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第2726号 2007年4月2日


【特別寄稿】

最新の米国医学・医療の現状
――ボストン便り(後編)

日野原重明(聖路加国際病院理事長)


前編

 日野原重明氏は2年に1度は,年末にボストンを訪れ,教育指導者や研究者と会い,今後の米国医学や看護学の研究・教育活動の方向性について情報を得て,国内に報告する機会を持ってきた。

 本号では,昨(2006)年も12月26日から5日間にわたって訪米した氏の報告を前編(本紙2722号)に引き続き紹介する。


【12月28日】
David Roberts医学教育主任学部長との面接

 午前8時45分にRabkin教授がホテルまで迎えに来られ,彼の車でハーバード大学医学部の学部長室や学生の講義室などのある古い建物へ案内された。カナダ出身のJoseph Martin医学部長は休暇でモントリオールに帰郷中で,私への面接はDavid Roberts医学教育主任学部長(以下,教育学部長)に依頼してあった。

 現在のハーバード大学医学部のMartin学部長(前職はマサチューセッツ総合病院MGHの神経内科医であった)は今年度で10年の任期を満了し,次期学部長の選考委員会がすでに発足していると聞いた。その前の学部長のTosteson教授(専攻は細胞生理学)は10年間の学部長任期中,New PathwayというカナダのMcMaster大学の問題解決技法によるグループ学習制をとった。講義はできるだけ少なくし,学生はあらかじめ与えられたシラバスを中心に学習して,授業は世話役のチューターがついてのグループ学習方式をとる。その評価は非常によかったと報告されてきた。

今後はNew Pathwayを刷新
 しかし,Tosteson教授の変革によるNew Pathwayもすでに10年以上の実験が済み,2006年度の入学生からはNew Integrated Curriculumにより刷新された教育が行われているとRoberts教育学部長は私に説明してくれた。

 学生が臨床医学の学習に入る前のPreclinicalコースとしては,まず8月中旬に入学した学生はIntroduction to the Professionの2週間のコースを受けることで,医師としてのMissionをめざすためのプロ意識が強く生まれる。

 日本では,高校を卒業し,理科的科目の偏差値の高い卒業生が6学年課程の医学部に入学するが,それまでのliberal artといわれる教養の学習は受けないままに入学するため,学生は専門の医学には興味を示すが,教養課程には目を向けず,出席率が非常に悪い。そこで教える側は専門医学の基礎となる課程を早めに始めたいので,6年間の医学部在学中は教養が軽視され,医師としての使命感を持つことが失われているのが現状である。

 ハーバードの医学生は上記の医師としてのプロフェッションの意義を学ぶ2週間の講義に次いで,医学の基礎としての9か月間の課程のうちのまず4か月間に,(1)分子細胞学の基礎,(2)人体の解剖,生理の大要(モデルやコンピュータを使ってのバーチャル学習)(3)人体遺伝学,(4)医療倫理とプロ意識,(5)患者と医師関係(I)があわせて2か月の間に組まれる。

 一方,8月入学後から翌年1月までは「a)臨床疫学と国民の健康問題」,次いで「b)医学の発見の歴史から与えられるもの」,の講義とワークショップが行われる。それに次いで2月から5月までの4か月間,つまり1学年の後半には人体生理,免疫学,微小生理学と病理学,それに社会医学入門と,「患者と医師関係(II)」が続けられる。この患者と医師関係は2学年の後半の3か月と最後の2か月間にわたって第III部として続けられる。

 患者と医師関係の学習では,患者との対応,病歴の取り方,診察技術は,指導教官や模擬患者を使ってのワークショップから学ぶ。実際に外来受診の患者を担当させ,その間にプライマリ・ケア医学や内科学一般を学ばせる。

 基礎医学といわれてきたものと,臨床入門が統合されていることから,それらがIntegrated Curriculumといわれ,日本の医学部でのような解剖学,生理学,細菌学,病理学などに分割された古いカリキュラムはどこにも見られず,一方,臨床疫学も診断学の中に組み入れられているのが特色である。

