医学界新聞

連載

2008.01.28

研究以前モンダイ

〔その(10)〕
認識論のモンダイ

西條剛央(日本学術振興会研究員)

本連載をまとめ,大幅に追加編集を加えた書籍『研究以前のモンダイ 看護研究で迷わないための超入門講座』が,2009年10月,弊社より刊行されています。ぜひご覧ください。


前回よりつづく

 前回は「出来事には必ず理由がある」という命題(コトバ)は「出来事には必ず意味がある」という命題と同じ根本仮説であるというお話をしました。

 これを踏まえて,今回は認識論のモンダイを取り上げたいと思います。「認識論なんて聞いたこともない」,あるいは「自分にはそんなものは関係ない」と思われている方は多いかもしれません。

 しかし,誰もが研究や看護実践だけではなく,日常生活においても暗黙裡のうちに何らかの認識論を前提としているのです。そしてほとんどの場合,そのことが自覚されることはありません。だからこそ,認識論は「研究以前のモンダイ」としてモンダイとなるのです。

認識論のバリエーション

 認識論とは何でしょうか? さしあたり一言でいえば「根本的な世界認識のあり方」のことです。といってもピンとこないと思いますので,それらのいろいろなバリエーションをみてみましょう。

 まず,世界は主観に左右されない客観的なモノであるという「客観主義」(素朴実在論)。世界のどこかに真理が在るという「真理主義」。世界を進化プロセスとして捉える「進化論的認識論」。世界を物語として捉える「物語論」。現実は社会的に言語により構築されるという「社会的構築主義」。世界には確かなものなど何もなく,したがって何でもアリであるという「相対主義」。世界は曖昧な心と確実なモノに分けられるという「心身二元論」。世界はすべて一つであるという「一元論」その他にも,たくさんの認識論があります。

 かなりざっくりした紹介ですが,いずれも「世界についての根本的な命題」であることはおわかりになるかと思います。実は認識論のモンダイは,「世界認識のあり方」のモンダイであると同時に,認識された結果である「世界像」のモンダイでもあるのです。

なぜ認識論は自覚されにくいのか?

 認識論の厄介なところは,対象化(自覚化)しにくい点にあります。

 たとえば,ふつう「客観的な世界が在る」というのはあまりに当たり前のことであって,「我々と独立した客観的な世界など存在しない」という人にでも出くわさない限り,あらためてそのような世界像(認識論)を持っていると自覚することはないでしょう。多くの経験を通して,それはもはや疑うことも意味がないほどの強い信憑としてその人に取り憑いているのです。

 養老孟司氏は『無思想の発見』(筑摩書房)で,日本人は「無思想という思想」の信奉者であると指摘しています。確かに日本人の多くは,自分は「○○主義」などという思想とは無縁に生きていると信じています。あるいは特定の「○○主義」を奉じる人に対して拒否感を持つ人も多いでしょう。しかし,このことは思想から自由であることを意味しません。むしろ,自覚することなく「思想や主義を持たない」ことをよしとする「無思想」という思想を持ってしまっているのです。

 養老氏の「発見」は,特定の認識論に依拠しているということがいかに盲点になりやすいかを,よく教えてくれています。

認識論がもたらす信念対立のモンダイ

 そのため,認識論の違いを契機とした信念対立は,往々にして深刻なものになりがちです。

 たとえば,「世界は最初から在る」という信念を持っている人と,「世界は言語によって社会的に作られたものである」という信念を持っている人は,根本的な世界像が異なります。また「どこかに真理は実在する」と信じている人と「どこにも真理など存在しない」と信じている人も反対の信念を持っていることがわかります。

 実は科学主義が力を持っているアメリカで,進化論は受け入れられにくいのですが,この話に対して違和感を覚える人も多いかもしれません。しかし,キリスト教圏では聖書にある「あらゆる生物は神が創造の6日間で作ったものである」という進化論的生命観と背反する生命観が強固に浸透しているため,これは半ば必然的なことなのです。

