医学界新聞

連載

2008.02.18



アメリカの医療やアカデミズムの現場を15年ぶりに再訪した筆者が,心のアンテナにひっかかる“ねじれ”や“重なり”から考察をめぐらせていきます。

ロスする

〔第4話〕
冬の受難と楽しみ


宮地尚子=文・写真
一橋大学大学院教授・精神科医
ケンブリッジ・ヘルス・アライアンス客員研究員


前回

 冬である。寒い。とにかく寒い。ボストンもニューヨークも凍えている。先日など,零下11-14度という記録的寒波だった。小さい頃からすぐにしもやけができ,痛みと痒さに悩まされてきた私は,寒いのが苦手である。冬が苦手である。在外研究先にカリフォルニアやニューメキシコやフロリダを選ばなかった自分を心底恨みたくなる。寒いだけではない。日が暮れるのが早い。夕方4時頃から暗くなり始め,5時には真っ暗。それからの夜が長い。朝は7時でもまだ薄暗い。

 雪や氷も難物である。もちろん暖かい家の中からなら,雪で真っ白に覆われた幻想的な風景を見るのはうれしい。特に,色づいていた葉をすべて落とし,郊外の林がはげ山のようになって,家が丸ごとさらけ出される晩秋には,初雪が待ち遠しかった。けれども雪の日に外出したり移動するとなると,命の危険さえ感じることがある。

ボストンに向かう長いバスの旅

 12月の大吹雪の時には,ニューヨークからボストンにバスで行くのに,通常は4時間20分のところが12時間近くかかってしまった。午後から吹雪という天気予報はあったのだけれど,朝早く出たら何とかなると思っていたら,途中から雪がこれでもかこれでもかと降り始め,除雪が間に合わず,ハイウェイはのろのろ運転。路肩には(どころか時には道の真ん中にも)身動きのとれなくなった車が何台もとまっている。携帯電話を握りしめている人が中に見えるのだが,いったいどうなるんだろうと人ごとながら心配になる。

 誰も乗っていない車もある。さっさとあきらめて車を捨て,最寄りの街まで他の車にでも乗せてもらったのだろうか。車を取りに戻るのは大変だが,無理に運転して事故を起こしたり,ガソリンがなくなって車の中で凍死するよりはいいかもしれない。これだけたくさんの車が立往生しているのだから,路線バスでも走らせて,中の人たちをピックアップして,次の日にまた連れてきて車をもっていかせるようにするといいのかもしれない。バスの中での時間があまりに長いので,窓の外を眺めながら,そんなシステムを考えてみたりする。

 かわいそうなのはバスの運転手である。交代はいない。吹雪の中,乗客の命を預かりながらの運転は神経を使うだろう。それを12時間。疲れ果て,途中で「ぼく,もういやだ!」と投げ出したくなってもおかしくない。でも運転手は落ち着いた人だった。乗客もみんな静かだった。こういう状況でもみんなが落ち着いているというのはありがたい。見えない信頼感が生まれ,つかの間の運命共同体ができあがる。

越冬,その重み

 そして,氷。寒波が続くと雪はそのまま氷になる。凍りついた道はつるつるすべる。歩く時は転ばないよう身体の変なところに力が入る。車を運転する時はスリップしないよう,してもパニックにならないよう自分に言い聞かせるが,顔はこわばったままだ。だから氷になる前の除雪作業が大事なのだが,これがまた重労働。東北に住むカウンセラーの友人が,「ここでは家族の葛藤や力動は,雪かきの分担にあらわれるのよ」と言っていたが,その意味がしみじみ実感できる。寒波の後に小春日和が何日か続き,積もっていた雪が溶けると,心から太陽に感謝を捧げたくなる。

 なぜ,ヨーロッパからの移民はこんな寒いところに植民したのだろうと思ったりする。暖房設備の整っていない時代である。たきぎや暖炉はあったかもしれないけど,水は冷たく,家はすきま風だらけだっただろう。故郷も似たような気候だったから,気にならなかったのだろうか。それとも南に行けばもっと暖かい気候だということを知らなかったのだろうか。知っていたけれども,慣れた気候のほうがたとえ凍えようとも安心できたのだろうか。たぶん歴史の本をひもとけば納得のいく理由が書かれているのだろうが,とりあえずはその頃の苦労に思いを馳せる。長い冬を越えること。越冬。その言葉の重みをずっしり受け取る。

アメフトとは鬼ごっこである!?