 3学年ではPrincipal Clinical Experienceとして7月から翌年4月までの10か月間には「患者と医師関係(III)」と「プライマリケア(II)」が組まれ,2学年の5,6,7月になってはじまる内科学に次いで,8,9,10月の3か月間は,婦人科学,産科学,小児科学を直接患者を担当して学習する。次いで3学年の11,12,1月の3か月は外科学を,後半の2月からは放射線学,神経学,精神医学の順で,それぞれ1か月間の外来での臨床実習があり,最後の5,6月にはインターンに準じる責任を持つ臨床参加,または何科かの基礎的研究参与,または何科かの臨床科目の自由選択が行われ,この時期にUSMLE(United States Medical Licensing Examination)IIを受けさせる。USMLEIは2学年中に受けさせる。

 最後の4学年では7月から翌年5月までの10か月,Sub-internshipとして入院患者を受け持つか,何かの必須の臨床科に加わるか,何かの選択科目をとらせる。この4学年のときにUSMLEIIを受験してもよい。

 医学生の夏休みは1学年の終わりの6月の初めから8月半ばまであるだけで,その間に何かの基礎研究に加わるか,国内外での各臨床科の選択実習が許される。

 テネシー生まれのRoberts教育学部長は1990年にメイヨークリニックでカルシウム代謝の研究に入り,1991年からハーバード大学医学部に入学し,呼吸生理学を専攻しつつ,この方面の医学以外に循環器や内分泌系にわたる研究も多いとのことである。

 彼は自分の経歴のように,医学部志願の前に文科方面でも理科方面でも何かの研究をやったあとに医学部に入学するのがよいと言っていた。

 私は最近人間が腹臥位で夜寝ることが肺機能によい影響を与えるように感じて臨床実験をしていることを話したが,このことに彼は興味を示された。

 ハーバード大医学部の入学定員は165名前後であり,うちアジア人は約20%で,その多くはシンガポール,香港,台湾,ベトナムからの留学生である。アメリカ籍の日本人二世の他に日本からの入学者は稀という。新入生の性別は男女がほぼ等しいとのこと。

 上述の情報を得た後,Roberts教育学部長は私を医学生が集まる天井の高いアトリウムに案内してくれた。学生は受講以外の時間,ここで休息や食事をとり,そのまわりには学生のクラブ(Peabody club,Holms clubなど古いハーバード医学部の尊敬された教授の名がついている)の部屋があって,それぞれのクラブでは,学年を超えての友好関係の下でそれぞれの特有な部活動が行われている。

 学生は授業に出られなくても,授業内容が毎回ビデオに録られているので,自分でそれを見て,シラバスの学習材料にあわせて自己学習ができるという。学生の実習については,16人の学生が1グループを作って行動するそうである。

Simulation Laboratoryを駆使したBIDMCでの研修
 Roberts教育学部長の丁重な案内に感謝して午前11時にはここを辞し,学部の本館から離れて,教育関連病院の1つであるBeth Israel Deaconess Medical Center(BIDMC)の外来棟に行くと,学習教育センターのCarl J. Shapiro Instituteがあり,その中にはSimulation Laboratoryがある。そこに行けば医学生や研修医は指導員の下でVirtual simulatorなどを用いていつでも自己学習ができるようになっている。私はこのSimulation Laboratoryを午後1時から見学した。Rabkin教授がこのメディカルセンターの院長をしていた10年ほど前にユダヤ人のShapiro氏の寄付により,その外来棟の一角にこの施設が作られ,年々拡大して今日のような大規模な研究・自習室が生まれたのである。

 医学生やレジデントは,Virtual patientのプログラムで病歴や診察所見,選択したラボラトリーテストなどから得られたデータから,どういう考えの下に行動すれば診断や治療が正しくなされるかを学習できるのである。

