医学界新聞

 

名郷直樹の研修センター長日記

24R

自然なこと

名郷直樹   地域医療振興協会 地域医療研修センター長
横須賀市立うわまち病院
市立伊東市民病院
東京北社会保険病院臨床研修センター長


前回2654号

□月●×日

 へき地診療所を離れて8か月。いまだにいろんなことを思い出す。思い出すというより,一度も忘れていない,そう言ったほうが正確か。それもいいことばかり思い出す。いいことばかり覚えている。本当は,悪いこと,いやなことも,いっぱいあったのだけれど。なんでだろう。そんな理由の1つが今日はっきりした。

 しばらく顔を合わせなかった研修医の1人に,久しぶりに顔を合わせた。研修医が忙しい時ほど会えないというのはどんなもんか。何とかしないといけないな。ここは一声かけておこう。

「どう?」
「ええ……受け持ちの患者さんが亡くなって……」 と言い始めて,もう涙が止まらない。

 肺気腫による呼吸不全で,厳しい状態の85歳の患者さんが,病室で亡くなっている状態で発見されたらしい。どうしてもっと早く危ないサインに気づけなかったのか。私がもっときちんと患者さんを把握していれば,こんなことにならなかったかもしれない。患者さんを亡くした悲しみと,自責の念で,涙が止まらない。

 病院で死ぬこと,なんて本があった。読みたいけど読んでない。病院で死ぬ患者さんに向き合う研修医たち。そういう研修医に何とか向き合いたいと思っている私自身。ただ私自身がへき地の現場で向き合ってきた死と,研修医が病棟で向き合う死のギャップにめまいがする。私が研修医に言いたいことはただひとつ,はっきりしているのだけど,うまく言える気がしない。

 人は,生まれて,死ぬ。自然なことだ。生まれて,病気になって,死ぬ,というのはどうだろう。それは自然なことだろうか。それを不自然と考えるからこそ,入院してもらって,一所懸命治療し,何とかしようとする。研修医は,その中で自分が至らなかったり,何か失敗をしたために患者が亡くなってしまったのではないかと,自分を責めることになりやすい。確かにそれは重要なことだ。まさしくそうならないように,毎日研修を積んでいる。研修医の気持ちはまったくもって当然で,むしろきちんと評価してやるべきものだ。しかしその反面,この患者さんの死は,実は悲しむことではないかもしれない,それも伝えたいもう1つのこと。そしてむしろそれが本当に伝えたいことだったりする。

 自分自身がへき地医療の現場で向き合ってきた死は,むしろ逆のものだった。生まれて,病気になって,死ぬ。それはごく自然なことだった。決して不自然なことじゃない。助かるような,医者が役に立てるような患者は,全部病院に送って,医者がいなくてもいいような死だけに向き合ってきたからそう思うのだ。そうかもしれない。そういう部分もあるけど,決してそれだけじゃない。同じ患者さんを思い浮かべて,この患者さんがもし病院で亡くなるとしたら,そう考えるとぞっとすることも多々あった。自然なことのせめて邪魔をしないために,医者としての仕事がある。わかりにくい仕事だ。それは,医者はいらないということかもしれないし。

 それでも,やはりこう言いたい。人が死ぬのは自然なことだ。悲しむことは何もないのだ。むしろ喜ぶべきことなのだ。ただ,今研修医にそう言ったとしても,何も伝わらないだろう。でも本当に言いたいことはそんなことだ。死ぬのを止めることなんかできない。むしろ死ぬのを邪魔しないことのほうが重要かもしれない。それがへき地診療所での私自身の実感だ。でもその実感は,病院で働く人たちの実感とは多分かけ離れている。そうでない普通の人ともかけ離れているかもしれない。理解してもらえるのはストリーキングだけか。

 服を着るのはなぜだろう。身体を隠すため。隠さなくてならないのはなぜ? 自然だから? 自然は隠されたとたんに不自然となる。人間は,この時点で,もう後戻りできない道に踏み込んでいる。自然は隠すべきものだ。人間の中の自然は隠さなくてはならない。自ら不自然なものになる。意識してはいないが,人間にとって根源的なルールの1つだ。少しわかりにくいかもしれない。身体なんてあいまいなことをいわずに,性器の問題にすればもっとクリアになる。性器は隠すべきもの。性器は自然だから。人間にとって自然な部分は隠さなくてはいけない。もう人間は自然ではないのだから。性器も不自然なものになる。服を着ないで道を歩く,そりゃもう無理だ。

 身体や性器が本来自然であるように,病気も自然だ。だから病気も隠すべきもの。病気を隠すための機関としての病院。面会謝絶,病院を象徴する言葉の1つだ。象徴するだけで,もちろん現実は変わりつつある。私が研修医のころ,臨終の場になると家族が病室の外に出される,そんなことがよくあった。ただ,今では臨終の場に家族がずっと付き添う病院というのがむしろ普通だろう。しかしそれは何も病院が進んでいるわけじゃない。へき地診療所の方がよほど進んでいた。病気を自然ととらえ,隠さないで明らかにする在宅の現場。在宅の現場では,まだ亡くならないうちから,多くの人が訪れて,臨終の場は決して隠されない。隠されないどころか,大人や,子供を含め,家族,親戚,近所の人,多くの人が集まる場になる。面会謝絶という病院を象徴する札が,そうした臨終を迎えようとする患者を看取る家の玄関に,掲げられたのを見たことがない。それは自然なことだからだ。

 いいことばかり思い出す。自然なこと。それが受け入れられるということ。それは本当にすばらしいことだった。いや違う。それは普通のことだった。すばらしいことではない。それこそ自然なことだった。人間は,この身体をもってしか生きられない。

 ただ研修医にかける言葉が見つからない。するとひとしきり泣いた研修医が言う。

 「今日はもうこれ以上話せません。でも大丈夫です。少し落ち着きました」
 「この患者さんが亡くなったことについて,また改めて振り返ろう。でも死ぬのは自然なことなんだ。何の話だかよくわからないかもしれないけど」

 余計なことを言ってしまったかもしれない。不自然な言葉で。悲しい時は泣く。自然なことじゃないか。問題の根は深い。

次回につづく


名郷直樹
1986年自治医大卒。88年愛知県作手村で僻地診療所医療に従事。92年母校に戻り疫学研究。
95年作手村に復帰し診療所長。僻地でのEBM実践で知られ著書多数。2003年より現職。

本連載はフィクションであり,実在する人物,団体,施設とは関係がありません。