〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第72回
〈前回までのあらすじ:1914年,避妊についての情報を広めた罪で訴追されたサンガーは,イギリスへと逃亡した〉
イギリスに到着したサンガーは,ネオ・マルサス主義の人口抑制論者たちとの親交を深めた。15年には,オランダの避妊クリニックを訪問,「避妊についての情報は,個人が自助努力で学ぶものではなく,医療者が啓蒙すべきもの」との認識を深めたのだった。
帰米直後,サンガーは,5歳の娘,ペギーを肺炎で亡くすという悲劇に見舞われた。悲しみに耐えながら来るべき裁判に備えたが,なぜか,米政府はサンガーに対する訴追を取り消した(註1)。
サンガーたちが配ったビラには「お母さん方,家族が多い負担は大変ではありませんか? 大変なのに,もっと子供がほしいのですか? ほしくないのならなぜ作るのですか? 命を犠牲にしてはいけません。予防すればいいのです。経験豊富な看護師が安全無害な情報を提供します。お友達や近所の方といっしょにいらしてください。10セントの登録料を払ってくださった方には,すべての情報を提供いたします」といった内容が,英語とイディッシュとイタリア語とで書かれていた(註2)。
クリニック開設日,患者が戸口に行列を作り,サンガーたちを感激させた。評判が広がり,他州からも患者が訪れるようになったが,避妊情報を流布することは明瞭な違法行為であり,警察がサンガーたちのおおっぴらな避妊普及活動をいつまでも見逃すはずはなかった。クリニック開設10日目,警察が襲来,サンガーと妹は逮捕された。
控訴審でも有罪となったが,サンガーは「医師が避妊法を広めることは法に触れない」とのお墨付きを裁判所から得ることに成功した。このお墨付きの下,サンガーは,医師を責任者にすることで,合法的に避妊クリニックを開くことができるようになったのだった。
とはいっても,サンガーが活動を始めた当初,医師たちの避妊普及に対する態度は冷たかった。しかし,運動への支持が広がるとともに,医療界の考え方も変わり,36年に「医師による避妊器具輸入・患者への提供は合法」との法廷判断が示された後,アメリカ医師会は,37年に「産児調節は,まっとうな医療行為」と,正式に「認知」したのだった。
組織的活動の表舞台からは一時遠ざかったものの,サンガーは,オランダから「密輸」したペッサリーを米国の企業に模倣製造させたり,殺精子ゼリーの研究を援助したりと,「便利で安価で効果的な避妊法」を追求する努力を止めることはなかった。50年代に入って経口避妊薬「ピル」の研究開発を推進したのも,サンガーにとっては決して突飛な行動ではなく,ずっと続けてきた努力の延長線上での活動にすぎなかったのである。
(この項つづく)
註1:H・G・ウェルズなど,英国で親交を深めた知識人たちが,サンガーのためにウドロウ・ウィルソン大統領に宛てた嘆願書が訴追取り消しに結びついたと言われている。
註2:1900年代始め,東欧・ロシア(ほとんどがユダヤ人),イタリア出身者が,米国移民の主流を占めた。
註3:サンガーたちの刑務所内でのハンガー・ストライキを伝えたニューヨーク・トリビューン紙は,社説で「避妊法を広めようとして刑務所に入れられた女性がいたなど,50年後の女性に信ずることはむずかしいだろう」と書いた。