 このラボには手術室もあり,模擬手術の手技を直接,または隣室から見学できる。また自分がOperatorとなり,仮想患者の手術の手技を覚えることもできる仕掛けである。2年前からは内視鏡の手技や,内視鏡下の胆嚢摘出術,膀胱結石摘出術の練習もすることができるようになっている。

 このラボ専属の指導教官の下に技師がいて,彼が直接学生やレジデントを指導している。1年前からこのラボで教育を受けた日本人女性は今日本に帰国し,聖路加国際病院附属の(財)聖ルカ・ライフサイエンス研究所内のSimulation Laboratoryで働き,聖ルカ関係の研修医やナース以外に他の大学または病院のスタッフにもここを活用して研修の場を提供している。

 午後4時には,BIDMCの中のShapiro研究所の一室で私はアフリカのシュヴァイツアー病院の理事の1人であるDr. Forrow教授(BIDMCのプライマリ・ケア科の教授)と,ハーバード大学医学生であったとき,米国シュヴァイツァーフェローシップから推薦されて,ガボン共和国のランバレネにあるシュヴァイツアー病院でボランティアとして働いた若い3名の医師が集まり,私が2006年7月に現地のシュヴァイツァー病院を訪問したときの印象を語った。その話題をきっかけに,シュヴァイツァー病院の業績や核戦争防止国際医師会議IPPNW(1985年にノーベル平和賞を受賞)について,またその後の活動についての話を聞いた。Forrow教授はIPPNWの発足後からこの団体の議長をされた。米国にはシュヴァイツァー病院を援助するアメリカ・シュヴァイツアー・フェローシップという団体があるが,Rabkin教授は現在その議長,Forrow教授は会長を務められておられる。

 2005年10月に行われた広島の原爆60周年の行事で,私が指揮者の小澤征爾さんと共に平和の祈りを込めた私の詩の朗読と450人の合唱付のフォーレの鎮魂の音楽を演奏したとき,Forrow教授もこれに参じて平和のメッセージを朗読されたのであった。私は日本の医学生や研修医が夏季休暇中にも,シュヴァイツアー病院のようなところへ働きながら見学する機会が与えられればよいと考えたが,現地はフランス語しか通用しないので,フランス語が話せない日本の医学生にはなかなか難しいことと思った。

専門性の高いナースの養成
 私は今回,MGHを母体としたInstitute of Health Professionという看護やPT・OT,栄養などの専門家を養成する大学院大学での,専門性の高いナースの教育について知りたいと思っていた。ターミナルケアやHIV患者のケアを専門とするInge Corless教授と同僚の2人の教授(Patris K. Nicholas先生とMargery M. Chisholm先生)からNurse Practitioner,Nurse Anesthesist,Nurse Pediatricianなどの専門性の高い技能を持つナース養成のための学科課程について伺うため,海鮮料理で有名なレストランに招いて彼らの経験を語ってもらうことにした。

 この大学院では,一般の教養大学を卒業した女性または男性が,2年の修士課程に入ると,在学中に臨床ナースのBachelorの資格を得たうえで,麻酔科や小児科や産科やプライマリ・ケアのNurse Practitionerの資格が同時に得られるという。いわば短期間に医師に準じた臨床を行うことが認められた資格が与えられるのである。

 日本では今や麻酔医(Anestheologist)や小児科医,産科医が不足して大問題となっているが,米国やカナダではもう40年も前からNurse Practitionerが内科や小児科医に準じた医療を行うことが公認されており,訪問ナースは,独立して診断や治療ができる資格を持っている。日本では昭和23年に設立された保・助・看法がほぼそのままで今日に至り,4年制看護大学は過去20年間に140校にも及ぶほど大学が増したが,診断や治療を独立して行えず,医師による医療の補助をするに留まっている。それを私は何とか北米式に資格を与えたいと思っており,その教育のノウハウを伺うために会食に招待したのであった。