 このように,特定の認識論(世界観)を絶対的なモノとする人同士の信念対立は,決して終わることはありません。互いの根本的な世界像から背反し,かつ互いにそのことに無自覚であるためです。結果,力による信念の押し付け合いや,不毛な争い,最悪の場合には戦争に発展する危険性さえあるのです。

認識論は根本仮説である

 それではこうしたモンダイに対して,どのように考えればよいのでしょうか。まず前回お話ししたことと関連しますが,これらの認識論はすべて「根本仮説」であることを理解する必要があります。すなわち,いずれの認識論も絶対に正しいことを保証することはできないのです。

 ご注意いただきたいのですが,ここでは「絶対に正しい」と確信すること自体を否定しているわけではありません。僕も「自分の外側に世界は在る」と確信していますし,基本的にそれは「正しい」と思っています。

 ところが,そのように「正しい」と確信したとしても,それを最終的に真理として認定(保証)する権利は,僕ら人間にはありません。人間は神様(=万能)ではないので,どれほど「正しい」という確信が強かったとしても,実は間違っている可能性は必ず残るためです。

 つまり,「これは絶対的な真理だ」と確信したとしても,そのことがいつ誰にとっても絶対的な真理であると保証することは原理上不可能なのです。その意味で,どのような認識論(世界像)であっても,根本仮説という点では同等の権利を有していることになります。

 ひとたび作られた認識論(世界像)は,それが僕らに力を与えてくれるものであるほど,「真理」と呼びたくなるほどの強い信憑として取り憑きます。それゆえ,各人によって「正しい認識論(世界像)」が異なっていても不思議ではないのです。

 「キリスト教的生命観は根本仮説かもしれないが,進化論は反証可能な科学的理論ではないか」と反論する人もいらっしゃるでしょう。しかし,現代科学の定義を基礎付けたカール・ポパー自身が,進化論的認識論の立場から科学的知識の歴史的発展過程を描く一方で,ダーウィン進化論を反証可能な理論ではないことを認めています。

 「進化」は,地球の歴史に沿った,やり直しのきかない出来事であり,再現性も反証可能性もない一回起性の現象だからです。だからこそポパーは,ダーウィンの進化論は反証不可能な根本仮説であることを認めたのだと思います。

認識論は魔法のコトバ

 認識論が根本仮説だからといって,役に立たないと言っているわけではありません。前回お話ししたように「出来事には必ず理由がある」とか,「科学的真理は実在する」と信じることによって研究に没頭する力を得ることができます。

 アイザック・ニュートンが残した「私は仮説を作らない」「私の目の前には未知の真理をたたえた海原が横たわっている」といった言葉からは,彼が「科学的真理は実在する」と堅く信じていたことが伺えます。彼が「万有引力の法則」という,後世に多大な影響を残すことになった「発見」(ホントは「発明」ですが)ができたのは,そこに確固たる信念があったからかもしれません。

 「科学的真理は実在する」という命題は,今なお,多くの科学者を科学的探求に旅立たせる「魔法のコトバ」にもなっているのです。

信念対立に陥らないための手続き

 しかし一方で,特に看護学のように臨床との行き来の多い領域での研究においては,自分の依拠している認識論を自覚し,それは根本仮説であることを頭のどこかに入れておくことが,研究以前のモンダイとして重要になります。

 認識論を根本仮説として捉えておくことは,信念対立に陥ることなく世界観を相互に了解する可能性を拓くための「手続き」なのです。

 次回は,研究実践における認識論のモンダイを考えていきたいと思います。

この項つづく


西條剛央氏 関連情報
 mammo.tvに,構造構成主義を体系化するまでの半生を辿りつつ,「しなやかな生き方を可能にするものの見方」について語られたインタビュー記事が掲載されています。本連載の通奏底音となっている構造構成主義の理念を今一度整理する機会として,ご一読ください。
 http://www.mammo.tv/interview/archives/no224.html

 また2008年3月2日に開催される「日本看護研究学会 第21回中国・四国地方会学術集会」にて西條氏が特別講演者ならびにシンポジストとして参加されます。直接,お話を伺える機会です。ぜひ,ご参加ください。
 http://www.jsnr.jp/chihoukai/chugoku_shikoku/gakujutu21info.html

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