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第2730号 2007年4月30日


〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第107回

延命治療の中止を巡って(15)
パターナリズムの呪縛

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2728号よりつづく

 何度も書いてきたことだが,現在の米国医療において,延命治療の中止はルーティンの医療行為であり,昨今の日本のように,「安楽死」や「殺人」と混同されることはありえない。カレン・クィンランの呼吸器取り外しを巡って両親が法的手段に訴えたのは1975年のことだったが,当時,米国でも,延命治療の中止が安楽死と混同されたり,中止に関わった医療者が殺人罪に問われる可能性が論じられたりしたことを考えると,延命治療の中止を巡る現在の日本の状況は,30年以上前の米国の状況に酷似しているといってよいだろう(言い換えると,いまの日本は,米国と比べると30年以上遅れた議論をしているのである)。

延命治療中止の議論が混乱する根本的原因

 前回も論じたように,米国では,「患者の権利を尊重する」という原則を終末期医療の領域にも適用することで,延命治療の中止を巡るルールを確立した。奇しくも,カレン・クィンランの事例が法廷に持ち込まれた75年は,ボストン大学公衆衛生学部のジョージ・アナス教授が名著『患者の権利』を著した年でもあったが,米国で延命治療の中止を巡る原則が法廷で論じられた時代は,日常医療の現場に患者の権利が根付いていった時代でもあったのである。

 そういった時代的状況の下,「患者の自己決定権」を尊重する具体的方法として,治療や臨床試験の実施に当たって患者から「インフォームド・コンセント」を得るというルールが確立されたのだが,昨今の日本の延命治療中止を巡る議論の混乱を見ていると,議論が混乱している根本の原因は,実は,日本では,いまだに日常診療の場で患者の権利が尊重されていないことにあるのではないかと思われてならない。

 私事になって恐縮だが,私が初めて「インフォームド・コンセント」という言葉に接したのは80年,医学部を卒業して,研修医になったばかりのときのことだった。新米研修医として,受け持ち患者の診療に役立てようと,血眼になって最新の臨床論文を読むようになったのだが,どの論文を読んでも「方法」の項に「患者からは『インフォームド・コンセント』を得た」と書かれているのに,「情報を与えられた同意」というフレーズの意味が理解できず,もどかしく思ったことを今でも明瞭に覚えている。

 それ以後,医学部では習わなかった「インフォームド・コンセント」という言葉が,「大きな謎」として頭の中央に居座るようになったのだが,この言葉の本当の意味を理解するようになったきっかけは,84年になって,そのものずばり『インフォームド・コンセント』という題名の医学小説を読んだことだった(この小説は,現職医師ニール・ラヴィンが書いたものだが,拙訳が「学会出版センター」から出版されている)。

 前述したように,「インフォームド・コンセント」のルールが確立された理由は「患者の自己決定権」を尊重するためだったが,そもそも,患者の自己決定権が尊重されるようになった背景に,医師がすべてを決める「パターナリズム」に対する厳しい反省があったことは言うまでもない。「パターナリズム」を平たい言葉で言い換えれば,「自分が正しいと信ずるところを,当人の意向を無視して他人に押しつける」ということになろうが,医師が患者の意向を無視して(あるいは確認せずに)治療を押しつける行為は,たとえ「患者のためによかれ」とする善意に基づくものであったとしても,厳に戒められなければならないとされるようになったのである。

日常的に横行する「患者の権利侵害」

 翻って日本の状況を見たとき,延命治療中止を巡る議論が混乱している事実は,日本の医療が,いまだパターナリズムの呪縛に囚われている現況を象徴しているように思えてならない。患者がどんなに延命治療の中止を切望しようとも「一度つけた呼吸器は絶対に外さない」とその希望を拒絶する態度は,パターナリズムの最たるものであるが,こういった延命治療に関する「時代錯誤」としかいいようがない考え方がはびこるのも,実は,日常の医療そのものに,いまだにパターナリズムが根深くはびこっていることに起因するのではないだろうか?

 さらに一例をあげると,非常に残念なことに,日本では,いまだに進行癌の診断を患者に告げない,「パターナリズムの呪縛に囚われた」としか言いようがない医師がいると聞く。こういった医師は,患者本人には何も告げないまま,家族に病状を説明し,治療についての合意を得る行為を,「インフォームド・コンセントを得た」とカルテに記載するらしいが,これほど,「インフォームド・コンセント」のルールとは正反対の医療もないだろう。

 まず,第一に,「自分の病気について知る」という,患者の権利の「いの一番」を無視しているのだから,「インフォームした」と主張することは絶対に筋が通らない。第二に,知らされていないのだから,患者にとって「治療について自分で決め,同意する(コンセントを与える)」ことは不可能である。それだけでなく,患者が「家族も含めて他人に自分の病状を知られたくない」と望む場合,医師はその望みに従う義務があるのだが,患者の許可を得ずにその病状を家族に告げる行為は,患者の「プライバシーの権利」をも侵害する行為に他ならない。

 このように,「患者本人には何も告げないまま,家族に病状を説明し,治療についての合意を得る」行為は,二重・三重に患者の権利を侵害しているのである()。「一度つけた呼吸器は絶対に外さない」という発想が出てくるのも,いまだにパターナリズムの呪縛に囚われた診療が日常的に行われていることがその大元の原因となっているのではないだろうか?

この項つづく

註:少数とはいえ,「自分の病状を知りたくない」と望む患者が存在するのは事実である。しかし,その場合でも,医師の推定で「患者は知りたくないはずだ」と決めつけることは許されず,「自分の病状を知りたくない」という患者の意向と,誰を代理人に指名するかが明確に確認されなければならない。 連載一覧