 会食の場ではその詳しいカリキュラムは用意されておらず,入手できなかったが,私は日米間の看護教育の制度の差を述べ,詳しいデータが得られれば,それを参考にできるだけ早く知り,日本の古い保・助・看法を変えたいと思っていると話した。もし麻酔学会や医師会の協力さえあればこのことは可能であろうと私は考えている。

 会食が終わり,ホテルに帰ったのは午後10時頃であった。

【12月29日】
BIDMC見学,MIT訪問

 昨夜は,過去3日間のハーバード大学医学部の教官たちとのインタビュー記録を整理しているうちに,午前3時になったので,朝のモーニングコールは中止して,十分に寝ることにした。目覚めたのは午前11時。11時30分にRabkin教授がホテルまで迎えに来られ,BIDMCの職員食堂で軽食をとる。Rabkin教授は長年院長をされていたので何人もの人が挨拶するごとに,私を古い友人として紹介される。長年院長職にあったせいか,何か床に落ちているものがあると,先生はすぐに拾って屑篭に入れる。

 Rabkin教授の自室の隣の会議室で,ランチボックスを手にした若手の内科の女性助教授のShip先生とEazio先生が,私たちを1時の定刻に待っているところに私は入室し,Rabkin教授が私を紹介される。私は簡単に日本での臨床研修医の研修課程を説明したあと,この教育機関でのレジデント教育の実態の説明を聞いた。この2人は教育熱心で,それぞれ内科のsubspecialtyの専門医である。ハーバードでは毎年若手の教官の中から年末にはGood teacherの表彰をしているが,この2人はその賞を受けられた方々である。教職で医学生やレジデントの教育熱心な人は男女のどちらが多いかと質問したところ,Rabkin教授は女性のほうだと言われる。この会議室には表彰された医師の写真が飾られている。

 米国の病院や教育機関には,大きな寄付者の写真や,表彰された医師やナースその他の写真があちこちに飾られているのが日本と違うと思った。大きな外部の寄付者には,大小のプレートが壁に貼られていたり,病棟や会議室に寄付者や有名な教職の名前がつけられている。これも日本では少ないことである。

 私は,デューク大学やハーバード大学,カナダの医科大学に若干のscholarship(奨学金)を寄付しているが,そのような施設を訪問してパーティに招かれる時,奨学金をもらっている学生が来て,皆の前で短い挨拶をしたりすることを何回か経験したことがある。よく考えてみると,私が学長や理事長で,内部の教官や外部からの客を招いて大小のパーティを計画する時,学生の奨学金の寄付者に対して私が外国で遇されているようにはやってこなかったことに気づき,反省している。

チーフレジデントとホスピタリスト
 さて,このハーバード大学の教育関連病院のBIDMCには総数130名のレジデントが勤務しているとのことである。このレジデントの世話役に5名のチーフレジデントがいる。内科のレジデントは3年の研修を終えたあと,何かのspecialtyを専攻するフェローを3年くらいやるのが普通であるが,そのフェローを1年間中止してチーフレジデントとして病棟全体を監督する。チーフレジデントはこの義務を果たしながら,週1回は外来に出て診療を行う。それ以外の時間は病棟でレジデントの行動を監督する。

 米国ではattending doctorとして外部のクリニックで働く有能な専門医が,自分の患者を病院に送ると,その主治医として病棟のレジデントまで指導してきた。ところが,そのようなattendingの医師の中には,過去にはチーフレジデントを立派にこなしたあとフェローとしての経歴を得たものであっても,今日のように急速に進歩する臨床医学についていけなくなる人もいる。そのため,チーフレジデントの役を立派に終えた医師を常勤のレジデント指導医(通称ホスピタリスト)に任命して,3交代のチームで24時間を分担させる常勤役職として採用する教育病院が増えており,そのホスピタリスト学会の会員数は急速に増加したそうである。

