医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第79回

ピル(医療と性と政治)(10)
治験

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2671号よりつづく

〈前回までのあらすじ:ハーバード大学医学部教授ジョン・ロックという強力な賛同者を得て,「ピル」の臨床試験が実施されることになった〉

変更されたプロトコール

 1954年,ロックの主導の下,50人の志願者を対象に,経口避妊薬の臨床試験が開始された。州法で避妊そのものが禁止されていたこともあり,「避妊」研究が目的であることは被験者である患者にも隠され,表向きは,「不妊治療」の研究が治験の目的とされた(註1)。

 それまでロックが実施してきた不妊治療のプロトコールは,患者に4か月間毎日プロゲステロンとエストロゲンを投与するというものであったが,新たな治験の実施に当たって,ロックは,「プロゲステロン単独20日間投与,1週間休薬」と,プロトコールを変更した。ピンカスの進言を入れたこともあったが,カソリック信者だったロックは,「4週毎に月経が起こる生理的なサイクルとすれば,『自然な』避妊法としてローマ教会の認証を得やすくなるのではないか」と期待したからだったと言われている。

 当初,ロックの治験チームのメンバーの間で,経口避妊薬臨床試験は「Pincus Progesterone Project」の頭文字をとって,「PPP」と呼称されたが,やがて,この呼称の意味するところは,文字通り「pee-pee-pee」と変わったのだった。それまでの不妊治療治験と違って,被験者に排尿を促して毎日尿検体を採取するという仕事がメンバーの重要任務となったからだが,それもこれも,排卵抑制作用の確認に漏れがあってはならないと,治験のプロトコールが組まれていたからだった。

歴史的成果の公表

 治験は成功,経口プロゲステロンが「完璧」に排卵を抑制するという結果を得るのに,大した時間はかからなかった。サンガーもマコーミックも治験の成功に狂喜,「薬による避妊法の成功」を一刻も早く世界にアナウンスすることを望んだが,ロックは,「正式に学会や論文で発表する前に,不十分なデータのまま世間に公表する」ことに反対した。しかし,マコーミックは,ロックの反対を無視,1955年10月に東京で開かれた国際家族計画連盟会議にピンカスを派遣,経口避妊薬実用化という歴史的成果を発表させた。しかし,出席者の反応は鈍く,ピンカスの発表は「黙殺」されてしまったのだった。

 その数か月後,ロックは,カナダで開かれたある内分泌学会で,経口避妊薬の治験結果を発表した。とはいっても,「避妊薬」という言葉は一度も使わずに,排卵が抑制されたことを示すデータを次々と提示,出席者の頭に,自然と「避妊薬の実用化成功」という意義が染み込むような発表方法を採ったのだった。ロックの目論見はまんまと成功,発表後質問に立ったジョージア大学教授が「『抗排卵薬』が現実のものとなったように見えるが……」と発言,ロックに代わって経口避妊薬実用化の成功をアナウンスしたのだった。

実施困難だった大規模治験

 ロックが主導したボストンでの治験は大成功に終わったが,FDAの認可を得るためには,さらに大規模臨床試験を実施する必要があった。しかし,大規模治験を実施するに当たって,米国では「避妊法を広めること自体が違法」であるなど,制約が大きすぎた。当時,大規模治験実施の目途が立たないことに苛立ったマコーミックが,サンガー相手に「排卵可能な女たちを入れた実験動物籠はどこに行ったら手にはいるの?」とこぼしたという伝説が残っている。

 米本土では実施困難だった大規模治験を可能とし,マコーミックが切望していた「実験動物籠」を提供したのは,米自治領プエルトリコだった。プエルトリコには避妊を禁止する法律もなかったし,当時,貧困対策の一環として人口抑制の必要が叫ばれていた。全島に避妊クリニックが開設され,活発な避妊指導が展開されていたのである。

劇的効果の陰に副作用

 1956年,プエルトリコでの大規模臨床試験が始まった。当時,共稼ぎ家庭が増えていた事情もあり,有効な避妊法に対する社会・経済的な理由からの需要は強く,被験者を集めるのは簡単だった。治験開始後1年,きちんと薬を飲み続ける限り避妊は100%達成されるという劇的効果が確認されたのだった。

 避妊効果も劇的であったが,プエルトリコで治験の責任者となった医師は,嘔気,頭痛など,被験者の17%に副作用が見られた事実を報告することも忘れなかった(註2)。しかし,避妊効果100%という劇的効果に目が曇らされたのか,ピンカスもロックも,「不定愁訴がほとんど」と,副作用の意義を真剣にとらえようとはしなかった(註3)。

この項つづく

註1:現在の倫理基準に照らせば,非倫理的な治験と言わなければならないが,当時,インフォームド・コンセントの原則は,まだ確立されていなかった。
註2:避妊効果を確実なものとするために,プエルトリコの治験ではプロゲステロン10mgという大用量が投与され,高率の副作用をもたらす原因となった。
註3:副作用の意義が軽視されるなど,プエルトリコでの治験も,現在の基準から照らせば「非倫理的」なものであった。しかし,例えば,プエルトリコでの治験の成功がメディアに紹介された際,逆に,「そういう素晴らしい薬の治験をなぜ米本土でしなかった」と怒った米国人からの手紙がピンカスに殺到するなど,当時,治験の「非倫理性」はまったく問題とされなかった。