医学界新聞

 

名郷直樹の研修センター長日記

33R

餓死するロバ

名郷直樹   地域医療振興協会 地域医療研修センター長
東京北社会保険病院
市立伊東市民病院
横須賀市立うわまち病院
市立奈良病院臨床研修センター長


前回2698号

▼月×日

 研修医に対して,久しぶりにまとまった話をした。昨日読んだ本がとても印象的だった。これは今の自分の疑問そのまま,そんな感じがして,どうしても話したくなった。どんな本かというと,解剖学者とアナウンサーの対談。その本のやり取りの一部なんだけど,解剖学者がアナウンサーに質問する。利き手のある理由がわかりますかと。アナウンサーは答える。考えたこともないですねと。それにならって,私も研修医に聞いてみる。

「今日は利き手がある理由について考えたいと思います。どうして利き手があると思いますか。はいっ,まず隣同士でディスカッション」

あまり議論は盛り上がらない。だいたい朝から議論するような話題じゃない。そこを無理やり,強引に,こちらの好みで,やってしまう。興味のないことに興味を持て,であるから。しかし,反応はだいたい予想通り。私の異様に高いテンションと,研修医の普通に低いテンション,うまくいくわけがない。

「質問の意味がよくわかりません」
「いまいち話が弾みませんでした」
「利き手がなければ,どっちの手でもうまく字が書けたり,箸が使えたりして,そのほうが便利かも,なんて話は出たんですが」

「利き手がないほうがいいかもというわけだな。それでは,質問を変えよう。ここに腹ペコのロバがいる。そのロバの前に大好物の干草の山が2つある。どちらも見かけはまったく同じで,ロバから同じ距離のところにおいてある。さあ,このロバはどうなるでしょうか。また隣同士で話してみて」

今度は少し盛り上がる。自然といろいろ意見が出てくる。質問は大事である。特に朝っぱらからの議論では。いい加減に盛り上がったところで,どんな意見が出たか聞いてみる。

「とりあえずどちらか食べます」
「どっちも食べて腹こわす」
「迷ってるうちに,低血糖で昏睡」

「片方食べる,両方食べる,どちらも食べない,そんな感じだな。じゃあ,少し情報を追加しよう。コンピュータに,対称形の問題を計算させることを考えてみて。たとえばメリットもデメリットも等しくなるような条件で問題を出すと,結論が出せなくてコンピュータは止まってしまうらしい。計算機には利き手があるだろうか」

「それって常に答えを小さく見積もる計算機とか,常に大きめに計算する間違った計算機ってことですよね」

「その通り。計算機に利き手があったら大変だ。計算機には利き手がない。いつもちゃんと計算する。でもそのために止まってしまう。ロバでいうと,どっちの干草を食べるのがいいのか,距離はどうか,量はどうか,そこまでの道のでこぼこはと,計算しているうちに,結論が出せなくて,餓死,そんな感じの状態になるらしい。ただロバはコンピュータじゃない。正しい計算はできないかもしれないけど,利き手,ここでは利き足だけど,それがあれば,どちらを食べるか決めることができる。計算を間違って,右が近い,なんて勘違いすれば,右を食べに行ける」

なんとなくいい感じでざわざわする。

「利き手の話とつながっただろうか。そろそろ病棟へ行く時間だ。ちょっと中途半端かもしれないが,どこかできりがつく話じゃない。自分の利き手がどっちか,考えながら,今日一日を過ごしてみてくれ。検査をするとき,薬を出すとき,説明するとき,その都度,自分の利き手はどっちだと。もちろん考えすぎは,患者を餓死させるかもしれないが,利き手だけで決めるのも,どうかということだ。干草に毒がもってあるかもしれないし,食わないロバがいちばん元気,そんなことだってあるんじゃないかな。では,みなさん今日も元気に働きましょう」

 こうした議論が,病棟や外来の現場でどんなふうに生きるのか。そんなあいまいなことを言っても,現場では検査してしまうし,治療してしまうかもしれない。瀕死の患者であればますますそうだ。とりあえず右の干草食わせておけ。なぜ右か,エビデンスがあるから? 慣れた方法だから? 副作用が少ないから? 自己負担が少ないから? 患者が希望するから? 全部を計算式に入れると,多分結論が出ない。まさに餓死するロバ状態。だから,そのうちのどれかに重み付けをして,決めるほかない。EBMなんてことにこだわってやってきた自分なんかは,ついついここはやはりエビデンスを重視して,と利き手が利いてしまうのだ。でもそこを,エビデンスで判断している,患者の希望を重視しているなんて勘違いせずに,自分の利き手で決まっているかもしれない,そう立ち止まれなければ,それこそ怪しげな医療に陥ってしまう。
 これは自分自身の課題だ。研修医だけの課題じゃない。へき地の診療所で,どんなにエビデンスについて勉強しようとも,どんなに患者の意向を引き出そうとも,高血圧の治療効果についてすら,まともに説明できない自分。自分にもできないことを,研修医に,なんて言われるかもしれないが,そんなことは誰にもできないことだ。そして,医者以外が案外できたりする。こういうことは。

次回につづく

(参考図書)
養老孟司,古舘伊知郎:記憶がウソをつく!(扶桑社,2004)


名郷直樹

1986年自治医大卒。88年愛知県作手村で僻地診療所医療に従事。92年母校に戻り疫学研究。
95年作手村に復帰し診療所長。僻地でのEBM実践で知られ著書多数。2003年より現職。

本連載はフィクションであり,実在する人物,団体,施設とは関係がありません。