 さて,今回紹介されたShip先生は1999年卒で,卒後8年,Fazip先生は2000年卒で卒後7年とのことである。この2人の説明では,内科のレジデントは3年間,外科は4-5年間の研修を受けるという。レジデントは勤務時間が長びくものが多く,10年ほど前,ボストン市立病院のレジデントが勤務時間が長過ぎたための疲労が原因で,医療事故を起こし,裁判の結果,レジデントの勤務は1週(5日制)80時間以上に超過すると法律違反で病院は罰せられることになった。それ以来,レジデントは当直以外は午後9時には病棟を去ることが義務づけられた。

 この病院では当直レジデントは,夜間の急患を5-7人は引き受け,病歴を作り,診察して必要な諸検査を終えて,診断を下したうえ,適切な処置を終えなければならない。この取り扱い患者数は,日本の当直医の平均取り扱い数の倍以上であるが,米国の病院のレジデントは以上のプロセスをきわめて要領よく短時間でこなすことが当然とされている。

 内科病棟では,毎朝7時頃,レジデントが担当の病棟の重症患者や夜間の新入院患者の容態を上司に報告し,宿直医は入院させた患者を病棟の受け持ち医にバトンタッチする。午前中はホスピタリスト以外の上司の回診はなく,レジデントは担当した患者を回診し,治療方針をナースに伝えたり,検査や治療上の処置を行う時間として午前中の仕事は終わる。またレジデントは担当した患者の退院サマリーを1週間以内に作成する。

 正午のランチアワーには,大会議室か講堂で大勢のスタッフが集い,ランチボックスが出席者には支給され,興味あるテーマの講演や,症例報告などのクリニカルカンファレンスがある。近年はJAMAに“Clinical Crossroad”といった標題で掲載されている月1回の症例中心のクリニカルカンファレンスがある。担当医が症例の病歴と経過を述べ,特定した発言者がその症例の問題を解析する。これに対して,専門家が意見を述べる。死亡患者の解剖所見から症例を反省するCPCとは異なり,問題点のディスカッションで終わる(以前は病理医司会のCPCが各病院であった。MGHでは毎週1時間程度のCase Records of the MGHというタイトルのCPCも続けられている)。この症例検討会は一般内科の医師たちが中心で出題し,全人的ケアがなされているかどうかの討議が行われる。単に病名を当てるというCPC的なものから離れ,バイオエシックスにも触れる全人的アプローチに関する討議で,非常に興味深かった。

一般臨床研究センターの充実
 以上のレジデント教育の実際についての情報を得た後,Rabkin教授の案内でBIDMCの中に設置されているGeneral Clinical Research Center(一般臨床研究センター)を見学することになった。

 米国の医学校は,その附属病院または教育関連病院の中に必ず各臨床専門医学科に属さず,患者からの了解が得られたケースについて,研究のための徹底的な観察やデータ分析のできる装置のあるいくつかの入院病室がある。いわば学用患者として入院中のさまざまな臓器の代謝を調べるために,採血や蓄尿などだけでなく,摂取した食べ物や飲料の内容の分析,排泄物の生化学的分析などのほか,あらゆる臨床検査が円滑に行われる施設を備えた病棟に,あらゆる方面からの観察ができるユニットがある。米国ではその特殊なユニットを運営する資金がNIHを通して政府から提供されるのである。

 日本では,病棟に入院した患者を研究室に呼び入れて検査をすることが多く,米国にあるようなどの科の研究者でも利用できるオープンな施設は例外的にしかない。

 最近,神戸市民病院に入院した患者を当人の同意を得て研究用に収容し,詳しい代謝などが調べられる施設が神戸市に先端医療振興財団の事業として設立されたが,これは井村裕夫博士の多大な努力によるものである。

