を詰め込む父親の姿を目の当たりにして,マントルは「夢をあきらめる」ことの意味を初めて悟ったという。

 「もう一度頑張る」。気を取り直したマントルは,その日,父親の目の前で本塁打2本を打ったのを皮切りに,猛打を振るい始めた。やがてメジャーに復帰したマントル(註2)は,チームの優勝に貢献,ワールドシリーズへの出場が決まると,父親をニューヨークに招待した。

 しかし,ニューヨークに現れた父親は,見る影もなくやせ細っていた。ワールドシリーズ第2戦で膝を負傷,入院する羽目となったマントルは,同じ病室に父親も入院させ,検査を受けさせた。

 はたして,マットはホジキン病と診断された。マントル家では,その時点で,すでに,祖父チャーリー,叔父タニー(享年41歳)もホジキン病の犠牲となっていた。マットは翌52年5月に39歳の若さで絶命するのだが,52年にはマットに先立ってもう一人の叔父エメット(同32歳)もホジキン病で他界した。

 マントル家にたたるホジキン病の家族歴は,かくも濃厚なものだったのだが,それだけでなく,エメットが亡くなったとき,診療にかかわった医師が「次の世代にもホジキン病が続くかどうか見物ですな」と心ない発言をし,マントル家の若者たちをショックに陥れたのだった。

 「自分も40までには死ぬ」とマントルが信じ込むようになったのも無理はなかった。

この項つづく

註1:1925-37年タイガーズでプレーした名捕手。47年殿堂入り。
註2:メジャー復帰の際,プレッシャーを減じるために背番号は「7」に変更された。

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