医学界新聞

 

名郷直樹の研修センター長日記

22R

何もなかった頃から考える

名郷直樹   地域医療振興協会 地域医療研修センター長
横須賀市立うわまち病院
伊東市立伊東市民病院
東京北社会保険病院臨床研修センター長


前回2642号

□月×○日

 中学生以来の日記を書き始めて半年。心に移りゆくよしなし事を,そこはかとなく書きつくれば,あやしうこそものぐるほしけれ,である。誰に向けて,何を書いているのだろう。自分のために,自分以外の誰かのために,あるいは誰のためでもないのか。日記というからには誰にも読まれないように書くのが日記か? あえて誰にも読まれないように書くというのは,実は本当は読んでほしいということではないか? だって読むほうの立場になれば,一番読みたいものって決して他人に見せることを想定していない誰かの日記みたいなものじゃないか。秘密の日記を書くということは,他人が一番読みたいものを書いているということか。そうするとやっぱり本当は誰かに読んでほしいのだ。読んでほしいとすれば,一体誰に何を読んでほしいのか。

 自分について,誰かに,何かを伝えたい,あるいは伝えたくない。そもそも自分って誰? 過去の自分,過去の自分について考えている自分,過去の自分について考えている自分について書こうとしている自分。過去の自分について考えている自分について書こうとしている自分を思い出している自分,過去の自分について考えている自分について書こうとしている自分を思い出している自分について書いている自分。ばかばかしいのでこれで止めにするが,書こうとした瞬間に書こうとする自分がずれていく。日記に書かれている自分はどの自分か? 今のところのわたしの結論としては,多分ではあるが,過去の自分について考えている自分について書こうとしている自分を思い出している自分について書いている自分が書いた自分が,その自分だ。簡単に言うと,気が狂った自分ということか? 自分は気が狂っているのではないだろうか。あやしい。狂っている。あやしうこそものぐるほしけれとはこういうことか! 今,徒然草を完全に理解した(わけないな)。

 臨床医として働かず,一体何をやっているのですか? いつもそう聞かれる。何もしていません,そうはっきりと答えたいが,そういうわけにもいかず,適当に答えている。

 「研修医が私の患者なのです。見学の学生が外来患者,初期の研修医が急性期の入院患者,後期の研修医が慢性期の入院患者,相変わらず幅広い患者を受け持っています」,そんなふうに答えると結構ウケたりする。ウケるだけで自分の仕事について何か具体的に語っているわけじゃない。

 で,本当のところ何をやっているのか。へき地の診療所で,考えることなく,書くことなく,日々の仕事に忙殺されていた頃。そして今,何もしないことを目標に,ここに来た。そして何もしないこと。でも何もしないなんてできないので,考えること,書くこと,話すこと,ただ生きているということ。それを次の目標に,6か月が経った。ただ生きている中で,学生と話し,研修医と向き合い,指導医と議論すること。それらの仕事をただ毎日に埋没させること。何にもないところからもう一度はじめること。

 現代医学が何もなかった頃のこと。現代医学の誕生というのはいつを区切りにするのだろう。クロードベルナール実験医学序説以後か,それともコッホ? 知ってる名前を並べただけだけど,せいぜい数百年の歴史だろう。別にヒポクラテスが最初で,以後数千年の歴史でもいいが,それに先立つこと,現代医学を持たない数百万年の人間の歴史がある。

 そんなことを考えていたら,人類学の本にとても印象的な記述を見つけた。高度な文明を持たない人類の歴史も,滅びることなく数百万年にわたって継続した。逆に今の高度文明が何百万年も持続するかと問われれば,大部分の人がおそらく否と答えるのではないか,そんな内容だった。なるほど。普通なるほど,なんていう時は,ほかに言うことがない時に使う言葉なんだけれど,ほんとうになるほどという感じだ。ちょっと考えればわかることだけど,言われないと気づかない。今もって現代医学を持たない未開の文明がこの同時代に存在しているじゃないか。そういえば誰しも納得することだ。そうした未開な文明が滅びた時,すべてが文明化へ向かった時,人類は滅亡への第一歩を踏み出すのではないか。未開な人類が生き残る限り,人類の歴史の継続は保証されているのではないか。なんといっても数百万年継続しているという強い根拠がある。医療の進歩は人類滅亡への第一歩だったか。

 自分自身はどう考えるのか,継続したいのか,滅亡したいのか,未開にとどまりたいのか,文明化したいのか。未開にとどまり,継続するのもありだな,そう思う。臨床医を辞めて,未開に戻ろう。そんなことを今やっているのかもしれない。

 考えるというからには,元の元から考えたい。人類の誕生から,さらにそれ以前の太古の昔から,といっても,人類の誕生を自分と照らして,太古の昔を自分と照らして,そんなことになってしまって,結局自分のことを考えているということか? ところで自分って何だ。過去の自分,今の自分,もうやめとこう。考え続けることのほうが簡単で,考えるのをやめるほうが難しい。


名郷直樹
1986年自治医大卒。88年愛知県作手村で僻地診療所医療に従事。92年母校に戻り疫学研究。
95年作手村に復帰し診療所長。僻地でのEBM実践で知られ著書多数。2003年より現職。

本連載はフィクションであり,実在する人物,団体,施設とは関係がありません。