 私はこのBIDMC内の臨床研究センターを約2時間にわたって詳しく見学した。そこは「Harvard-Thorndike一般臨床研究センター」と呼ばれており,全体の運営責任者がプログラム・ディレクターとして運営に当たっている。そして,ナースのマネジャー,主任栄養管理士,統計専門家,そして種々の検査技師が働いている。ここではすべての成績が電子チャートに記録され,データベースの処理のコンピュータプログラムがいつでも使えるようになっている。この施設には1人または2人用の病室が用意され,7名の収容力があるが,入院患者のほかに9名の外来患者をも試験用患者として扱えるようになっており,病床サービスのほかに,看護サービス,食事サービスが提供されている。この施設はすでに32年前から発足し,毎年NIHからの資金を受けて次第に拡大し充実して今日の状態になったとの説明である。ここで使用された廃棄物は厳しく処理され,無菌物として廃棄されるという。

 BIDMCはこの施設以外に2か所のサテライトを持っている。1つは糖尿病を扱うJoslin糖尿病センターであり,もう1つは口腔内感染や歯肉疾患,歯のカリエス発生機序を研究するForsyth Instituteと呼ばれるブランチである。このリサーチセンター主任の説明では,米国内にはこのような臨床研究施設が120か所あるとのことである。

 日本ではこのような施設がようやく作られはじめているのに比べると,ここではすでに32年の歴史を持っているのである。それを聞いて私は日米間には研究体制に何とひどい差があることかと痛感した次第である。

利根川進教授を訪問
 午後2時には,BIDMCを出て,Rabkin教授の車でMITにある利根川進教授の研究所を訪問することができた。

 利根川博士は,1989年にノーベル賞の医学・生理学賞を授与された有名な科学者であるが,博士は私と同じ京都大学の出身で,理学部化学科の生物化学を専攻された。その後,同じ京都大学医学部の渡辺格教授の核酸に関する講義を聞き,分子生物学に興味を持ち,京大ウイルス研の大学院生となられた。渡辺教授から米国留学を勧められ,カリフォルニア大学サンディエゴ校生物学大学院で博士号をとり,1985年には有名なソーク研究所で癌ウイルスについて研究され,その後1986年には免疫学では世界最高レベルにあるスイスのバーゼル研究所の研究員となった。免疫グロブリンの生産遺伝子内のDNAの働きを発見し,哺乳動物の免疫現象をDNAレベルで解明されたことで,日本人初のノーベル医学・生理学賞を受賞された。

 その後,MIT学習・記憶センター長となり,現在はセンター長を辞して,もっぱら大脳の記憶中枢の生理学的解析の研究に没頭されているのである。

 私は,利根川博士とは一面識もなかったが,同窓であることと,博士がなぜ今,分子生物学の手法を人間の大脳の記憶中枢の解析に向けるようになったのかに関心があった。感情や記憶という精神現象も脳細胞と分子の複雑なプログラムに基づいたものだという考えに立って,研究はあたかもトンネルを貫通しようとする現場のように暗黒の中に一点の明るさが差し込むところまで進んでいるのかなど,博士の心の底を伺いたいと思って,あえて会見を申し入れたのである。

 Rabkin教授のご配慮で,私はこの日の午後,約30分の予定で研究室を訪れた。ところが,黒板のある広いカンファレンスルームのような部屋に案内され,そこには夫人もおられ,私はお2人と予定をはるかに超え2時間も,博士の研究について話していただくことになった。博士の説明によると,研究は多数のマウスを使って行われており,遺伝子が記憶に重要な役割を果たしていることを,海馬の記憶中枢の一部に電極を入れ,いろいろの条件を与えて飼育したマウスの行動の変容から,記憶のメカニズムを究明する実験をされている。専門外の私にはその理解は難しかったが,できるだけ私にわかりやすい図を描きながら,研究方法とその成果の一端を話してくださったのである。

 ボストンの冬の夕べの時は短い。ご夫妻が私を車でホテルまで送ってくださったが,ホテルに着いたのは午後6時になっていた。私は,6時半には,元聖路加国際病院のレジデントで,今は女性医師としてMGH麻酔科で動物実験による研究をしている教え子のN医師とホテルのロビーで何年かぶりに再会し,レストランで食事をとりながら,研究のこと,将来帰国してからのことについて,心おきなく2時間ばかり語り合った。若い人から研究の話を聞くのは楽しいことである。