 どんなに嫌でも,まだまだ冬は続く。それなら嫌がるより楽しんだほうがいい,そう発想を変えてみることにする。

 まずは風景。たまたま『春夏秋冬そして春』という韓国映画をDVDで見た。山奥の湖に浮かぶ寺の,四季折々の自然を舞台にした少年の成長物語だが,とにかく映像が鮮やかで美しい。ただ,春夏秋の山の自然はすでに歴史を通して愛でられ,描き尽くされてきたので,なんとなく既視感がある。けれども冬の景色は,はっとするほど新鮮だ。凍りついた湖の静けさや,その表面に描かれる氷紋,吐く息のきらきらする感じや,透きとおった空,極端に色合いの限られた峡谷……。

 ボストンはもっと都会だが,それでも似たような美に出会うことがある。すっきりと並ぶ裸の街路樹。凛とした石像。インク画のような雪の公園。チャールズ川の凍った白い渦巻き模様の表面と,その下の豊かな水の流れ……。冬には冬の美しさがある。それは厳しさを含んだ美しさである。腐敗や混濁,汚染を拒否する美しさである。そして,見えないところで生命の息吹を保ち育てている美しさである。

 次にスポーツ。冬といえば,なんといってもアメリカン・フットボールである。休みの日の午後はTVでアメフト観戦というのが,アメリカのお父さんたちの正しい過ごし方である。私はアメフトのルールをまったく知らないので,単純に選手の動きを見る。これは球技ではない。ボールは使うが,必然ではない。むしろ格闘技に近いかもしれない。そんなことを思う。そしてたどりついた偉大な(?)結論。アメフトとは鬼ごっこである!!!

 大の男たちが鬼ごっこに夢中になっているのだ。鬼ごっこのためにチームを編成して,あんなにいかついプロテクターを着けて,監督やコーチが作戦を練って指図して(実はアメフトは軍隊のように厳密な作戦が立てられ,個人の自由があまりきかないらしい),大きなスタジアムが用意されて,おそろしい寒さにもかかわらず,サポーターや観客がたくさんやってきて応援する。

 それにアメフトは肉弾戦である。人間の身体の強靱さや敏捷さ,そして脆弱性を観察するには絶好の機会である。でもこれも「押しくらまんじゅうだ!!!」と言ってしまえなくもない。押しくらまんじゅうも,冬ならではの遊びである。夏の炎天下,いかつい男たちが汗べとべとになってやっていたら,見ていられないかもしれない。

「年がいもなく」夢中で遊ぶ

 壮大な鬼ごっこと押しくらまんじゅう。それに多くの人が夢中になる。小さい頃,遊び足りなかったのか? あまりに楽しかったから,やめられないのか? いや,否定的に言っているのではない。自分の中の子どもの部分をいつまでも活性化させておくのは,とても大切なことである。子どもの時の遊びほど,創造的なものはないかもしれない。

 ホイジンガやカイヨワといった哲学者が書いているが,遊びは人間の活動のとても重要な要素を占めている。医学にしろ何にしろ,研究にも遊びの延長のようなところがある。楽しくなければ続かない。若々しいともガキっぽいとも表現しうるが,研究者の中には「大いなる子ども」のような人が,アメリカでも少なくない。そもそも「年がいもなく」することほど,ワクワクすることはない。「大の大人が……」と顰蹙をかうような遊びに,冬だからこそ夢中になってみてもいいかもしれない。

次回へつづく


宮地尚子
1986年京都府立医大卒。専門は文化精神医学・医療人類学。近著に『環状島=トラウマの地政学』(みすず書房),『医療現場におけるDV被害者への対応ハンドブック』(明石書店,編著)。

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