医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第73回

ピル(医療と性と政治)(5)
大富豪

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2659号よりつづく

〈前回までのあらすじ:「望まない」妊娠から女性を解放するために,サンガーは,安全・安価・効果的な避妊法の開発をめざした〉

 前々回,経口避妊薬「ピル」の誕生には2人の「母親」が関わったと書いたが,マーガレット・サンガーと並んでピルの母親役を務めたのが,大富豪キャサリン・マコーミックだった。

マコーミックを襲った不幸

 マコーミックは,1875年,シカゴの旧家デクスター家に生まれた(マコーミックの曾祖父は米上院創設時議員の1人であっただけでなく,第2代大統領ジョン・アダムズの下で,戦争相・財務相を歴任した)。マコーミックは,科学に興味を抱き,マサチューセッツ工科大学(MIT)で生物学を専攻,MITに進む女性が数えるほどしかいなかった時代に,数少ないMIT卒業女性の1人となった。

 当時,良家の娘は,大学を終えたら,すぐに結婚するのが習わしだったが,マコーミックも,大富豪マコーミック家の御曹司スタンリーと結婚することになった(スタンリーの父親サイラス・マコーミックは自動刈り取り機の発明で財を成していた)。母親がスイスに所有していたプランギンス城で結婚式を挙行,何不自由ない新婚生活が始まったが,2人の幸せは長くは続かなかった。結婚2年目,夫が統合失調症を発症,社会の表舞台から退かなければならなくなったからだった。

 マコーミックは,愛する夫のために献身的に尽くした。夫のために,サンタ・バーバラの海辺の丘に「城」を建てただけでなく,芸術を愛する夫が,毎日,美しい花々と音楽に囲まれて暮らせるようにと,庭師を40人,ミュージシャンを6人雇ったほどだった。

マコーミックがサンガーの避妊普及運動に協力

 当時,統合失調症は「子供に遺伝する」と信じられていたこともあって,マコーミックは「生涯子供をつくらない」ことを誓った。避妊法に強い関心を抱くようになった背景には,自身の結婚生活における悲劇が大きな影を落としていたのである。やがて,女性参政権運動に関わるようになったが,マコーミックにとっては,「女性が自分の体をコントロールする権利」は,投票権と変わらず重要なものとなったのだった。

 1917年,マコーミックは,サンガーの講演を聞いたことがきっかけとなって,その避妊普及運動に資金援助をするようになった。それだけでなく,毎年,夏は,結婚式を挙げたスイスの城で過ごすことにしていたが,その習慣を利用して,資金援助以外でもサンガーに協力するようになった。ヨーロッパからアメリカに帰る時には,いつも,サンガーのために,ペッサリーを「密輸入」したのである。

 しかし,いくら大富豪とはいっても,サンガーに対するマコーミックの資金援助は「つましい」ものにならざるをえなかった。禁治産処分を受けていた夫の資産は,夫の実家が設立した財団の管理下に置かれていたために,高額の「寄付」をしたくとも,自分の思いのままにはならなかったからだった。財団は,統合失調症研究支援のための寄付には同意したが,避妊普及運動の重要性にはまったく理解を示さなかった。

「学術的な研究」ではなく「実用化」!

 47年,夫が死亡,マコーミックはその巨額の遺産を相続した。財団との間の財産移行手続きには数年がかかったが,避妊普及運動のために,思う存分貢献することが,ようやく可能になったのだった。

 マコーミックは,「アスピリンのように簡単に飲める薬で避妊を実現する」という,サンガーのアイディアに魅了された。学生時代,MITで生物学を専攻していたこともあり,マコーミックは,「科学の力」を深く信じていた。

 50年10月,マコーミックは,サンガーに宛てた手紙で,「最近心を占めている2つの疑問」について言及した。「(A)産児調節運動にとって,財政援助が一番必要な分野は何か? (B)経口避妊薬の研究が成功することの可能性をどう見るか?」の2点をサンガーに問いただしたのだった。

 サンガーは,経口避妊薬研究への資金援助を始めることをマコーミックに強く勧めるとともに,いくつかの大学に研究資金を配分することを提案した。しかし,マコーミックは,「学術的な研究」に資金援助をする気は一切なかった。すでに70歳を超えていたが,「自分が生きている間に,経口避妊薬を実現する」ことを新たな目標にしていたマコーミックにとって,「実用化」のための研究以外に金を出す考えなどさらさらなかったからである。

 53年6月,サンガーは,マコーミックを連れて,マサチューセッツ州ウースター市郊外にある,小さな研究所を訪れた。経口避妊薬を実用化することができるただ1人の研究者としてサンガーが白羽の矢を立てた,グレゴリー・ピンカスが所長を務める研究所だった。

この項つづく