【12月30日】
The Dean's Reportに見るハーバード大医学部の今後

図1 The Dean's Report
ハーバード大学医学部は2007年に創立225周年の行事を行う。Martin医学部長は10年の任期を終えてこの職を辞す。本レポートは彼の最後の報告書である。
 いよいよ帰国する日になった。昨夜は遅くまでDienstay教授からいただいたハーバード大学医学部の学部長報告The Dean's Report(図1)を読んだが,日本の大学の医学部長の報告,または医科大学長の報告では述べられていないような詳しい医学教育や研究に関するA4判57ページのレポートを読んで,ハーバード大学医学部の現況と将来像をかなりはっきりつかむことができた。

 レポートにはハーバード大学医学部キャンパス内に,科学と臨床的ケアと教育を結ぶ橋となる種々の新しい研究所やラボラトリー,また医学教育の研究所が2007-2008年度のうちにどのようにつくられ,それがどう機能しているかということや,その将来の成果の予測がわかりやすく書かれている。米国での医学の研究や教育や医療サービスの最先端の実績を支えるものとしての経済上の実相についてもわかりやすい説明がある。

 この大学の医学部の学生数や教官数(表),さらに2006年度の経営の収支の実績も図示されている(図2)。

 ハーバード大学医学部の学生,研究者,教員数
・医学生 771
・DMD(phD,MDコース)学生数 143
・PhD学生数 590
・インターン,レジデント,博士号修得後院長 7619
・選挙権をもつ教官 4084
・フルタイム教官 7933
・医学部同窓生 9024
・歯学部同窓生 1220
・関連教育施設 18か所

経営面について
 経済面を略記すると,総予算は500ミリオンドル,支出は518ミリオンドルである。図2に詳細を示すが,学生からの授業料は全収入予算の10%にすぎない。全収入源のうち,大学の財産からの収入は全予算の21%と多く,政府からの補助金も全予算の40%と多い。

 連邦政府の補助と一般からの寄付が43%にものぼるというのは,日本の現状とは逆で,日本の医科大学または医学部は学生からとる入学金や学費が収入源のかなりの額を占め,国公立以外の私立の医学部への政府の予算は比較的新しい私学には少ない。

 いよいよ丸4日間のハーバード大学医学部とその関連教育病院の見学・視察と,老人ホームの見学が終わったところで,30日の土曜日にはRabkin教授の好意でボストン美術館を訪れ,午前中約2時間を費やして古典ならびに近代美術の作品を鑑賞し,美術館内のレストランで昼食。午後2時からは毎年12月の暮れに催されるボストンオペラハウスでのボストンバレエ団によるチャイコフスキー作曲の「くるみ割り人形」のバレエを楽しんだ。

 ボストンバレエは毎年同じタイトルであるが,年ごとにその演出は異なり,楽しいエンターテインメントであった。

 この夜は,ホテルのレストランで京大医学部出身の李啓充先生ご夫妻と会食した。李先生は長年MGH内分泌部助教授としてCa代謝をテーマに研究を続けられていたが,今は医学ジャーナリストならびに野球評論家として有名であり,ボストンレッドソックスのチームについても詳しい情報を持っておられる。日米の医学教育や研究体制,医療過誤や医療事故,また米国の医療保険制度など,米国での医療のあれこれについて話がはずんだ。また,レッドソックスに入団した松坂大輔選手が高額でこの球団に移籍したトピックスなどにも話が及び,お2人と別れて部屋に帰ったのは午後10時を回っていた。

 帰国後に報告する予定の5日間のボストン滞在の印象を,記憶の新しいうちにと思って走り書きしていたら,午前5時になった。午前6時にはRabkin教授の車でホテルを出て,午前8時発のユナイテッド・エアラインでボストンを発ち,日本には元日の夕刻に成田空港に着いた。大晦日を機上で過ごしたことになったが,米国のエアラインであったので,お雑煮は出なかった。