医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第78回

ピル(医療と性と政治)(9)
医師

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2669号よりつづく

〈前回までのあらすじ:ピンカスの動物実験は成功,薬での避妊を可能にするというサンガーの夢は,いよいよ実現へと近づいた〉

 マーカーらの努力によって合成プロゲステロンが容易に利用できるようになったことがピンカスの動物実験成功の背景にあったのだが,ピンカスにとって,動物実験で仮説どおりの結果が得られたといっても有頂天になることはできなかった。動物実験の結果は,いわば「予想どおり」のものであったし,彼にとっての最大の悩みは,どうやってヒトでの臨床試験を実施するかにあったからだった。

 ヒトでのデータを揃えない限り,食品医薬品局の認可を得る術がないことはわかりきっていた。しかし,医師でないピンカスには,治験を実施するためのノウハウも手段もなかった。それだけでなく,マサチューセッツ州は,州法で,避妊器具の配布はもとより,避妊に関する情報を流布することすら禁じていた。「犯罪」に問われることなく避妊薬の臨床試験を実施するにはどうしたらいいのか,ピンカスの悩みは尽きなかった。

正反対の目的

 臨床試験実現の方策を巡って頭を悩ませていたピンカスに幸運が訪れたのは,1952年のことだった。ある学会で,たまたま,ハーバード大学医学部教授でもある産婦人科医,ジョン・ロック(当時62歳)と話をする機会を得たのだった。

 ピンカスが驚いたことに,ロックは,すでに,ヒトに合成プロゲステロンを投与する臨床治験を実施していた。しかも,妊娠を防止するためにプロゲステロンを使うというピンカスの目的とは正反対に,ロックは,不妊患者を妊娠させる目的でプロゲステロンを使っていたのだった。

 ピンカスとロック,プロゲステロンを使う理由はまったく正反対だったが,「プロゲステロンに排卵抑制作用がある」という点について,2人の科学的意見は一致していた。ロックは,「プロゲステロンで排卵を起こさないようにした後,急に中止すれば,リバウンドで排卵が促進される」という理論に基づいて,不妊治療の治験を行っていたのだった。しかも,ピンカスの仮説どおり,ヒトでも,プロゲステロン投与中に妊娠が起こらないことは,不妊治療治験の過程で,すでに副次的事実として観察されていたのだった。ピンカスは,プロゲステロンを「避妊薬」として開発してきた経緯を説明,ロックに,「避妊薬」臨床試験の実施を依頼した。

聖職者から受けた大きな衝撃

 ローマ教会が「人工的」手段による避妊を容認していないことは当時も今も変わらないが,皮肉なことに,ロックは,敬虔なカソリック信者として知られていた。カソリック信者のロックを「避妊薬」臨床試験の責任者に選ぶことに,サンガーは猛反対した。しかし,ロックとは旧知の間柄であったマコーミックが,ロックは「改革派」のカソリックであること,しかも,避妊については,ただ容認するだけでなく,普及のための積極的な活動を続けてきたことを説明,サンガーを説得したのだった。

 ボストンのカソリック・コミュニティで「エリート」階層に属していたロックが,なぜ,避妊支持派となったのか,その理由の1つは,自身の結婚式の時の体験にあったと言われている。ロックの妻アナは,ケネディ家と並ぶボストンの旧家ソーンダイク家の出身だったが,2人の結婚式は,枢機卿のウィリアム・オコーネルが執り行うことになった(註)。結婚式の前日,教会を訪れたロックは,「患者の命を救うために,(当時教会が禁止していた)帝王切開を実施したことがある」と懺悔した。これに対し,懺悔に立ち会った神父は,「重大な罪を犯した」と,ロックの罪を許すことを拒否した。「罪人」のまま神の前で式を挙げることはできないと悩むロックを見かねて,新婦の母親がオコーネル枢機卿に相談したところ,枢機卿は,ロックを咎めるどころか,笑って罪を許したのだった。「罪を許すか許さないか」というもっとも基本的な判断が,個々の聖職者によって180度変わるという事実に,ロックは大きな衝撃を受けたという。

避妊法普及活動を支えた人生訓

 「自己の良心が信ずるところと,聖職者が信ずるところとが違い得る」ということを明瞭に認識する体験をしたという理由も大きかったが,ロックが避妊を支持するようになった最大の理由は,「望まない妊娠」故に苦しむ幾多の患者を診てきた,産婦人科医としての臨床経験だった。医師として,避妊普及の必要性を信じるようになったロックは,ピンカスと関わるはるか以前から,避妊普及のための活動を始めていたのだった。

 例えば,1931年,ボストンの高名な医師15人が,州に対し,避妊合法化を請願した際,カソリックの医師で請願に加わったのはロックただ1人だった。また,36年にローマ教会が「荻野式」による避妊を公認した直後,ボストンで最初の「荻野式」クリニックを開いたのもロックだった。さらに,教授として,ハーバード大学医学部の学生講義でも避妊法を教えたが,当時の医学教育ではきわめて異例のことであった。

 ロックは,「自己の良心に忠実であること」を最大の人生訓にしたというが,教会が何と言おうとも,自己の良心に忠実であろうとすれば,避妊法普及活動を続ける以外に道はなかったのだった。

この項つづく

:オコーネル枢機卿が結婚式を執り行うのは,ジョー・ケネディとローズ・フィッツジェラルド(第35代大統領ジョン・F・ケネディの両親)の式以来,2度目のことだったという。