医学界新聞

 

カスガ先生 答えない
悩み相談室

〔連載〕  6

春日武彦◎解答(都立墨東病院精神科部長)


前回2650号

Q 臨床医の喜びとは,患者さんが治癒して笑顔を取り戻す瞬間にあるのでしょうか。そうなると回復が困難な患者さんを扱っている医師はどのようなことを心の拠り所にするのでしょう。わたしの友人の1人は,むしろ自分の技術的な成熟が喜びであると割り切っていますし,喜びを求めること自体が傲慢であるという人もいます。先生はかなりドライな発想をお持ちのようですが,本音をお聞かせください。(研修医・♂・26歳・ローテーション中)

-フレンチ・レストランの夢

A たしかにちゃんと治る病気でしたら,自分が善人になったような錯覚を覚えられて気分がいいですよね。オレの技量も満更ではない,と自惚れることもできるかもしれない。しかしどんな名医が対処しようと無理な病気,現代医学では今のところどうにもならず,治癒が望めなかったり深刻な後遺症をもたらしてしまうケースはいくらでもあるわけです。

 わたしが携わっている精神医療の分野でも,無力感を覚えさせられることはいくらでもあります。そうしたケースで,Nさんのことをお話ししてみたいと思います。彼は熟年の独身男性で,統合失調症を患っていました。治療開始のタイミングが遅れ,幻覚や妄想は押さえ込んだものの人格水準はかなり低下し,生活保護を受けながら作業所へ通う程度がせいぜいといった見通しの人でした。

 そんなNさんには,小さなフレンチ・レストランを開きたいといった目標がありました。実際,彼は若いころに大衆食堂みたいなところで働いていたことがあるようなのです。だが小さい店なりにフレンチのシェフとなると,話は違ってきます。調理師免許もちゃんと持っていないのです。ただし暇なときはいつも料理の研究書をベッドで繙いていました。

 レストラン開店への「こだわり」は強いのですが,そのための段取りがまったくできません。院外外出の時間には,店舗にふさわしそうな物件を不動産屋へ物色に行くのが通例でした(資金もないのに)。処方薬については,味覚に影響が出るからと服用を嫌がります。ストレス耐性が弱く,対人関係もろくに結べず,毎日病院食を摂りながらフレンチ・レストランもないだろうとわたしは思っていました。病棟のレクリエーションで素麺作りをしたときも,彼は「麺つゆ」の瓶を珍しそうに眺めているだけで,何もしませんでした。

 あんまりNさんがレストランにこだわるので,じゃあ自分の料理の腕には自信があるのですかと尋ねてみました。すると,「まあまあです」と答える。そこで,デイケアの調理室を借りて,「ひとつ僕にプレーン・オムレツを作って食べさせてくださいよ」と言ってみました。もちろん材料も用意しておきました。

 わたしの心づもりとしては,彼はどうせ料理なんか作れないだろうから,この機会に現実へ直面してもらおうと目論んだわけです。

 ところが意外にもNさんは手際よく調理を進めていく。あっという間にプレーン・オムレツを作り上げました。わたしと担当ナースとで早速試食させてもらいましたが,なかなか美味いのです。その瞬間にわたしは何を感じたか。ささやかだけれども純粋な喜びでした。ナースと顔を見合せ,思わず笑みがこぼれてしまいました。ああNさんのレストラン開店の夢は,本人としてはちゃんと根拠のある話だったのだなあ。「麺つゆ」の瓶を眺めているだけの彼だったけれど,しっかりとプレーン・オムレツを作れるだけの能力が秘められていたのだなあ。そうした感慨は,つまり他人の可能性を信ずる気持ちに通じて,とても肯定的な感覚に包まれたということなのでした。わたしはNさんをみくびっていた。嬉しい驚きを彼はもたらしてくれたのでした。

 ただし,だからと言ってNさんがフレンチ・レストランのオーナーシェフとしてやっていけるかといえば,それはまた別な話です。実務的なことや接客などを考え合わせれば,やはりレストランは無理です。なまじっか料理の腕があるだけ,なおさら夢を諦めにくい厄介な事態であることが証明されたとも考えられます。客観的に眺めれば,事情はちっとも好転していない。けれどもわたしとナースとNさんとの間には,ひとつの信頼関係が生じたのでした。

 わたしは彼の料理の腕を認めつつも,なおレストランを営むことに対しては反対をしていくだろう。が,それは何の能力も持たない人に反対するのとは違う。料理人としての彼を認めつつも,レストランを現実に経営していくことは難しいといった話になるわけで,そういったやりとりは以前と違ってもっとリアリティーに満ちた形となるでしょう。

 わたしはNさんを通して,他人の能力とか可能性を発見することには喜びが伴うことに気づかされたのでした。換言すれば,相手を尊ぶ姿勢を学ばせられた。そのような僥倖は医師に限った話ではないでしょうが,少なくとも自分なんかよりもNさんのほうが料理の腕を持っていることを知るのは,何と言えばいいのでしょうか,医師と患者という単純な二項対立を越えるイメージをもたらしてくれたように思えて嬉しかったのですね。

 だからどうなんだと切り返されたら返答に窮してしまいますけれど,わたしとしてはとにかく人間が秘めた多様性や可能性に関われるということが,まさに職業上の喜びなのであります。

次回につづく


春日武彦
1951年京都生まれ。日医大卒。産婦人科勤務の後,精神科医となり,精神保健福祉センター,都立松沢病院などを経て現職。『援助者必携 はじめての精神科』『病んだ家族,散乱した室内』(ともに医学書院)など著書多数。

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